第35話 宦官の孫


その日の午後、珍しく孟徳は一人で邑内ゆうないを出歩いていた。

通りを行き交う人波に揉まれる様に、ただ波に乗って歩いた。


やはり…行くな、と言うべきであったか…


孟徳は多少、後悔した。

奉先が去り、虎淵まで離れてしまったら、自分には何が残るのか…?

人々が賑わう街角で、ふとそんな事を思うと、無性にわびしさが込み上げる。


俺は、いつも一人で運命に立ち向かっている気になっていたが…本当はそうでは無い。

いつも誰かに支えられ、助けられていたのだな…


孟徳は晴れ渡る青空を見上げ、高い空を旋回する、一羽の鷹の姿を眺めた。


「てめぇ!何処に目を付けて、歩いてやがる…!」


突然、見知らぬ男に胸ぐらを掴まれ、孟徳は地面へ投げ飛ばされた。

余りに突然の出来事で、避けるいとまも無い。

「この餓鬼がき、兄貴の肩に触れただろう!土下座して謝れ!」

仲間らしい別の男が、怒鳴り付けて来る。


孟徳は地面に膝を突いたまま、顔を上げて男を睨んだ。


「悪かった…だが、ぶつかって来たのはそっちだ…」

そう言うと、手で着物を払いながら立ち上がる。


「何だと、この野郎!この方を誰だか知らねぇらしいな…!中常侍ちゅうじょうじ蹇碩けんせき様の叔父上おじうえだぞ…!」

更に、別の取り巻きの男が前へ出て息巻く。


蹇碩と言えば、老獪ろうかいな宦官であり、既に壮年を過ぎている筈であるが、目の前の男は、どう見てもまだ若年じゃくねんである。

だが、甥が叔父より年長であるというのは、珍しい事では無い。


何より、周囲の人々がこの騒ぎを誰一人止めようとしない所か、見て見ぬ振りをしながら通り過ぎている事が、男の言う話があながち嘘では無いという証であろう。


「それを聞いて…尚更、頭を下げる気にはなれぬな…!」


そう言って、孟徳は男たちに背を向け、歩き出した。


「何だと…!てめぇ、待ちやがれ!」

蹇碩の叔父であり"兄貴"と呼ばれる男は、怒気どきあらわにして、孟徳に掴み掛かった。


肩を掴まれた孟徳は、直ぐ様身を引いて男の腕を取り、素早く懐に近付くと、鋭い蹴りを繰り出し、男を後方へ弾き飛ばした。

それを見た仲間たちは、一斉に孟徳に飛び掛かる。

男の仲間は十人近い。流石さすがに多勢に無勢で、孟徳は男たちに囲まれ、袋叩きにされた。


「もう、その辺で止めておけ!まだ童子ではないか…!」

その時、一人の男が現れ、良く通る大声たいせいで彼らに呼び掛けた。


「うるせぇ!俺に、文句が有るのか…?!」

男は倒れた孟徳の腹に蹴りを入れながら、その壮年の男を顧みた。


「うっ…あ、あなたは…!」

次の瞬間、男と仲間たちは一斉に閉口へいこうし、慌てて孟徳から離れた。


孟徳は呻きながら、口から砂の混ざった血反吐ちへどを吐き、地べたにつくばっている。

その姿を見詰めながら、その壮年の男は深く溜息を吐いた。


永光えいこうまちの人々に怨嗟えんさの種をくのはさないか…!」


「永光」と呼ばれたのは、蹇碩の叔父である。

永光と仲間たちは、その男と顔見知りである様だ。


「この事には、目をつぶってやる。大人しくうちへ帰るのだ…!」

男に叱り付けられ、永光と仲間たちは、いまいま々し気にその場を去って行った。


「大丈夫か?」


男が心配気に声を掛け、孟徳を助け起こそうとしたが、孟徳はそれを手で制しながら、自力で立ち上がった。


「お助け下さり、有り難うございました。」

孟徳は男に対して拱手きょうしゅしたが、「童子」と呼ばれた事に少なからずむっとし、着物の汚れを払いながら、無愛想ぶあいそうな態度で再び歩き出した。


「あの男は、蹇永光けんえいこうと言って、あの様に不遜ふそんな行動をする事が多々あってな…全く厄介者やっかいものだ…」


聞いてもいないのに、男は話しながら孟徳の後を付いて来る。

孟徳はやや迷惑そうに振り返り、男を見上げた。


「あれが、宦官の叔父であると知っても物怖ものおじせず、毅然としているとは、侠気きょうきがある…!」


男は感心した様にそう言うと、孟徳に笑顔を見せた。


男の身なりは立派な物では無く、束ねた髪からは何本もの後れ毛を垂らしている。

だが、男の立ち姿には清潔感が有り、何処か威厳を感じさせる。

孟徳には、一目で只者ただものでは無いと解った。


「お主、宦官が嫌いか…?」

男が問い掛けた。


「…好きな者が、居るのか?」

「はは、それもそうだ…!」

男は笑いながら、孟徳に肩を並べる。


「…俺の祖父は、宦官だ…!」


孟徳が少し、冷淡な口調でそう言うと、男は驚きの表情で孟徳を見下ろした。


「宦官の孫とは…奇異きいな事を…」

そこまで言って、男は唐突に思い当たったという具合に、顔を上げ天を仰いだ。


「もしや、曹家の御嫡子ごちゃくしか…?」


「父を、ご存知なのか?」

「曹氏には、大変世話になっている者だ。京師にられる事は知っていたが、挨拶にも行かず…失礼致した…!」

男は頭を掻きながら、苦笑を浮かべる。


「申し遅れたが、わしは橋公祖きょうこうそと言う者だ。以後、お見知りおき下され。」


そう名乗った男は、孟徳に向かい、拱手した。



数ヶ月前、秋風と共に曹家を訪れた、あの人物こそ彼である。


橋玄きょうげんあざな公祖こうそと言うその男は、孟徳と共に、曹家が雒陽らくように構えた屋敷の門を潜った。


「も、孟徳様…!一体、どうなさったのです?!」

傷だらけで帰って来た孟徳を見て、虎淵は驚きの声を上げた。


「何、大した事は無い。それより、父上はおられるか?」

「は、はい。直ぐお呼びします…!」

苦笑を浮かべ、問い掛ける孟徳の姿に戸惑いつつも、虎淵は屋敷の奥へ走り去った。


広間に姿を見せた曹家の主は、橋公祖を笑顔で迎え、揖礼ゆうれいをした。


「ようこそ、おいで下さいました。太尉たいい殿。」


太尉とは、司空しくう司徒しとと合わせて「三公」と呼ばれる役職の一つであり、軍事をつかさどる職務である。


人は見掛けに寄らぬと言うが、彼こそ正にその典型の様な人だった。

詰まり、橋公祖は一見ただの庶民にしか見えぬ、粗末な格好をしているが、朝廷で最高位の職に就く人物、と言う訳である。

それを知って、孟徳は彼を改めて見直した。


公祖と主は暫く談笑した後、話題を孟徳に向けた。


「それにしても、孟徳殿は大した人物です。これから世は、大いに乱れるであろうが、孟徳殿の様に侠気ある若者が、この王朝を支える事であろう…!」


世辞せじなどでは無く、公祖は本心からそう言っている。


「孟徳殿の正義感は、に向いている。北部尉ほくぶいの職に就いてはどうか?わしが、推薦しよう…!」


北部尉とは、雒陽の東西南北、四つの門に置かれた官の一つであり、罪人を取り調べたり、盗賊を捕縛する職である。 


「お申し出は、実に有り難いのですが…」


孟徳は口篭くちごもりながら、やや笑顔を曇らせた。


「金の心配なら要らぬ。わしが支援致そう…!」

そう言うと、公祖は爽やな笑顔を孟徳に向けた。


今の時代、高官に就く為には高い金額を支払わねばならない。

実際、高額で官職を買う者が大勢いた。

孟徳は心を見透かされ、苦笑すると、公祖に拱手した。


「いや、そのお気持ちだけで充分です…!」


「前途ある若者の為に、わしは出し惜しみはせぬぞ…遠慮など要らぬ!こう見えても、わしは金を持っているのだ…!」

公祖は、豪快に笑声を放つ。


孟徳は、心を打たれた思いがした。

金の問題では無い。まだ全くの無名で若輩の上、宦官の孫である自分を、さげすみこそすれ、高く評価してくれる人物に出会ったのは初めてである。


そんな公祖の姿を、孟徳はある人物に重ね合わせながら見詰めた。


"孟嘗君もうしょうくん田文でんぶん"


戦国四君の一人であり、孟徳が最も尊敬する人物である。

彼は、一芸に秀でていれば、身分も家柄も問わず、誰でも食客しょっかくとして迎え入れ、その数は三千にものぼったと言われる。

孟嘗君は私財を投げ打って、彼ら食客たちを支援したのである。


食客は、配下や部下とは違い、あくまで"客"であるから、主従関係は成立しない。

だが食客は、時には恩義に報いる為、命懸けで彼を救った者もあったと言う。


士爲知己者死

おのれを知る者の為に死す》


それは「刺客列伝」に登場する、有名な豫譲よじょうの言葉であるが、今まさに孟徳の心情はそれであった。

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