第56話 長社の戦い


朝廷から呼び出され、謁見えっけんの間で皇帝に拝謁はいえつした孟徳に、勅使ちょくしからみことのりが言い渡された。


「曹孟徳を騎都尉きといに任命す。官軍を率いて速やかに長社ちょうしゃへ向かい、籠城ろうじょうする皇甫嵩こうほすう将軍を救援せよ。」


「謹んで、拝命致します。」

皇帝からの直々のめいである。背く訳には行かない。

孟徳は眉一つ動かさずそう答え、皇帝に礼をした。



曹家の屋敷へ戻り、早速、身支度を整える孟徳を、家人かじんたちは手を貸しつつも、心配そうな目で見ている。


「黄巾討伐へきたくない孟徳様に、白羽の矢が立つとは…」

「与えられた兵は寡兵かへいだとか…朝廷からの、嫌がらせでは…!?」


「孟徳様、やまいと称して、お断りなされば宜しいのではありませんか…?」

家人たちは皆、口々に、孟徳を思いとどまらせようと声を掛けたが、彼は手を休めず家人らに微笑を向けた。


「心配は要らぬ。兵は、少ない方が統率がれて良い。それに俺は、黄巾党を討伐に行くのでは無い…」

一振りの剣を手に取った孟徳は、鞘から引き抜いてその剣身を見詰めた。


朱公偉しゅこうい殿の元には、虎淵こえんが居る…俺は、虎淵の為に行くのだ…!」


そう言うと、今度は素早く剣を鞘に収め腰にいた。


虎淵は、朱儁しゅしゅん将軍の幕下ばくかで兵を指揮し、黄巾討伐にも参加している。

その朱儁率いる軍が、黄巾党の波才軍に打ち破られたのである。


その知らせに、孟徳は、真っ先に虎淵の身を案じずにはいられなかった。

朝廷からのちょくが下ったのは、ただの偶然とは思えない。

虎淵を助けよと、天から告げられているのだと感じた。


それ故、孟徳は躊躇ためらわずに援軍を率いる事を引き受けたのである。


その日の内に軍備を整えた孟徳は、騎馬を中心とした部隊を率い、直ぐ様、長社へと向かって進軍した。




その頃、長社の県城で籠城を続けていた皇甫嵩こうほすうは、自軍の兵士たちを必死に励ましていた。


朱儁と皇甫嵩は、それぞれおよそ二万の兵を率いて来ている。

それに対し黄巾軍は、十万を越える兵数で、籠城する皇甫嵩の軍を包囲したのである。


このままでは、敗北が目に見えている…

否応無いやおうなく兵士たちに恐怖心が募り、士気は下がって行く一方であった。


皇甫嵩は、眼前に広がる草原に、隙間無く陣を張っている波才の軍を城壁の上から遠望しながら、援軍の到来を待ちびていた。


その時、援軍派遣の伝達をたずさえた伝令兵が、朝廷から帰還して来た。


「援軍は、議郎の曹孟徳殿か…!」

派遣された援軍の数はそう多くはないらしく、指揮官に関しても物足りなさを感じたが、それでも少しは兵士たちの士気は上がる筈である。

皇甫嵩は、指揮官に援軍の到来を兵士たちに告げさせ、自軍の士気を高めた。


皇甫嵩としては、曹孟徳とは余り面識が無く、その軍略については推し量れない。


「曹孟徳が、凡庸ぼんような将でない事を、祈るばかりだ…」

そう言って、再び城壁へ上がった皇甫嵩は、自分の指を舌でめ、それを風にさらした。



雒陽から長社までは、凡そ三百里(約130km)の距離である。

通常の行軍なら、六日は掛かるであろうが、その距離を孟徳の軍は二日半で走破した。


長社に辿り着いた時には、既に日は傾き始めていた。

丘を越えた所で戦場を見下ろすと、孟徳の眼下にはおびただしい数の黄巾軍が広がっている。


成るほど、これは中々壮観そうかんな眺めである…

感心している場合では無いが、孟徳にはそう思える余裕があった。


「朱将軍の行方ゆくえつかめたか…?」

孟徳は先行させた偵騎ていき兵と合流し、詳細を尋ねた。


先ずは、敗走した朱儁を探し出さねば成らない。

自軍の援軍部隊だけでは、重厚な黄巾軍の囲みを突破するのは難しい。


孟徳は、彼の軍と自軍とを合わせて敵に当たりたいと考えていたが、その時点ではまだ、朱儁の行方を掴めていなかった。

敗走した兵たちは、恐らく既に朱儁の元に集結している筈である。


「皇甫将軍には、援軍派遣の連絡は既に届いているであろう。だが、我々が既に此処へ来ているとは思っておらぬ筈…それに、あの黄巾軍の布陣を見れば、直ぐに戦闘とは成るまい。我が軍は此処まで強行軍で来ている…今の内に、兵たちを休ませておこう…」


「何故、まだ戦闘に成らぬとお分かりに…?」

孟徳が馬首を返すと、指揮官の一人が問い掛けた。


「皇甫将軍なら、きっと俺と同じ事を、考えておられる筈だからだ…!」


そう言って孟徳は振り返ると、指揮官たちに微笑を投げ掛けた。



長社の県城から、凡そ十里(4.15km)離れた山で行軍を停止し、兵たちをそこで休ませた。

やがて日は完全に落ち、辺りは暗闇に包まれたが、孟徳は兵を動かす事無く、そこに伏せたままであった。


「孟徳殿、兵たちは充分休みました。進軍はしないのですか?」

「ああ、進軍はまだだ…焦る事は無い。今の内に、皆も英気えいきを養っておいた方が良いぞ…!」

孟徳はそう言って笑うと、問い掛ける指揮官の肩を軽く叩き、自身も草の上に横になった。


「まさか…あの黄巾軍の多さに、怖気付おじけづいたのではあるまいか…?」

「やはり、ただの豎子じゅしに過ぎぬ…兵を指揮した事も無い者に、兵を預けるとは…」

それを見た指揮官たちは皆眉を寄せ、そう言って互いの顔を見合わせた。



五月とはいえ、夜間はまだ寒さが残り、吹き付ける風は冷たい。

その風が草木をなびかせ、山に伏せている孟徳の援軍部隊の間を吹き抜けた。


孟徳の髪が風に吹かれ、頬をでる。

浅い眠りに落ちていた孟徳は、咄嗟とっさに目を開き、くさむらから飛び起きた。


それとほぼ同時に、黄巾軍を探っていた偵騎兵がせ戻って来た。

「黄巾軍の間に、火の手が上がっているのが見えます…!」


それを聞いた孟徳は、一瞬で眠気から覚めた顔で瞳を見開いた。


「来たか…!」

そう叫ぶと、直ぐ様馬に飛び乗り、全軍に響き渡る大声たいせいを放った。


「これより全軍、進撃を開始する!遅れを取るな…!」


言い終わらぬ内に、孟徳は馬首を戦場へ向け、全速力で馬を走らせ始めた。


総指揮官が脇目も振らず、一直線に敵陣へ向けて疾走して行くのである。

残された兵たちは慌てて馬にまたがり、必死になってその後を追った。


やがて丘を越えると、眼下には、草原をめる様に広がって行く真っ赤な炎が見えた。

折からの風にあおられた炎は、見る見る黄巾軍を蹂躙じゅうりんして行く。


「やはり、皇甫将軍の秘計ひけいは火計であった…!」


赤々と広がる炎を瞳に映し、孟徳はそう叫ぶと、今度は自軍の兵たちを振り返り、腰にいた剣を抜き放って天高くかざした。


「天は我らに味方している…!今が好機だ!敵陣を突き破り、皇甫将軍を助けるぞ!!」


おおーーーーー!!

兵士たちは一斉に喊声かんせいを上げ、"曹"の文字の書かれた軍旗を天高くかかげると、一気に丘の斜面を駆け降りた。


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