第33話 再会を誓って 《一章 最終話》

ゆっくり目を開くと、目の前の木の枝に、一羽の色鮮やかなカワセミがまっているのが見えた。

黄昏たそがれの、僅かに残った陽の光が、翡翠ひすい色の羽を輝かせている。


自分が何処どこで何をしていたのか、咄嗟には思い出せないが、とにかく体が重い。

奉先は体を起こそうと、片腕を地面に突いた。

全身ずぶ濡れで体中が痛むが、とりあえず腕も足もちゃんと付いているらしい。


「生存者がいたぞ…!」


そう叫びながら、誰かが駆け寄って来る。

負傷兵を回収する部隊の兵士の様だ。


「立てるか?」

そう言いながら、奉先の肩を支えて立ち上がらせる。


「俺は、大丈夫だ…陵牙は…陵牙は無事か…?!」


「いや、恐らくまだ発見されておらぬ…」

兵士は深刻な面持ちで、首を横に振りながら答えた。


奉先が振り返ると、そこには川の流れをき止める程の、馬や兵士たちの死骸が積み重なっているのが見えた。


此処は…地獄だ…


その凄惨な光景には言葉を失う。

覚束おぼつかない足取りだが、奉先は自力で歩き出した。


「おい、無理をするな…!」

兵士が呼び掛けたが、振り向きもせず歩き去って行く。


やがて、辺りに夕闇が落ち始めた。

奉先は、泥濘ぬかるみに埋もれた馬や兵士たちの間を、彷徨さまよう様に歩いた。

その時、うつろな彼の目に、陵牙が乗っていた馬が土砂に埋もれ、倒れている姿が飛び込んだ。

はっとして、それに駆け寄り確認したが、馬は既に死んでいた。

側に陵牙の姿は見当たらない。


「何処だ…陵牙…!」

奉先は叫びながら、辺りを探した。


「陵牙…!」


倒れていた馬から少し離れた場所で、土砂に埋もれて頭から血を流し、泥の中へ沈み掛けている陵牙の姿を、遂に発見した。

奉先は急いで駆け寄り、陵牙の体を泥の中から引きずり出した。


陵牙の顔は蒼白で、血の気が全く無い。

胸に耳を押し当てたが、鼓動は聞こえて来なかった。


「しっかりしろ…!」

両手を重ね、強く胸を押して蘇生そせい措置そちを行う。

何度も繰り返したが、陵牙はぐったりとしたままで、無反応であった。


「陵牙…!死ぬな…!」


思えば此処へ来て、右も左も分からぬ自分に声を掛け、傷を負ったのを心配してくれたのは、陵牙しかいなかったではないか…!


そう思うと、目頭めがしらが熱くなる。

いつの間にか、自分が泣いている事に気付いた。

両腕を振り上げ、握った拳を陵牙の胸に勢い良く叩き付ける。


「…陵牙…!頼む…死なないでくれ…!」


声を振り絞る様にそう言うと、奉先は陵牙の脇に泣き崩れた。


突然、陵牙は口から水を吐き出し、激しくせ返った。

奉先は、はっとして顔を上げ、苦しそうに咳き込む陵牙の肩を掴んだ。


「陵牙…お前、俺が分かるか…?!」

顔に掛かる髪を手で払い退け、陵牙の目を覗き込みながら聞いた。


「…ほ、奉先…?俺たち、死んだのか…?」

陵牙は周りを見渡し、夕闇に浮かび上がる兵士や馬の死骸に、不安な表情で呟く。


嗚呼ああ…!良かった!」

奉先は叫んで、陵牙の体を強く抱き締めた。


「奉先…いっ痛い…!腕の骨が折れてるらしい…!」

陵牙は苦痛に顔をゆがめた。

見ると、右腕が赤く腫れ上がっていたが、折れた骨が飛び出したりはしていない。


「痛みがあるのは、生きている証拠ではないか…!」


奉先はそう言って笑うと、腰にいていた剣を鞘から抜き取り、自分の着物の袖を切り取った。

そして鞘を添え木にし、素早く布を陵牙の右腕に巻付けた。


頭の傷にも残った布を巻くと、陵牙の肩を支えて立ち上がらせる。

「歩けるか?」

「ああ、大丈夫だ…俺たち、負けたんだな…」

陵牙はしみじみとした口調で呟いた。


「………」

陵牙の肩を支えて歩きながら、奉先は夜空に昇った、寒々とした月を見上げた。

半分欠けた青白い月は、暗い夜空に浮かんだまま、冷ややかにこちらを見下ろしている様だった。


孟徳殿…あなたは今何処で、あの月を見ているだろうか…

あの月はまた…何処かにいる孟徳殿を、見下ろしているのか…


降り注ぐ青白い月の光を頼りに、奉先は陵牙と共に歩き続けた。




砦の中では、住民たちが戦勝を祝って賑わっていた。

戦で傷付いた兵士たちに、酒や豪華な食事が振る舞われ、皆声を上げて歌ったり踊ったりしている。


物見櫓ものみやぐらの上で一人、谷を遠望している玄徳の姿を見付け、孟徳も櫓へ上がった。


「このあと、お前の予言ではどうなる?」

近付きながら、玄徳の背中に問い掛けた。


「…これからも、困難は続く…戦乱の世は、避けられぬであろう…」

そう言いながら、孟徳を振り返った。


「お前は、どうする?」

玄徳は真っ直ぐに、孟徳の目を見詰めながら問い返した。


「俺は、故郷くにへ帰ろうと思う…」


そう言って、夜空に浮かぶ青白い月を見上げた。


「今の俺には、何の力も無い。その事が、ようやく分かった…今のままでは、あの将軍の足元にも及ばぬ。奉先を取り戻すのは、きっとまだ先になるが…俺は絶対に諦めぬ…!」


孟徳の瞳は、青白い光に輝いて見える。

それを見詰める玄徳は、ほんの少し口角を上げて微笑した。

最早もはや、俺が何を言っても無駄だな…」


「だが、それもまた良し…!運命にあらがいながら、何処までやれるか、俺も試したくなった…!」


玄徳はそう言いながら、同じ様に月を見上げた。


「では、お前はどうするのだ?」

「この砦を出る…砦の人々は皆、もう我ら義兄弟きょうだいが居なくとも、立派に身を護れるだろう。」


孟徳の問いに答えると、玄徳は振り返って、砦の住民たちを見下ろした。


「だが…"剣聖けんせい師亜しあ"が消えれば、役人たちは益々民たちを苦しめるのではないか?」

「なに、役人共が好き勝手出来るのも、今の内だけよ…やがて強力な統治者によって、ねじ伏せられる日が来るだろう…!」

玄徳の瞳には、底光りする怪しい炎が立ち昇っている様に見えた。


「それはお前か…それとも、俺か…」


そう呟く様に言うと、再び孟徳を振り返った。


「思えばあの日、お前に出会った事で…俺たちの運命は、既に大きく狂わされていたのかも知れぬな…」

「………」


玄徳は、青白く輝く瞳を孟徳に向けながら言うと、長い衣をひるがえし、櫓を降りて行った。

孟徳は黙してその姿を見送ると、再び青白い月を見上げた。




翌朝、空は晴れ渡り、何処までも青空が広がっている。

孟徳と虎淵は、砦の門前で、砦の住民たちに別れを告げていた。


「俺たちが、州境しゅうきょうまで案内しよう。」

そう言って馬を引きながら、玄徳が砦から現れた。二人の馬を、翼徳と雲長が引いて来る。


将軍の兵と共に戦った若者たちが、順番に孟徳と虎淵の手を取り、別れを惜しんでいた。

「あなたは、立派な指揮官になれるだろう…!」

「ああ、また共に戦える日が来るかも知れぬ…!その時まで、皆無事で暮らせよ…!」


住民たちの間から、明明と共に玉白が姿を見せた。

孟徳の前に走り寄り、大きな黒い瞳を輝かせながら見上げる。


「孟徳…!私も一緒に、行きたい…!」


孟徳は片膝を突いて、玉白の両肩にそっと手を乗せると、彼女の顔をじっと見詰めた。


「玉白…お前は、俺に人をいつくしむ心を教えてくれた…俺は、自分に嘘を付きたく無いから、本当の事を言う…」


玉白は、次の孟徳の言葉を予測しているのか、目を潤ませ、悲し気な表情で見詰め返す。


「俺は、お前の事が好きだ…!だが、今の俺には力が無い。お前を連れて行ってやれぬのだ…」


玉白は一瞬、驚いた様な目で孟徳を見たが、やがて顔を紅潮させて俯いた。

孟徳は玉白のあかい頬を、指で優しく撫で、伝い落ちる涙を拭き取った。


「だが、必ずお前を迎えに来る…何処に居ようと、きっと見付け出す…!俺を、信じてくれないか…?」

玉白に語り掛ける孟徳の姿を、虎淵は目を細めて見詰めている。


明明が玉白の後ろに立ち、優しく肩を支えた。

「玉白ちゃん、私たちと一緒に行きましょう。」

やがて玉白は小さくうなずくと、涙で濡れた顔を上げ、


「孟徳…きっと来てくれるって、信じてる…!」


そう言って、孟徳の目を真っ直ぐに見詰めながら、眩しそうな笑顔を見せた。


「では、そろそろ行くか…!」

玄徳が馬にまたがり、二人に出発を促した。


砦の人々が、去って行く二人に手を振っている。

明明と手を繋ぎ、濡れた瞳のままの玉白も、笑顔で大きく手を振って、二人を見送った。

馬上の孟徳は、後ろを振り返って、手を振り返した。


「玉白…元気でな…」


そう呟いた孟徳の瞳にも、涙の雫が光っていた。



やがて州境へ辿り着いた彼らは、高い丘の上から、遥かな山並みを遠望した。

「あの河を越え、東へ向かえば、お前の故郷くにへ早く辿り着ける。」

玄徳はそう言うと、地図のえがかれた布を、孟徳に手渡した。


「ちびすけ、もう迷子になるなよ!」

翼徳が笑いながら言った。

「砦の皆からの餞別だ。持って行くが良い。」

そう言って、雲長が大きな布に包んだ荷を、二人の馬の背に乗せた。


「お前たちには、世話になったな。またいつか、何処どこかで会える日が来るかも知れぬ…」


そう言って笑顔を向ける孟徳に、長い髪を風になびかせながら、玄徳は微笑を返した。


「そうだな。その時は、再び共に戦えると良いな…」

「ああ、それまでに、俺はきっと強くなる…!」

二人は互いの手を取り、固く握り合った。


「ではまた、いつか必ず会おう、玄徳…!」


そう言うと、孟徳は馬を走らせた。


虎淵もそれに続いて馬を走らせる。

二人の姿は、まだ少し冷たい風に吹かれながら、次第に遠ざかって行った。

丘から、いつまでも二人の姿を見詰め続けている玄徳は、小さく呟いた。


「曹孟徳…きっと、また会おう…!」



-《第一章 完》-

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます