第29話 悪い兆し

雷鳴が轟く豪雨の中、奉先は振り上げた剣を、玉白の頭上から一気に斬り下げた。

それと同時に、玉白の体は力を失い、人形の様に奉先の足元に崩れ落ちた。


「はぁ!はぁ…!」

強く剣把けんぱを握ったまま、奉先は激しく息を荒げた。


奉先の剣刃けんじんは、すんでの所で玉白の体をれ、泥濘ぬかるみの中に突き立っていた。

極度の緊張から呼吸困難に陥った玉白は、遂に意識を失ってその場に倒れてしまった。


「無理だ…!俺に、このを斬る事は出来ぬ…!!」


そう言って顔を上げ、激しい雨が降り注ぐ天を仰いだ。

流れ落ちる雨が目に入り、開く事が出来ない。

奉先は、強く目をつぶった。


やがてその場にひざまづき、深く項垂うなだれると、雨に打ち付けられる玉白の体を両腕でかかえ、胸に抱き寄せた。

顔を寄せると、玉白の頬は氷の様に冷たく、死んでしまったのではないかと思われる程であった。

奉先は玉白を抱えたまま立ち上がり、土砂降りの雨の中を歩き出した。




「騎馬が一騎、こちらへ向かっています…!」


物見の兵が、急いで玄徳の居る部屋へやって来て告げた。

玄徳は素早く部屋から出ると、物見櫓ものみやぐらへ上がり、目を凝らしてその騎馬を確認した。

「…あれは…!」

玄徳は仲間に指示して門を開かせ、その騎馬を砦の中へ入らせた。


少女を腕に抱え、馬から降りる奉先に、意外な物を見る目付きで、玄徳は歩み寄った。


「来訪者があるというきざしはあったが…まさか、お前が現れるとはな…」

「怪我をしているらしい…診てやってくれぬか?」

そう言いながら、奉先は玄徳の腕に少女をいだかせた。


その青白い顔の少女は、力無くぐったりとしており、まるで死んでいる様に見える。

騒ぎを聞き付け、玄徳に遅れて弟の雲長、翼徳らもやって来ていた。

雲長が前に出て、玄徳の腕に抱かれた少女の体に耳を当てる。それから着物の裾を上げ、足の怪我を確認した。

その様子を、手燭てしょくの明かりで照らしながら、明明が不安そうに見上げている。


「うむ…心配は無い、気を失っているだけだ。怪我もそう酷くはなさそうだ…」

そう言うと、雲長は少女を自分の腕に移し取り、明明をともなって砦の奥へ入って行った。


それを見届けると、奉先はきびすを返して馬に戻ろうとした。


「待て…!もう行くのか?!」


玄徳に呼び止められ、奉先は一瞬立ち止まった。


「お前も、此処へ残ってはどうだ?」

「いや…俺は、戻らねばならぬ…!」

そう言って、再び歩き出す。


「孟徳が此処へ来た…!」


その呼び掛けに、奉先は立ち止まり、後ろを振り返った。


「…孟徳…?」


不思議そうな顔をする奉先に、玄徳も少し戸惑った。

「お前を探しているらしいが…覚えは無いか?」


そう言われ、奉先は玄徳に歩み寄った。

「その方は、虎淵という従者を連れておられたか?」

「ああ、連れていた…曹孟徳という者だ…」


嗚呼ああ…!!

そう叫んで、奉先はその場に卒倒しそうになった。


そうか…"孟徳"とは、麗蘭殿の事であったか…!

"孟徳"という名に聞き覚えがあると思ったのは、あの奇襲の夜、闇の中で虎淵と思われる少年が、叫んでいた名では無かったか。


「曹…孟徳…良い名だ!」


冷静さを取り戻した奉先は、そう呟くと微笑した。


「麗蘭…いや、孟徳殿は此処にられるのか?!」

にわかに顔を上げた奉先は、玄徳に掴みか掛からんばかりに迫った。

「いや…もう此処には居ない…お前を連れ戻すと言って、まちへ行った…」

「そうか…!」

奉先は素早く背を向け、歩き去ろうとした。


「奉先…!お前、孟徳の元へ戻りたいか?!」


玄徳はやや声高に発した。

振り返った奉先に、言葉を続ける。


「はっきりと言おう…お前と孟徳には、良い兆しが見えぬ…お前たちは、共に居るべきでは無い…!」


奉先は眉を寄せ、怪訝けげんな表情で玄徳を見詰めた。

「良い、兆し…?」

眉宇びうを陰らせる奉先を、玄徳は真っ直ぐに見据えている。


「信じるも信じぬも、お前次第…俺はただ、ありのままを告げたまで…」


奉先の目には、当惑の色が浮かんだ。


暫し黙考した奉先は、おもむろに自分の着物の襟元から手を入れ、首に掛けていた物を取り出した。


「これを、あなたにお返しする…」


彼の手に握られているのは、鮮やかな翡翠ひすいの首飾りであった。


「それは、お前にやった物だ…持っていろ。」

「いや…再びここへ、孟徳殿が戻って来たら…その時は、孟徳殿の事を頼みたい…」

玄徳は、切れ長な目を少し細めながら奉先を見ると、

「そうか…良かろう…!」

そう言って手を伸ばし、首飾りを受け取った。


奉先は再び馬にまたがり、砦の門を抜けると、激しい雨の中へ走り去って行く。 


「兄者…あのちびすけたち…戻って来ると思うか?」

櫓の上から、それを遠望する玄徳の後ろ姿に、翼徳が声を掛けた。

玄徳は、遠ざかる影から目を逸らさず、呟くように言った。


「ああ、戻って来る…必ずな…!」




玉白の足の傷に、雲長が手早く新しい布を巻き付けている。

「傷は深く無い。傷痕も残らぬであろう。」

そう言って、玉白に笑顔を見せる。

小さく頷く玉白の姿を、傍らに立った虎淵が、心配そうに見詰めていた。


「玉白ちゃんの事は大丈夫です。私が付いていますから。」

入り口に立って、その様子を眺めている孟徳に声を掛けながら、明明が室内に入って行く。


「玉白ちゃん、私とあやとりしましょう!」

そう言って笑うと、玉白の隣に腰を降ろした。



広間の大きな卓の上に、砦の地図を広げ、玄徳は仲間の兵士たちに指示を出しながら、それぞれを持ち場に配備している。


「玄徳、策はあるのか…?」


兵たちと入れ違いに、室内に入って来た孟徳は隣に立ち、一緒に砦の地図に目を落とした。


「この砦は堅牢けんろうだ。将軍の兵がどれだけ攻めても、落とす事は出来ぬ…!」

玄徳は地図から目を離さず答えた。


「お前、本気でこの砦を、千頭の龍が護ると信じてるんじゃないだろうな?!」

孟徳は呆れたような声を上げ、玄徳の横顔を見る。


「呂興将軍は、大軍でこの狭隘きょうあいな谷を通ろうとしている。こちらは寡兵かへいだが、地の利がある。伏兵を用いれば、打撃を与えられる…!」


そう言って、孟徳は伏兵を配する場所を地図上で指し示したが、玄徳は首を縦に振らなかった。


「いや、それでは焼け石に水だ。我々の兵たちを傷付ける訳には行かぬ…それに、兵を分ければ砦が手薄になる。この砦を守り抜けばそれで良い。万が一危険が迫れば、女子供たちを、地下の洞窟から外へ逃がすだけの時間を稼げれば良いのだ…!」

「呂興将軍は非情な奴だ…女子供にも容赦はしないだろう!洞窟など、既に出口は塞がれているかも知れぬぞ…!」


孟徳は少し周りに目を配ると、玄徳の耳元に口を寄せた。

「…内通者がいる…内側から門を開かれれば、終わりだ…!」


「心配するな、内部の警備にも抜かりは無い…!俺の義弟おとうとたちは、一人で千人の兵士にも匹敵する強さだ…!彼らが目を光らせている、不審な者は見逃さぬ…!」

そう言って顔を上げ、孟徳の後ろに立っている翼徳に微笑して見せた。


「これは、お前が持っていろ…」


そう言いながら、玄徳は懐から取り出した物を、孟徳の手に握らせた。

孟徳は黙ったままそれを受け取り、手の中を見た。

それは、鮮やかな翡翠の首飾りであった。

孟徳は強くそれを握り締めると、玄徳の目を見詰め返した。


「俺は、お前たちと共に戦う…!力になりたいのだ!!」


「わかった…だが、お前の策を取る事は出来ぬ…!」

「全く…何て頑固な奴なんだ…!おい、義弟おとうと!お前はそれで良いのか?!」


孟徳は憤然ふんぜんとして振り返り、後ろに立って二人の会話を黙って聞いていた翼徳に怒鳴った。


「兄者は皆を護る為、いつも正しい判断をして来た。俺は、兄者の指示に従うだけだ…!」


翼徳は、太い両腕を胸の前で組みながら、踏ん反り返る。


「たとえ内通者を捕らえ、この砦に籠城ろうじょう出来たとしても、一万の兵に包囲されれば、五日と持つまい…!」


卓上の地図を叩き、孟徳は食い下がる。

玄徳は眉を寄せ、鋭い眼差しで孟徳を見詰めた。


「俺には…昔、幼い妹が居た…」

「……?!」


突然語り出す玄徳に意表を突かれ、孟徳は呆気に取られた。


「その日…母と妹、俺の三人で町の市場へ出掛けた。俺は、朝から妹に悪い兆しがある事に気付いていたが、母が嫌がると分かっていたので、何も言わなかった。」

玄徳は、少し憂いを帯びた眼差しを、卓の上に落とした。


「市場で母とはぐれてしまい、妹は離れるのを不安がったが、母が戻るかも知れぬと考え、妹をその場で待たせ、俺は母を探しに行った…だがその直後、通りへ出てしまった妹は、貴人のしゃかれ、命を落とした…妹に悪い兆しがあったのに…俺は、あの場を離れるべきでは無かった…!」

そう言って、玄徳は卓を両手で強く叩き、俯いた。


この男、感情的になる事があるのか…

と少し意外に思いながら、孟徳はその横顔を見詰めた。

「妹が死んだのは、お前の所為せいでは無い、妹自身の問題だ…!」

「妹は、まだ四つだった…!悪い兆しにあらがおうとすれば、必ず結果は残酷なものになる…!余計な事をしなければ、死を回避する事が出来たかも知れぬ…」

玄徳は顔を上げ、赤い目を孟徳に向けた。


「お前が、運命に立ち向かう勇気が無いのを、妹の所為せいにするのか?」

「何だと…?!」

怒りに満ちた眼差しで、玄徳は睨んだが、孟徳はひるまない。


「自分の所為せいで、今でも兄が苦しんでいると知ったら…妹は悲しむだろう…!」

孟徳は、真っ直ぐに玄徳の目を見詰めながら言った。


「………!」


暫く二人は睨み合ったが、玄徳は目を逸らさず体勢を戻し、再び冷静さを取り戻した様に、低く言った。


「話しは終わりだ…全員、持ち場に付け!」


そして長い衣をひるがえし、その広間から出て行った。


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