第45話 母の面影


そのまま五年の歳月さいげつが流れ、再びこの村に戻って来たのである。


「あの男は、お前が去ってから直ぐに、今度は他の女と村を出た。結局、お前の母はあの男に捨てられたのだ…」

叔父が溜息混じりにそう言うと、玄徳は顔を上げて叔父を見詰めた。


「母は…今どうしていますか…?」


「あれから…彼女は精神をんでしまった様でな…いつも譫言うわごとを言っている…だが、彼女の事は我々が面倒を見ているので、心配する事は無い。お前には、やらねば成らぬ事が有るのだろう…」


叔父はそう言って、玄徳の肩を叩いた。

玄徳は黙ったまま、床に額を付けて、再び叔父に深々と頭を下げた。



翼徳、雲長と共に、玄徳は五年振りの生家せいかの前に立った。

小さな家屋の脇にそびえる大きな桑の木を見上げたが、以前はもっと大きかった様に思える。


始めは、この楼桑村を訪れる積もりは無かったのだが、雒陽らくようを離れる前、曹孟徳そうもうとくに言われた言葉を、玄徳は思い出していた。


その日、頓丘とんきゅうへ向かう孟徳を、城門の前まで見送りに行った。


「母と…五年の間、会っていないと言っていたな…」

孟徳は城門を出る前、玄徳を振り返った。


「悪い事は言わぬ…一度、母に会ってみてはどうだ?血を分けた母子おやこであろう…解り合えぬ筈は無い…」


そう言い、玄徳の返事を待たず、孟徳は城門を潜り、去って行ったのである。


玄徳は強く拳を握り、入り口の戸を叩いた。

やがて、家の中から女性の声が聞こえ、戸が開かれる。


そこには、懐かしい母の姿が現れた。


五年の間に、母はすっかり老け込んでしまった様に見える。

眉間の辺りに深い皺を寄せ、怪訝けげんな様子で玄徳を見上げていた。


「あなたは…?何か、ご用でしょうか…?」


その問い掛けに、隣に立ち並ぶ翼徳と雲長の二人は、いぶかし気に顔を見合わせ、翼徳が雲長の脇腹を肘で小突いて耳打ちした。


「…兄者の母上は、ボケているのかな?兄者の事が分からぬらしい…」

二人は同時に、玄徳の顔を見上げた。


玄徳は、黙って母の前で一礼し、


「我々は、ただの役人です…家の中を、見せて頂けますか…?」


そう言って微笑した。


母は少し戸惑いを見せたが、小さく「どうぞ…」とだけ言って、三人を家の中へ通した。


室内には、編み掛けの筵やわらじが置かれているだけで寒々としており、夕飯の支度をしている最中だったのであろう、土間の方から、芋粥いもがゆを煮ている匂いが漂っていた。


玄徳は無言のまま、ゆっくりと足を運んで、家の中を見て回った。

土間の小さな窓から、桑の木を覗き見る事が出来る。


その時、風にあおられた木の枝が、鈍い音を立てて大きく揺れた。


冷たい床に座り、筵を編んでいた母は突然、編む手をめ、腰を上げて戸口へ向かって走り出した。

そこに立っていた翼徳は驚き慌てて、跳び退く様にして母をけた。


「きっと、が帰って来たんだわ…!」


そう言って母が戸を開くと、冷たい風が一気に室内に流れ込んで来る。


玄徳は振り返って、風の中に立つ母の後ろ姿を見た。

"備"は、玄徳の名である。


「備や…!備や…!お前の好きな、芋粥が出来ているよ…!早く家に入っておいで…!」


母はその名を呼びながら、冷たい風の中を彷徨さまよい歩いている。


「…あ、兄者…?!」

それを見た翼徳が、不安そうな顔で玄徳に呼び掛けた。


「………!!」


玄徳は母の後を追って家の外へ出ると、母に駆け寄り、背後からその体を強く抱き締めた。

母は、肩を振るわせて泣いている様である。

その瞬間、玄徳は胸に、何か熱いものが込み上げて来るのを感じた。


母の背は…こんなにか細く、小さかったか…?


そう思ったが、いつの間にか溢れ出た涙で、前がよく見えず、確かめる事が出来ない。

震える腕で母を抱きすくめると、玄徳は声を押し殺して泣いた。


「母上…俺は、ずっと母上にうらまれていると思っていた…!俺の所為せいで、自分は幸せに成れぬと…」


やがて、震える声でそう言うと、せきを切って流れる涙が頬を濡らし、遂に玄徳は、声を上げてその場に泣き崩れた。


赤子をあやす様な手つきで、母は玄徳の背に腕を回し、震えるその背を優しく撫で下ろした。


「…お前は、何も悪く無いよ……悪く無い……悪く無い……」


そして玄徳の腕の中で、譫言うわごとの様にそう何度も呟く。


やがて玄徳の腕から離れると、母はふらりと立ち上がり、覚束おぼつかない足取りで、家の中へ姿を消して行った。


吹き荒ぶ風の中に、両膝を突いたままたたずみ、去って行く母の後ろ姿をただ見送る玄徳に、雲長が近付き問い掛けた。


「兄者…引きめ無くて、良いのか…?」


すっかり涙をぬぐった玄徳は、押し黙ったまま立ち上がると、さっと衣をひるがえし、家とは反対方向へと歩き出した。


「ああ…俺たちには、此処で立ち止まっている暇は無いからな…!」


後ろを振り返る事無く、遠い道の先を見詰めて歩く玄徳の後に、雲長と翼徳も続いた。


桑の木の下に繋いだ馬にまたがり、空を見上げると、再び小さな雪が舞い始めている。


「もうすぐ、大雪たいせつになる兆しだな…」


冷たい風が吹き抜ける中、玄徳は長い髪をなびかせながら、そう呟いた。

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