第二章 飛躍の刻と絶望の狭間

第34話 雒陽



秋風が冷たさを帯び始めた頃、曹家の屋敷の門を、一人の壮年の男がくぐった。

応対に出た家人からの報告で、虎淵こえんが男を出迎えに向かった。


門の前に立つその男は、長身で体格が良く、目元には精悍せいかんさを漂わせていたが、一見すると、身窄みすぼらしい身なりと見えた。

くくった長髪からは、何本もの後れ毛を垂らしており、粗衣そいを身にまとい、高価な物とは言い難い冠を付けている。


孟徳もうとく様は…今、に服していらっしゃいますので、誰ともお会いになりません。わたくしで宜しければ、御用件をおうかがい致します。」


それを聞いた男は、驚きの表情をした。


「まさか…!曹巨高そうきょこう殿が、お亡くなりに…?!」

「いえ…亡くなられたのは、奥方の青蘭せいらん様です…」

左様さようであったか…曹家の御嫡子ごちゃくしが、加冠かかん(成人の儀式)されたと聞いたので、一目お会いしたく参ったが…そういう事なら、致し方ござらぬ…」


男は残念そうに肩を落とし、虎淵に軽く会釈をすると、門の外へ出て行く。


「あの…お名前を、お聞かせ願えませぬか…?」

虎淵が呼び止めると、男は立ち止まり、後ろを振り返った。


「はは、名乗る程の者ではござらぬ…!またご縁があれば、どこかで会いましょう。その様に、お伝え下され。」

そう言って、男は歩き去って行った。




故郷くにへ帰った孟徳を待っていたのは、病床にある母の姿であった。

母、青蘭はすっかりやつれ、座っているのもやっとの様子だったが、孟徳が帰ったと聞き、辛い体を起こして薄化粧を施し、孟徳を迎えた。


「母上…!」


孟徳は目に涙を浮かべて、母の手を握った。

母は瞳を潤ませつつも、いつもと変わらぬ微笑を浮かべ、優しく孟徳の肩を撫でる。


「よく帰って来てくれましたね…奉先ほうせんは、一緒では無いのですか…?」


「はい…しかし、いつか必ず、奉先を連れ戻すと約束します…!」

そう言って、孟徳は母の手を握る手に力を込めた。


「母上、どうか…どうか、死なないで下さい…!」


孟徳の頬を、涙が伝い落ちた。

母は孟徳の額に顔を寄せ、同じように涙を流した。


「これも、運命です…あなたは、わたくしの誇りです…それを、忘れないで…!」


母、青蘭はその翌日、眠るように息を引き取った。


「青蘭様は…孟徳様がお戻りになるまでは死ねないと、周囲にらしていたそうです…」


虎淵は腕で涙を拭いながら、庭にたたずむ孟徳の背に話し掛ける。

俯いたままの孟徳は、憔悴しょうすいした様子で、力無く呟いた。


「俺は、ふくさねば成らぬ…暫く誰とも会わぬので、その間はお前が俺の代わりに、事を取り計らってくれ…」




それから、半年が経とうとしていた。

親の喪に服す期間は、凡そ三年間が通例である。

孟徳は、屋敷の近くの草盧そうろこもり、祖衣粗食の生活を送っていた。


そんなある日、曹家の主が草盧を訪れ、狭い室内で、膝を突き合わせて座る孟徳に告げた。


「朝廷からの拝命を受けて、わしは官に就く事になった。急ぎ、京師けいし(都)へ向かわねばならぬ。お前と、虎淵も連れて行きたいが、どうか…?」

それを聞いた孟徳は、暫し黙考した。


父が自分を心配してくれている事は、痛い程よく解る。

まだ若い孟徳にとって、三年という月日つきひは如何にも長く、大事な年月としつきでもある。

そんな息子の姿を、父は慨嘆がいたんに堪えぬ面持ちで、常日頃、眺めていたのである。


孟徳は顔を上げ、微笑を浮かべた。


「父上のお考えであれば、わたくしは、それに従うのみです。」


それを聞いて、主は相好そうごうくずし、早速、出立しゅったつの準備に取り掛かかるよう告げると、草盧を後にした。


孟徳は草廬を出ると、屋敷の自室へ戻り、旅支度を始めた。

戸棚を開いて、衣服を取り出した時、足元に何かが転がり落ちた。

膝を突いてそれを拾い上げると、それはあの砦で玄徳げんとくに手渡された、翡翠ひすいの首飾りであった。


『…いつか必ず会おう…』


そう約束を交わしたのは、つい昨日の事のように、鮮明におぼえている。

孟徳はそれを強く握り締め、やがて自分の首に掛けた。




漢の京師は、雒陽らくようである。

昔は「洛陽」と称されたが、漢は"火徳"である為、水を意味する"氵"(さんずい)が不吉であると改称された。

孟徳が京師を訪れたのは、幼い頃、祖父に連れられて来た時以来である。


孟徳の祖父は、曹騰そうとうあざな季興きこうと言う、宦官かんがんであった。

宦官の最高位と呼べる、大長秋だいちょうしゅうにまで登った人である。

宦官である為、子は持てないが、養子を取る事が許された。

その養子が、孟徳の父、曹崇そうすう、字は巨高である。


どういった経緯で、父が祖父の養子に迎え入れられたのか、詳しい事は分からぬが、夏侯氏かこうしが姻戚関係にあると言う事だけは知っていた。


雒陽は、東西、六里十歩(約2,700m)、南北、九里七十歩(約5,300m)という、広大な城邑じょうゆうである。

大通りを行き交う人の多さに、目が回る程であった。


京師に移って直ぐに、孟徳は孝廉こうれんに推挙され、ろうと言う官職に取り立てられた。

だが、母の喪が明けた訳では無い。職務の時意外、孟徳は自室に篭って、余り外を出歩く事はしなかった。



「孟徳様、お話ししたい事がございます。」


もうすぐ冬が近い。冴え渡る寒空さむぞらの朝である。

白い息を吐きながら、虎淵が改まって、部屋の外から呼び掛けた。

孟徳は戸を開け、虎淵を室内に通すと、向かい合って座った。


「話とは、何だ…?」

「はい…実は、僕を配下として加えたいと申されている方が、いらっしゃるのです…」


怪訝けげんな表情をする孟徳を、虎淵は真っ直ぐに見詰めながら答えた。


「その方は、朱公偉しゅこういと言う方です。」

孟徳はその名に、聞き覚えがあった。


朱儁しゅしゅん、字を公偉と言う。

交州こうしゅういて、反乱軍の首領を斬って乱を平定し、朝廷に召されて諫議大夫かんぎたいふとなった人物である。

主に従って朝廷へおもむいた際、朱大夫しゅたいふに面会し、彼は一目で虎淵を気に入ったらしい。自分の配下として加えたいと、主に熱望したのだと言う。


「…それで?お前は、どうしたいのだ?俺が、行くなと言えば行かぬのか…?」


孟徳が問い掛けると、虎淵はやや視線を下げ、両膝に乗せた手を握り締めた。


「僕は…先生の様に、強い人間では有りません。孟徳様の力になりたいと、いつも考えていますが…今の僕では、到底先生には及びません…どうすれば良いのか…迷ってばかりです…」


虎淵の声には、悔しさと切なさが込められている。

日頃、あまり心情を吐露とろする事の無い虎淵が、そこまで言うのは、真剣に悩んでいる証拠である。

孟徳は深く息を吐くと、虎淵の左肩を叩いた。


「お前の心が決まっているなら、俺に問うまでも無いであろう…!」


顔を上げて見詰め返す虎淵に、孟徳は白い歯を見せた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます