第58話 翠仙


新たに編成された部隊には、朝語り合った黄巾党の者が数多く居た。


「孟徳殿の説得で、我らに味方する者が、日に日に増えている。中々やるではないか…!」

皇甫嵩はそう言って笑い、孟徳の肩を力強く叩いた。

孟徳は皇甫嵩に微笑を返し、自軍の兵士たちを振り返った。


皆が俺の言葉を信じ、付いて来てくれる…

これまで、一人で巨大な敵に立ち向かっていたが、今は違う…生死を共にする仲間が居るのだ…!


この乱を鎮め、必ず夢を実現させる…!

孟徳は新たな決意を胸にいだき、颯爽さっそうとして馬にまたがった。


その時、突然、孟徳の馬の前に走り寄って来た者がある。

孟徳は咄嗟に馬の足を止め、その人物を見下ろした。


「孟徳様!私も、一緒に連れて行って頂けませんか…!?」

そう言って地面に膝を突き、孟徳を見上げるのは、翠仙である。


頭に巻いた黄巾は既に取り去り、黒く長い髪を風に靡かせている。

黒い大きな瞳を輝かせ、孟徳をじっと見詰めていた。


「翠仙…!?お前はもう、解放されたのだ…故郷くにへ帰れ…!」

そう言うと孟徳は、馬首を進行方向へ向け直し、翠仙の横を通り過ぎようとした。

しかし、立ち上がった翠仙は、孟徳の馬に追い付こうと走り出す。


「私には、帰る場所は有りません…!兄は黄巾党の兵士として、今も戦場で戦っているでしょう…一緒に行けば、兄とも再会出来るかも知れない…!どうか私も、連れて行って下さい…!」


「駄目だ…!俺の部隊に、一人だけ女の兵士を入れる訳には行かぬ…!諦めろ…」

孟徳は冷たく言い放ち、馬の足を速めた。


翠仙は、その美しい瞳から大粒の涙をこぼし、頬を濡らしながら、目の前を通過して行く孟徳の部隊を見詰めた。

やがて全部隊が通過し終わる頃、前方から騎馬が一騎、せ戻って来た。


「兄が見付かるまでの間だ…!それまでなら、一緒に行っても良い。ただし、俺のそばから決して離れるなよ…!」


馬上の孟徳に言われ、翠仙は濡れた瞳のままで強くうなずき、引いて来た馬に素早く跨がった。



長社ちょうしゃでの戦いに勝利した皇甫嵩は、その勢いに乗じて、朱儁、曹操軍と共に黄巾党の渠帥きょすい、波才を追い詰め、遂に穎川えいせん郡の陽翟ようてき県で波才軍を大破した。


その後更に、皇甫嵩らは穎川郡から、隣接する汝南じょなん郡、陳国ちんこくへ向けて兵を進めた。


汝南郡では、太守の趙謙ちょうけんが黄巾党に敗北しており、幽州ゆうしゅう広陽こうよう郡では、幽州刺吏の郭勳かくくんと、広陽太守の劉衛りゅうえいが黄巾党に殺されていた。


皇甫嵩率いる官軍は、汝南郡の西華せいか県で、彭脱ほうだつ率いる黄巾軍を討ち破り、これによって渠帥を失った豫州よしゅう黄巾軍は急速に力を失い、万に及ぶ黄巾党の者たちが降伏した。


その頃豫州では、刺史しし王允おういん子師ししが、別の指導者による黄巾軍との戦いで勝利しており、合流した皇甫嵩らと共に、数十万に及ぶ黄巾党の降伏兵たちを受け入れていた。



「曹孟徳殿、黄巾討伐には参加したくないのでは無かったか…?」


朱儁らと共に現れた孟徳の顔を見て、王子師おうししは少し意地悪げに言った。

孟徳は子師に拱手しながら、微笑し言い返した。

「王先生こそ、黄巾党の者には容赦しないのでは無かったのですか?」


それを聞いた子師は、声を上げて笑った。

「わしも、君の言った事をよくよく考えてな…君の言う事も、もっともな意見だと、思う様になったのだ。確かに、黄巾党に従ったとはいえ、彼らも我が漢王朝の大切な民である。それを出来るだけ殺さぬ様、努力すべきだとな…」


多少、気難しい所があるが、根は優しい人物なのであろう。

子師がしみじみと語るのを見て、孟徳は再び彼に拱手した。


「流石は王先生です。彼らの為にも、王朝が正道せいどうに向かうよう尽力じんりょくし、共に戦いましょう…!」

孟徳が"戦う"と言ったのは、黄巾党相手の事だけでは無い。

鋭敏な子師には、その意味が良く分かった。


彼は激しく頷くと、黙ったままであったが、孟徳の肩を力強く叩いた。



豫州平定後、皇甫嵩は兗州えんしゅう東郡とうぐんへ、朱儁は荊州けいしゅう南陽なんようの黄巾討伐へ向け、それぞれ進軍した。


荊州南陽では、三月に黄巾党の張曼成ちょうまんせいが太守を殺し、宛県えんけん城を奪い拠点としていたが、六月新たに太守に任命された秦頡しんけつに攻められ、張曼成は捕らえられて処刑された。


しかし、張曼成の部下、趙弘ちょうこうが新たに黄巾党の指揮をり、十万もの黄巾党を集め、再び宛県城に立て篭もったのである。



孟徳の部隊はそのまま、荊州へ向かう朱儁の軍に従軍した。

季節はもうすぐ夏である。炎天下での行軍は、兵たちの体力を激しく消耗する為、行軍の速度は自然と遅くなる。

孟徳は自部隊を他の指揮官に預け、前を進む虎淵の隣に馬を並べた。


「宛まで、まだあと二百五十里(約100km)はあるだろうか…?この遅さであれば、五日以上は掛かりそうだな…」

そう言って、孟徳は山間の道をずらりと連なって進む兵士たちを振り返った。


「そうですね…宛城に立て篭もる黄巾軍は、とても手強いそうですから、兵たちの鋭気が削がれぬ様、充分に体力を温存せねば成りません…」

虎淵も同じく兵たちを振り返ったが、その目には兵たちへのいたわりが込められている。


孟徳はその横顔を見詰め、

「虎淵、少し見ぬ内に、すっかり指揮官らしい顔付きにったのではないか…?」


そう言って笑うと、虎淵は照れ臭そうに笑いながら頭を掻いた。


「孟徳様、揶揄からかわないで下さい…!」

「揶揄ってなどおらぬ!本当の事を言ったまでだ…!」

孟徳は心外そうに、目を吊り上げる。

それを見て、虎淵は思わず吹きだし、孟徳も声を上げて笑った。


周りの兵たちは何事かと、二人の方を見ている。


「やはり、お前が側にいるだけで、辛い事も苦に成らぬな…」

「僕も同じです。仲間はたくさん出来ましたが、孟徳様と居る時が、僕にとって一番幸せです。」

そう言って、虎淵は微笑しながら孟徳を見詰めた後、再び後ろを振り返り、今度は少し眉をひそめ小声で話し掛けた。


「孟徳様…あの黄巾の少女を、連れて来たのですか?」

二人を、少し離れた位置から眺めながら、馬を進めている翠仙すいせんの姿がある。


「ああ、あのは翠仙と言って、兄が黄巾党の兵士として戦場にいるらしい…見付かるまで、我々に付いて行きたいと、せがまれたのでな…」

孟徳がそう答えると、虎淵は少し目を細め、何か言いた気な表情で孟徳を見ている。


「何だよ、虎淵…っ」

「いえ…孟徳様は、何だかんだ言って、女の子には弱いですから…」

玉白ぎょくはくの事を言ってるのか!?だいたい、あれは…お前が最初に連れて行くと、言い出したのではないか…!」

「そうですけど…結局、孟徳様の方が僕よりずっと玉白殿の事を、気に掛けていたではありませんか…!」


「……っ」

孟徳はしかめっ面で虎淵を睨んだが、返す言葉を失った。


「孟徳様はとても、慈愛じあいの心が強い方です。それは孟徳様の長所ですが、相手に付け込まれ易い、短所でもあります。時には、心を鬼になさって下さい…!」


「お前に説教されるとは…良く肝にめいじておくよ…!」

孟徳は苦笑し、後ろを付いて来る翠仙を振り返った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます