第43話 北邙山


冷たい風雪が吹きすさぶ、寒い午後である。


孟徳は自ら馬をぎょし、公祖と共にしゃ北邙山ほくぼうざんへ登り、丘の上から、遥かに広がる雒陽城を見下ろしていた。


「どうだ、此処からの景色は絶景であろう…!孟徳殿に、どうしても見て欲しかったのだ。」


車を降りた公祖は、白い息を吐きながら、遠い城を遠望した。


雒陽の南には、洛水が流れており、その名の由来となっている。


北岸には、巨大な黄河が流れているが、東西を丘陵状に連なる邙山ぼうざんに遮られ、黄河の氾濫はんらん被害から免れる事が出来る。

邙山はかつて、幾度も歴史に登場する古戦場である。


その北側の山は、北邙山ほくぼうざんと呼ばれ、雄大な景色の美しさから、昔から貴族や高官たちの陵墓りょうぼが数多く造られた場所でもある。


「こうして、雄大な自然を前にすると…人間の小ささを、感じずにはおられぬ…」

公祖は独り言の様に呟いた。


「師匠…実は今朝、奥方にお会いしました…」


遥か遠くへ視線を送る公祖の横顔を見詰めながら、孟徳は語り掛けた。

公祖は視線を逸らさず、黙したまま、長い髪を寒風になびかせている。


「奥方は、師匠のお身体を心配なさっておいでです…自分からは受け取って頂けないだろうから、俺に渡して欲しいと頼まれました…」


孟徳は懐から、小さな巾着袋を取り出し、それを公祖に差し出した。

眉間に皺を寄せ、公祖は静かに孟徳を振り返る。


「あれは、人の妻だ…わしにはもう、妻は居らぬ…」


「あなたは、ご自分の死期を悟り、奥方と子供たちが路頭に迷う事が無いよう、信頼出来るひとに家族を託した…全て、奥方から聞きました…」


「…何を聞いたかは知らぬが、あれはわしを捨てて、家を出たのだ…!」


そう言い捨てると、公祖は気分を害されたといった様子できびすを返し、徒歩で丘を下りようとした。

直ぐ様、その前方に孟徳が立ちはだかり、行く手を遮る。


「師匠…!俺はまだ未熟で、力も無く…師匠のお導きが無ければ、この世界で生きて行く事も出来ません…!どうか、一日でも長く生きて…俺を導いて下さい…!」


そう言うと、孟徳はその場に跪き、冷たい地面に額を押し当てた。


「…孟徳殿……!」


公祖は憂い顔のまま、孟徳の姿をじっと見詰めていたが、やがて孟徳の手を取ると、その手から巾着袋を受け取った。


「わかった…わしはもう、長くは無いが…全力で力添え致そう…!」

「有り難うございます、師匠…!先ずは、医者の治療を受けましょう…良い医者を知っています…!」


紅潮した顔を上げた孟徳は、その大きな瞳を潤ませながら、冷たく冷え切った公祖の手を、強く握り返した。




早速、公祖を華佗かだの元へ案内したが、診察した華佗は、神妙な面持ちで孟徳に告げた。


「公祖殿の身体は、既に全身をやまいむしばまれ、手のほどこし様が無い…残念だが、そう長くは持つまい…」

「あの薬は…?奥方が、はるばる々遠方から取り寄せた薬なのです…!」

「…気休め程度の物だ…根本的に、病に効く訳では無い…」


孟徳は、全身から力が抜けて行くのを感じた。

何か、自分の身体の一部がもぎ取られた、その様な感覚である。


やっと巡り会えた、心から尊敬し得る人物だった。

もっと早く出会っていれば、何かが変わっただろうか…


帰り道、孟徳は公祖をしゃで自宅へ送り届けながら、華佗から言われた事を思い起こしていた。

家に到着し、車から降りる公祖に手を貸す孟徳は、終始無言であった。


「そう暗い顔をしては成らぬ…!人の命には、限りが有る。だからこそ、尊いものなのだ…」


公祖はそう言って笑いながら、孟徳の肩を叩いた。

孟徳は顔を上げようとしたが、公祖の顔を見ると、涙をこらえられそうに無く、声を殺して俯いた。


「生きながらえる事が大切か…?大切なのは、どう生きるかではないか…?」


その公祖の言葉に、孟徳は、はっと顔を上げた。

胸に下げていた、翡翠ひすいの首飾りが、熱を持っている様に感じられる。


途端に、孟徳の目から涙が溢れ出し、頬を伝ってこぼれ落ちた。


「曹孟徳…あなたは、わしの最初で最後の弟子だ…!わしの教授はこれで終わっても、空も、大地も、その全てにわしの魂が宿っている事を、決して忘れては成らぬ…!」


公祖は孟徳を振り返り、高らかにそう言って、天と地を指差した。


「師匠…!」


止めど無く流れる涙を拭う事もせず、霞んだ視界から見える公祖の笑顔を、孟徳はただ見詰めた。


やがて公祖は、ゆっくりと門を潜り、舞い落ちる雪の中へ、その姿を消して行った。



戸口に立った公祖は、胸を押さえて激しく咳込んだ。

足元の白い雪の上に、吐血とけつの跡が点々と広がる。


公祖は近くにそびえる、まだつぼみの無い桜の木に寄り掛かり、天を仰いだ。


「もう、時間が無い様だ…あと少し…時があればな…」


見上げる高い空からは、静かに白い雪の華が降り続いていた。




蹇永光の一件で、孟徳は北部尉の職を解かれる事となったが、その後与えられたのは、頓丘とんきゅう県令であった。


宦官たちは、適当な理由を与えて孟徳を処罰するのを断念し、表向きは昇進という形にして、雒陽から遠ざける案を取り入れたのである。


その案を、宦官たちに入れさせたのは、勿論、橋公祖であった。

彼は、孟徳を生かし、昇進させる事で恩を売っておく事の利を、宦官たちに説いたのである。




雒陽を発つその日も、時折小さな雪が舞う、寒い朝となった。

夜が明けたばかりの城門の前には、出立しゅったつする孟徳を見送りに、まちの人々が集まっていた。


まだ包帯を巻いているが、首の傷もすっかりえ、元気になった虎淵の姿もある。


「孟徳様、どうぞお元気で…!」

「ああ、お前も朱大夫しゅたいふの元で頑張ってくれ…!だが、余り無理をするなよ…!」


虎淵は瞳を潤ませながら、孟徳の手を握り締める。

笑顔でその手を握り返した孟徳は、腕を伸ばして虎淵の肩を引き寄せ、その体を強く抱き締めた。


「お前には、いつも助けられた…礼を言う…!」


更には、玄徳たち三兄弟も見送りに現れた。


「ここでまた、お別れだな。」

「心配するな。お前とは何かと縁が有りそうだ…また何処かで会えるだろう。」


孟徳が笑って言うと、玄徳も微笑を返しながらそう答えた。


父が歩み出て孟徳の肩を叩き、


「橋公祖殿も、きっと何処かで、お前を見守ってくれている筈だ…」


そう言うと、孟徳は少し目元を陰らせた。



橋公祖は、数日前に突然、太尉たいいの職を辞して、姿を消してしまった。


孟徳がそれを聞き付け、公祖の自宅へおとずれた時には、既に彼の姿は無く、たずねた知人たちの誰一人、彼の行方を知らなかった。


「師匠は…きっとあの北邙山の丘の上で、この城を見下ろしている事でしょう…」


孟徳はそう言って振り返ると、遥かな雪原の彼方に霞んで見える、朝日に照らされた雄大な北邙山を眺めた。

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