第19話 降龍の谷

子猫が大きな欠伸あくびをして、目を覚ます。

いつの間にか、外からは小さな雨音が聞こえている。

宿の部屋に残された玉白は、膝を抱え、部屋の片隅にうずくまっていた。

子猫は、玉白の腕や足に擦り寄り、小さくざらついた舌で、玉白の指先を嘗める。

やがて玉白は顔を上げ、子猫の頭を優しく撫でた。


部屋の隅に、趙泌の薬箱が置かれている。

玉白は、おもむろにその箱の前に腰を下ろすと、沢山ある引き出しを一つづつ開けて、中身を確認し始めた。


どの引き出しにも、乾燥させた薬草の様な物しか入っていない。残りの引き出しは、どれも空だった。

玉白は小さく溜め息をつくと、孟徳と虎淵が脱いで置いて行った、二人の着物に目を留めた。

少し躊躇ためらいがちに、二人の着物を拡げてみると、孟徳の着物から、小さな書簡らしき物が足元に落ちて来た。


趙泌が探しているのは、きっとこれだ…

それを拾い上げると、ほっとした様な、少し残念な様な、複雑な気持ちが沸き上がって来た。


玉白は書簡を懐に収めると、足元に絡みついて来る子猫を、そっと抱き上げた。


「…いい子で…」


そう言いながら子猫に頬ずりした後、再び床に降ろし、入り口の戸を静かに閉め、部屋を出て行った。

子猫は「にゃあ」と小さな鳴き声を上げながら、戸をかりかりと爪で引っ掻いたが、その戸を開く事は出来なかった。




酷くじめじめとした場所で、孟徳は目を開いた。

体を起こそうとすると、頭が酷く痛み、思わず悶絶した。


「孟徳様!大丈夫ですか…!」


かたわらに座って、彼を見守っていた虎淵が、急いで背中を支える。


「くっそぉ…!あの野郎、思い切りちやがった…!」


孟徳は、後頭部から首筋の辺りを手で押さえながら、ゆっくりと体を起こした。


辺りは薄暗く、夜か昼かも分からない。

剥き出しの岩肌に、小さな燭台の明かりが燈されている。

何処か遠くで、雨音なのか、水が滴り落ちている様な音が聞こえていた。


「気が付きましたか?」

困惑して辺りを見回していると、何処からとも無く、一人の少女が現れた。


「此処は、師亜様の砦。"降龍の谷"と呼ばれている所ですよ。」


少女は、盆に乗せた粥を、二人の前に差し出しす。

「今、お二人に、新しいお部屋をご用意していますから、暫くはここで我慢して下さいね。」

そう言いながら、今度は茶器を取り出し、器に茶を注いだ。


「師亜様は、ああ見えて、とてもお優しい方なんです。きっと良くして下さいますよ。」


少女は、二人に笑顔で語り掛ける。


「ちょっと待て…!俺たちは此処にいる気なんて、無いぞ…!」

「心配要りません。此処に居る者たちは、皆そうやって、師亜様に助けられて来た者ばかりですから…」 


話しが微妙に食い違っているが、少女は構わず続ける。


「私は、明明めいめいと申します。両親を亡くし、奴隷として働かされていた所を、師亜様に助けられました。それからはずっと、師亜様のお側に置かせて頂いてます。」


明明は見た所、年齢は十歳前後に見える。

孟徳はちらりと、脳裏に玉白の姿を思い浮かべたが、直ぐにそれを掻き消した。


「あの男…ああ見えて、幼女趣味か…」


孟徳はさげすんだ様に言うと、少女に白眼を向けた。


「誰が、幼女趣味だと…!」


暗闇からいつの間にか現れた男が、引きった顔で、部屋の入り口に立っていた。


「そう言うお前は、女装趣味の変態だろう?」


師亜は、目に嘲笑を浮かべて応酬おうしゅうした。

「…んだと!この…!」

孟徳は咄嗟に立ち上がり、師亜に掴み掛かった。

師亜は無抵抗で、微笑を浮かべたまま、孟徳を見下ろしている。


「この俺が、騙されるとは…大したものだ…」


師亜はふっと笑うと、孟徳の頬に指先で触れて来た。

「暁塊を騙して、どうする気だったのだ?奴の屋敷に忍び込むつもりだったのか?」

孟徳の腰を腕で引き寄せ、顔を近付ける。

「さっ触るな…!変態野郎…!」

孟徳は師亜を突き放そうとしたが、彼の腕は想像以上に力が強い。


「事情によっては、協力してやっても良いのだぞ。」


師亜は微笑を崩さず、探る様な目付きで、孟徳の瞳を覗き込む。

軽率そうな師亜の態度に、反感はあるが、他に頼る相手もいない。

躊躇いつつも、孟徳は口を開いた。


「…助け出したい、仲間がいる…」




呂興将軍の屋敷の中を、血相を変えた伝令兵が走っていた。

将軍の前で膝を折り、急いで拱手きょうしゅする。


刺史しし暁塊ぎょうかい様の一行が、盗賊団に襲われた模様です…!重傷者はありませんが、金品は殆ど奪わたとの事…!」


将軍は伝令を見下ろし、眉を寄せた。

「…暁塊殿は、どうした?」

「それが…暁塊様の安否については…」

言い終わらない内に、次の伝令が駆け付けて来た。


「刺史暁塊様が、こちらの屋敷へ、向かわれております!」


暁塊は、小雨が降りしきる中、屋敷の門前で馬を乗り捨てると、門衛が声を掛ける間も与えず、憤然としながら門をくぐった。


「師亜を始末しろと、あれ程申しておいたのに…!一体何をしておられたのか!?」


恰幅かっぷくがよい暁塊は、大きな体を揺すり、濡れた髪を振り乱したままで、将軍の前まで来ると、吠える様に言った。


「大体、龍昇りゅうしょう殿自らわしを迎えに来ず…貧弱な護衛兵など寄越すとは、言語道断であろう…!」

「昨夜このまちにも盗賊が現れ、警備を強化させている最中。それがしも何かと忙しく、そんな事に手を割いている暇は無かったもので…」


将軍は、悪びれる様子も無く答えた。

「そんな事だと…!わしは、朝廷から拝命を受けて参った、正式な使者だぞ…!」

暁塊は、鋭く将軍の顔を睨みつけたが、将軍は怯む所か、冷ややかな眼差しで睨み返して来る。

二人は暫く睨み合っていたが、次第に暁塊の額に、汗が浮かび始めた。


「師亜は、我々が必ず始末する。」


やがて将軍が口を開くと、ようやく緊張が解けた様に、暁塊は目を逸らした。

「二度と失敗は許されぬ…!肝に良く銘じておく事だな…!」

暁塊はふてぶてしく言い捨てると、将軍に背を向け、

「ふんっ…豎子じゅしめが…!」

と呟き、額の汗を袖で拭いながら、大股で歩き去った。


遠ざかる暁塊の姿を、苦々しく睨みながら、将軍は配下の将に命じた。

「兵を集めよ…!討伐軍を結成する…!」



「討伐軍が結成されるぞ!」

兵舎に集まった、呂興将軍の配下武将たちは、色めき立った。


「将軍自ら指揮なさるのか?誰が副将に任命されるんだ?」

「さあ、まだ分からぬ…」

「俺たちに、兵を預けてくれれば、功を上げられるんだがなあ…!」

等と、皆口々に話していた。


彼らの後方で、陵牙りょうがも落ち着き無く、そわそわとしている。


「俺たちにも、機会が与えられるかもしれぬ…そうなれば、昇格する事間違い無しだ!そうは思わないか?!」


陵牙は興奮気味に、奉先に語り掛けて来る。


「ああ、そうだな…だが、師亜は簡単に倒せる相手では無いであろう、危険だぞ…」


陵牙のやる気は認めるが、奉先が見る限り、彼は余り戦に向いている様には思えない。

増して、師亜の相手になる様な、武術の腕前も無いであろう。

奉先としては、陵牙に討伐軍に加わって欲しく無い、という思いがあった。


「盗賊など怖れていては、名がすたるというものよ!」


奉先の思いとは裏腹に、陵牙はやる気を見せて、胸を叩いた。

奉先は、軽く失望を感じながら、苦笑いを返すしか無かった。


「おい!馬当番…!お前たちだ!」


先輩の武将がそう叫びながら、二人の方へ近付いて来た。


「将軍の馬が、厩舎から脱走した…!お前たち、連れ戻して来い!」

「え…?!お、俺たちが…ですか?」


陵牙が驚いて答えた。

「何だ!?文句があるのか!さっさと行け!」

「でも…俺たちは…」

陵牙が渋っていると、奉先が彼の肩を叩いた。


「仕方が無い…行こう!」


そう言って、走り出す。

陵牙は、渋々奉先の後を追い、兵舎から出て行った。

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