第62話 陰謀


馬上で意識を失い掛けていた孟徳は、後方から走り寄った騎馬兵に体を支えられ、味方にも気付かれぬ内に、そのまま戦場を離脱した。


少し走った場所にある林の中へ駆け込むと、その兵士は素早く孟徳を馬から降ろし、木の根元へ彼の体を横たえた。

孟徳は重い瞼を開き、苦しげに喘ぎながら、その者を見上げた。


「…翠仙…?お前か…?!」


その兵がかぶとを外すと、長い髪が肩を滑り落ちる。

翠仙は兵士の格好で武装し、孟徳の部隊に紛れ込んでいたのである。


「お前…俺に、毒を盛ったのか…?」


「ごめんなさい、孟徳様…」


翠仙は、激しく肩で息をする孟徳を、悲しげな眼差しで見詰めた。


「でも、渡された量の半分も入れていないから、命を落とす事はありません…」

そう言うと、翠仙は素早く孟徳の兜を外し、着ていた紅い戦袍を脱がせ始める。


「翠仙…?何をしている…?」

「少しの間、体の麻痺が続くでしょうが、我慢して下さいね…直ぐに、お仲間を呼んで来ますから…」

そして顔を上げると、孟徳の冷たい手を強く握り、自分の胸に押し当てた。


「私は、張譲様にお仕えしている刺客です…!あなたを戦死に見せ掛け、命を奪うのが目的で、私はあなたに近付いた…」


翠仙は瞳を潤ませながら、青白い孟徳の顔を覗き込む。


「私は、ただの道具に過ぎず…自分でもそう言い聞かせて、今まで生きて来ました。でも、あなたは…あなただけは、私を人として、一人の女として扱ってくれた…!あなたと共に過ごした時間ときは、本当に私にとって大切な、幸せな時間ときでした…!」


翠仙の頬を、溢れた涙が伝い、孟徳の冷たい手の上にこぼれ落ちた。


「孟徳様…!私は、あなたとずっと一緒に居たかった…あなたを、心から愛しています…!」


そう言うと翠仙は、孟徳に額を寄せ、血の気の引いた孟徳の唇に、そっと自分の艶やかな唇を重ねた。


やがて閉じた瞼を開き、潤んだ瞳のままで孟徳を見詰めた後、翠仙は立ち上がり、孟徳の紅い戦袍を身に纏った。


「翠仙…!どうする気だ…?」

孟徳は必死に体を起こし、翠仙の足元へ這い寄ろうとしたが、体が言う事を聞かない。

翠仙は兜を被り、孟徳の白馬に跨がると、振り返って叫んだ。


「孟徳様は、命を狙われています。そこから、動かないで…!」


そして白馬の腹を蹴ると、再び戦場へ向けて走り出す。


「待て…!翠仙、行くな…!」


孟徳は力の限りに叫んだ。

遠退く意識の中で、翠仙の姿は次第に霞んで行く。


翠仙…!俺も、お前を愛している…!


そう叫びたかったが、最早、翠仙は手に届かない所まで行ってしまった。

孟徳は地面に這いつくばり、やがて意識を失って、その場に倒れ込んだ。



白馬から転落する孟徳の姿に、虎淵は絶叫した。


「孟徳様ぁーーーっ!!」


虎淵は孟徳の元へ駆け寄り、直ぐに馬から飛び降りると、全身に矢を受けて倒れた彼の体に取りすがった。

体を抱き起こし、腕で彼の肩を支えた時、兜が外れ、長い艶やかな黒髪が地面に流れ落ちた。


「あ…あなたは…?!」


驚いた虎淵は言葉を失った。

腕の中にいるのは孟徳では無く、彼と共に居たあの黄巾の美少女、翠仙である。

血の気を失った翠仙は、瞼をゆっくりと開いて、力無い目で虎淵を見上げた。


「孟徳様は…ご無事です…あの、林の中に…」


翠仙は血に染まり、震える指先で遠い林の方を指差した。

そして虎淵の手を掴むと、力を振り絞って彼の体を引き寄せる。


「刺客に、お命を狙われておいでです…どうか、孟徳様を…まもって…!」

消え入りそうな声で、翠仙は虎淵の耳元に囁いた。


「刺客とは、どういう事です…?!」

虎淵は聞き返したが、次の瞬間、翠仙は激しく吐血し、苦しそうに体をけ反らせた。


「翠仙殿…!しっかりしろ…!」


虎淵は目を潤ませて叫び、必死に翠仙を抱き起こす。


「はぁ、はぁ…孟徳様に、これを…!」

翠仙は喘ぎながら、首に掛けた翡翠ひすいの首飾りを取り出すと、それを虎淵の手に握らせた。


「ごめんなさい…どうか、ゆるしてと…伝えて…!」


翠仙の瞳から涙が流れ落ちる。

やがて翠仙の手から力が失われ、握り締めていた虎淵の手を滑り落ちた。


「翠仙殿…!」

虎淵は叫び、強く瞼を閉じると、涙をこらえながら翠仙の体を強く抱き寄せ、彼女の上にかぶさる様にして嗚咽おえつした。



ひつぎに収められた孟徳の遺体と対面した王子師は、それを見て声を失った。

振り返って虎淵を見ると、虎淵は小さく頷きながら、黙って目で合図を送る。

子師は再び柩に向かうと、暫し瞑目めいもくした。


「どういう事か、説明してくれぬか…?!」


夜更け、虎淵の幕舎へ現れた子師は、虎淵に鋭く迫った。


「これは、陰謀です…誰かが、戦場に刺客を送り込み、孟徳様のお命を狙ったのです…!」

「陰謀だと…?!一体誰が、曹孟徳殿の命を狙うと申すのか…?」


驚きの声を上げた子師は、せぬといった表情で、冷静な面持ちの虎淵を見詰めた。


「…それは…」


虎淵は静かに瞼を閉じ、小さく息を吸い込んだ後、吐き出すと同時に瞼を上げ、鋭い眼光で前方を見据えた。



「張譲様…!あなたです…!」



虎淵の声が宮殿に響き渡ると、朝廷内の全員が息を殺し、静まり返った。

彼の視線の先に立つ張譲は、一瞬、わずかに息を呑んだが、眉目を動かす事無く虎淵を睨み返している。


「一体、何を根拠に…その様な戯言たわごとを申すのか…!」

張譲は不服を目の色ににじませ、吐き捨てる様に呟いた。


「では、張譲様も柩の中を、ご確認下さい。」

そう言うと、虎淵は柩から少し離れ、中を見るよううながす。

張譲は、渋い表情のまま柩の方へ足を運ぶと、そっと中を覗き込んだ。


「……?!」


それを見た張譲の顔は、見る間に青褪あおざめる。

柩の中に横たわっているのは、孟徳の戦袍せんぽうを纏ってはいるが、死化粧しにげしょうを施された美しい少女であった。


「そのを、ご存知ですか?黄巾党の捕虜たちに紛れ込み、巧みに孟徳様に近寄った、翠仙と言う少女です…!」

「そんなむすめを、わしが知る筈が無い…!」

虎淵の問い掛けに、張譲は怒りの表情で答えた。


その時、宮殿の入り口に現れた人影に、朝廷内は再びざわめきを取り戻す。

それに気付き、宮殿の入り口を凝視した張譲は思わず狼狽うろたえ、声を震わせた。


「まさか…!生きていたのか…!」


「張譲殿、残念ながら、あなたの計画は失敗に終わった。あなたはそのを使って、俺を破滅させようとしたが、自らを破滅に導いてしまった様だな…!」


そこに立っていたのは、曹孟徳である。


「曹孟徳…!生きておったのか…!」

皇帝は、驚きを隠せない顔で孟徳を見たが、直ぐに安堵の表情を浮かべた。

孟徳は歩を進めて宮殿の中へ入り、皇帝の前まで来ると、膝を折り稽首けいしゅした。


「敵を欺くには、先ず味方から…と、昔から申します。」

立ち上がった孟徳は、そう言って皇帝に微笑を返した。


「死を前にして、翠仙は俺に真実を明かした。最早、逃げ隠れは出来ぬぞ…!張譲殿…!」

振り返った孟徳は、柩の脇で呆然とする張譲を睨み付ける。


「馬鹿な…!何処の馬の骨とも分からぬ小娘の言う事を、誰が信じると申すのか?!」

張譲は声を荒げると、柩を指差しながら怒鳴った。


「翠仙は…自らの命をなげうって、俺を助けたのだ…!あなたは死者に対し、敬意を払うべきでは無いか…!!」


孟徳は眼光に怒りを込め、睨み据えた。

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