第67話 遠ざかる車輪

それから数日の後、盧子幹の元へ、朝廷から再び使者が訪れた。

今度の使者は宦官では無く、数名の捕吏ほりである。


左豊は京師けいしへ帰り着くと、皇帝へ視察の報告を行い、

「盧子幹は、張角を城へ追い詰めながらも策を講ずる事無く、ただ悪戯いたずらに時を費やしております…!我々朝廷の使者をも軽視し、侮辱する有様であり、皇帝の命に従う気も無いものと思われます!あの様な者に官軍を預ける事は、後々災いとなりましょう…!」

そう言って、有る事無い事をのたまわったのである。


当然、それを聞いた皇帝は激怒し、直ちに盧子幹を罪人として、雒陽らくようへ引き連れて来るようちょくを言い渡した。


玄徳が子幹の陣営を訪れた時、縄を掛けられ捕吏に捕われた子幹が、監車かんしゃへと連れて行かれる所であった。


「先生…!」

子幹の元へ走り寄ると、監車の護衛がその前に立ち塞がる。

「お前たち!盧将軍を何処へ連れて行く積もりだ…!」

一緒に走り寄って来た翼徳が、屈強な護衛に食って掛かる。


「玄徳…!構わぬ、わしは間違った事はしておらぬ。堂々と皇帝に会いに行く積もりだ…!」

子幹は毅然きぜんとして、良く通る大声で言い放つ。


取り押さえようとする護衛の腕を押し退け、玄徳は子幹の前に膝を突き、拱手した。

見上げる玄徳の目は赤く染まり、涙で潤んでいる。

それを見下ろしながら、子幹も声を振るわせた。


「わしに、もしもの事があれば…君が、わしの兵たちの面倒を見てくれ…!」


そう言い残し、子幹は足を早めて、自ら監車へと乗り込んで行った。

やがて、その場に跪いたままの玄徳の耳に、動き出した監車の大きな車輪のきしむ音が届く。


監車は左右に大きく揺れながら軍門を潜り、陣営から次第に遠ざかって行った。

玄徳はひたすら涙をこらえ、拳を膝の上で固く握ると、強く瞼を閉じた。





垂れ込めた暗雲で空は薄暗く、 しきりに降り注ぐ雨は、いつ止むとも無く激しさを増している。

辺りは起伏きふくの少ない地であり、晴れていれば何処までも続く山々を遠望出来るであろう。

降りしきる雨の中、暗がりへ続く道は、まるで深い闇の奥へと繋がっているかの様である。


そんな長い土砂降りの道の上を、馬を急がせて走る一塊いっかいの集団があった。


彼らは武装した護衛を引き連れてはいるが、軍隊では無い。

集団の中心にいる人物は、賈人こじんの身なりをしていた。


やがて彼らの前方に、何人かの人影が連なって道を塞いでいるのが見えて来た。

子要しよう様、あれを…!」

仲間の一人が、中心の人物に呼び掛けた。


「くそ、盗賊の一味か…!」

彼は舌打ちをし、仲間に合図を送ると、やむなく集団を停止させた。

後方からは、馬に乗った別の集団が姿を現す。


「がっはっはっ!もう何処へも逃げられぬぞ…!」

追い付いて来たのは盗賊たちである。

先頭に立つ濃い髭面の大男は、剣を抜き放ちながら、醜く口をゆがめて嘲笑あざわらう。


賈人の集団は、完全に盗賊たちに取り囲まれてしまった。

「…!わかった、抵抗はしない…!」

「子要」と呼ばれた若い男である。

彼は仲間たちに指示し、集団が引いて来た荷車から金目の品物を取り出し、盗賊たちに差し出させた。


「おい、これっぽっちか?!」

大男はわめくと、集団の後方にある一際ひときわ大きな荷車を指差した。

「あれだ!あの中身を持って来い…!」


それを聞いた子要は、一瞬で顔を強張こわばらせた。

「あ、あれは…!あれだけは、どうか…」

上擦うわずった声で男の前に膝を突き、両手で拝手し必死に哀願する。


男は馬を降りると、いきなり子要を足蹴あしげにして後方の土砂の中へ突き飛ばし、自分の顎髭をしごきながら、舌舐めずりをして大きな荷車へと近付く。


「黙れ!それだけ言うからには、相当な値打ち物が入っていると見た…!」

男は、「ひひひ」と下衆げすな笑い声を立てながら、乗せられた積み荷の、巨大な箱に取り付けられた錠を剣で叩き壊す。


男が箱を蹴り破ると、その中は漆黒の闇である。


仲間に助け起こされた子要は、沈痛な面持おももちで男を見詰め、首を左右に振りながら小さく呟いた。


「止めておけと言ったのに…」


箱の中へ入った男は、真っ暗な中を手探りで探る。

だが男の手は空を切るばかりで、触れる物は無い。


「何だ…?何にも入っちゃいねぇじゃねえか…!」

男が訝しげに言った時、ふと何かの気配を感じ立ち止まった。

男の鼻面はなづらに、何やら生暖かい物が触れる。


突然、どかんと何かが弾ける様な巨大な音が鳴り響き、荷台の箱が粉々に吹き飛んだ。


吹き飛んだ木の板が、子要たちの方にまで飛んで来て、次々と泥濘ぬかるんだ地面に突き立つ。

驚いた彼らと盗賊たちは、慌てて地面にうずくまり、身を守った。


更に、上空へ飛ばされた大男の体が、回転しながら地面に落下し、ぐしゃりと鈍い音を立てて崩れ落ちた、


「ひいぃぃ!お、おかしらーー!!」

盗賊の仲間たちは全員蒼白になって、不自然に折れ曲がり、絶命したかしらを見下ろす。


やがて、粉々になった箱の欠片を踏み付けながら、黒い大きな影が荷台の上に揺らめいているのが見えた。


「お、おい…!何だあれは?!か、怪物か?!」

「ひえ…!に、逃げろーー!」

盗賊たちが叫び声を上げると、その黒い大きな影は荷台から飛び出し、阿鼻叫喚あびきょうかんする盗賊たちの集団に襲い掛かって行く。


怪物は彼らの頭上を跳び、恐るべき怪力で次々と人を馬から突き落としては、巨大な足で踏み潰す。

辺りには盗賊たちの死骸が次々と積み上げられて行った。


恐怖に捕われ、完全に混乱に陥った盗賊たちは、散り散りになりながら、命からがらにその場から逃げ去った。


後には、無残に踏み潰された盗賊たちの死骸が散乱している。

その周りを、荒れ狂う様に走り回っているのは、一頭の巨大な馬であった。


赤いたてがみに、赤い馬体のその大きな馬は、雨に濡れた体から真っ白い湯気を立ち昇らせている。

その姿は、正に怪物そのものであった。


ようやく捕らえて、閉じ込めておいた"赤兎馬せきとば"だと言うのに…」


子要は苦笑いを浮かべながら、暴れ回る赤兎馬を見詰めていた。


するとその時、逃げて行った筈の盗賊たちであろうか、再びこちらへ向かって来る集団がある。

子要は仲間たちに合図し、武装した護衛たちに積み荷を取り囲ませた。

身構えてそちらを凝視すると、こちらへ走って来る盗賊たちは、次々に土砂の中へと倒れて行く。


一体何が起こっているのか…?!


良く見ると、何者かが後方から、盗賊を弓矢で射殺しているらしい事が分かった。


これ程の豪雨の中で、確実にまとを射抜くとは、もしや…!


子要には、それ程の弓矢の腕前を持った人物は、たった一人しか思い浮かばなかった。


やがて雨の中から浮かび上がったのは、騎馬の上で弓矢を構える一人の大男であった。

歳の頃は四十を越えた辺りであろうか、男の眼光は鋭く、飢えた狼の様であり、屈強くっきょうたくましい体格の持ち主で、銀色に輝く髪を肩に長く垂らしている。


男は真一文字に口をつぐんで馬上で弓を引くと、遥か遠くへ逃げて行く盗賊に狙いを定め、騎馬で駆けながら矢を放つ。


矢は盗賊の背中を貫き、その勢いで射抜かれた盗賊の体は宙を飛び、勢い良く子要の足元へ叩き付けられた。


董仲穎とうちゅうえい殿、一体どうして此処へ…?!」


子要は驚きの表情で、馬上の男を見上げる。


「お前たちの到着が遅いのでな…面倒に巻き込まれておらぬかと心配して、見に来てやったのだ。それに…一刻も早く、わしの赤兎馬を見たかったからな!」


仲穎は低音だが、良く通る大声でそう言うと、雨が目に流れ込む事も気にせず豪快に笑声を放つ。

そしてその視線の先には、なだめようと必死になる人々を嘲笑うかの様に、暴れ狂う赤兎馬の姿があった。

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