第57話 黄巾党の娘


火攻めにより、波才軍は大混乱におちいっていた。

そこへ、突如現れた援軍部隊が、後方から噛み付いて来たのである。

波才軍は完全に崩壊し、兵たちは四方八方へ逃げ始める。


皇甫嵩の部隊も、城門を開いて敵陣へ討って出ると、混乱する敵を次々にぎ倒し突き破って行く。

やがて、前方に"曹"の旗がなびいているのを発見した皇甫嵩は、そこを目指して馬を走らせた。


「曹孟徳殿か…!?既に戦場に辿り着いていたとは…!」

皇甫嵩は孟徳の元へ走り寄り、馬を並べた。


「皇甫将軍が、草原に布陣した黄巾軍に必ず火を放つと信じ、兵を伏せて待っておりました…!」

それを聞いた皇甫嵩は瞠目どうもくして、そのうら若い指揮官の顔を見た。


「何と…!わしの策を見抜いていたと申すか…!?」


いぶかる皇甫嵩に、何も言わず笑貌しょうぼうを向ける。

その時、前方に"朱"の旗を掲げた部隊がこちらへ向かって来るのが見えた。


孟徳の放った偵騎兵が朱儁を見付け出し、援軍到来を知った朱儁は、仲間を掻き集めて皇甫嵩の元へ向かったのである。

戦場へ辿り着いた時には、黄巾軍の間に炎が上がり、既に戦闘が始まっていた。

朱儁は直ぐ様、それに呼応こおうして部隊を突入させ、黄巾軍を壊乱かいらんさせた。


義真ぎしん殿!ご無事でしたか…!」

朱儁はそう叫びながら、皇甫嵩の元へ走り寄った。


「ああ、見ての通りだ!今こそ好機である、この機を逃さず敵を壊滅させる…!」

そう言うと、皇甫嵩は孟徳を振り返った。


「孟徳殿、このまま我々と共に追撃してくれるな…!?」

「はい、かしこまりました…!」

孟徳が皇甫嵩に拱手きょうしゅすると、三人は再びそれぞれの部隊を率い、敗走する黄巾軍の追撃を開始した。



この戦いで、劣勢を強いられていた官軍は、あざやかに形勢をくつがえした。

敗走する波才と黄巾軍の残党たちは南東へ向かい、長社から凡そ六十五里(約27km)離れた陽翟ようてきまで落ち延びて行く。


逃げる波才を追いながら、皇甫嵩たちは黄巾軍の残党を捕らえ、捕虜は万に上った。

その捕虜たちを、管理する役目を買って出たのは、孟徳である。


孟徳は、黄巾軍の捕虜たちを検分して回った。

黄巾党の女子供や老人の多くは、非戦闘員であるが、中には武装し、張角に従って戦闘に参加する者も数多くいる。

捕虜の中には、まだ年端としはの行かない童子や若い娘たちの姿も見られた。


あの様な、幼い童子や女たちまでもが、り所を失い、張角の太平道を信じて黄巾党と成るとは…


言い知れぬ感情が沸き上がり、複雑な思いで胸が締め付けられる。

そんな中、孟徳は一人の少女に目をめた。


農民の娘であろうか、年齢は十代半ばで、肌は良く焼けた小麦色をしており、たくましさと精悍せいかんさを備えている様に思われる。


頭に黄巾を巻き付け、顔は泥や埃で汚れてはいるが、良く見ると美少女である。

孟徳は少女に近付き、声を掛けた。


「お前、名は何と申す…?」


少女は鋭い目を上げ、黙って孟徳を見上げた。

冷ややかだが、その少女の目には澄んだ美しさがある。


孟徳はその少女の目に、どことなく惹かれるものを感じた。


「私は、翠仙すいせん…兄は黄巾党の兵士として、勇敢に戦っている…!」


少女の声はよどみ無く、美しい響きであった。




「皇甫将軍…!孟徳様…曹孟徳様は、何処におられるか、ご存知ですか!?」


走り寄り、膝を突いて拱手する若者を、幕舎ばくしゃから現れた皇甫嵩は見下ろした。


「曹孟徳殿なら…朝から黄巾の捕虜たちと一緒に、何やら語り合っておる。そろそろ出陣の時間だと申すのに、いつまでやっている積もりだか…」

皇甫嵩は、多少呆れた様な口調である。

それを聞いた若者は立ち上がり、皇甫嵩に礼をすると、急いで捕虜たちの置かれた陣営へと向かった。


即席で組み建てられた陣営の中には、捕虜たちが詰め込まれている。


「我らは皆、王朝の民だ。仲間同士で争っていては、本当の敵を倒す事には成らぬ。我々が倒すべき相手は、この戦には無い…!皆が安心して暮らせる世を実現させるには、王朝の不正を正し、正義が行われる様、皆で協力する事が大事である…!」


帳幕ちょうばくを張り巡らせたもと、集まった捕虜たちを前に孟徳は語り合っている。


「…孟徳様…!」

幔幕まんまくを開いて入って来る若者に気付き、孟徳は振り返った。


「虎淵…!!」


そう叫ぶと、孟徳は弾かれた様に立ち上がり、彼の元へ走り寄った。


「孟徳様…!お久しぶりです!」

「無事で良かった…!」

虎淵が孟徳に向かって拱手すると、孟徳は瞳を潤ませながら、虎淵の肩を引き寄せて強く抱き締め、互いの背を叩き合った。



空は朝日に輝き、どこまでも青く広がっている。

二人は幕舎から外へ出ると、吹き抜ける爽やかな風に吹かれながら、肩を並べて歩いた。


「孟徳様がこの戦に参加されているとは、思ってもいませんでした…」

「俺は、お前の為に此処へ来たのだ…!黄巾討伐が目的な訳では無い…」

「それで…彼らに降伏するよう説得を…?」


「出来れば、彼らを殺したくは無いからな…皆、王朝の大切な民たちであろう…」

孟徳はそう言って、捕虜たちがいる幕舎を振り返った。


捕虜たちにも、朝の食事が用意されている。

捕虜へ食べ物を配る役目をしている者の中に、あの少女の姿があった。


「あの少女を見ろ…美しいと思わないか?」

孟徳に言われ、虎淵も振り返って少女を見た。


「ええ、確かに…でも、孟徳様が女装した方が、もっとお綺麗ですよ。」

「おい、虎淵…!褒めてる積もりか?!」

虎淵が声を上げて笑うと、孟徳は少し眉間みけんしわを寄せ、彼の脇腹を肘で突いた。

その声に気付いたのか、少女が二人の方を振り返る。


二人に見詰められ、少女は少し恥じらう様な目付きで俯いた。


「あんな娘が、黄巾を巻いて戦場にいるなんて…ひどい話しではないか…俺は、一刻も早くこの乱を鎮めたいと、今、本気で思っている…お前が居なければ、俺は此処へは来なかったろう。お前のお陰で、この戦場へ来て良かったと思う…」

孟徳はそう呟いて、懐かしい虎淵の顔をしみじみと見詰めた。



皇甫嵩は、降伏した黄巾党の兵士たちを再編成して自軍に組み込み、孟徳の援軍部隊も新たに編成された。

降伏兵の他は、引き連れて行く訳には行かぬと言う事で、残った捕虜はここで解放する事となった。


黄巾の少女、翠仙は、手に大きなかごを持ち、捕虜へ食糧を手渡している。


「俺も手伝おう。」

突然、隣に現れた孟徳が、翠仙の籠を手に取って、食糧を配るのを手伝い始めた。

翠仙は驚いた表情で孟徳の横顔を見たが、黙ったまま再び作業に戻る。


籠に手を入れた時、翠仙の手に孟徳の手が重なった。

翠仙が思わずその手を引っ込めたので、孟徳は慌てて謝り、笑いながら翠仙を見詰めた。


翠仙は表情を変えなかったが、その頬は紅潮し、見る間に赤くなる。


「孟徳殿、皇甫将軍がそろそろ進軍を開始します!」

幕舎の外から、指揮官が呼び掛けて来た。


「ああ、分かった!今行く!…すまぬ、俺はもう行かねば成らぬ…翠仙、達者でな…!」


孟徳は、指揮官に答えながら翠仙を振り返り、籠を手渡すと幕舎から足早あしばやに出て行った。

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