第10話 少女と男

獄からどうやってまちまで辿り着いたのか、孟徳には、ほとんど記憶が無かった。

将軍の配下に、小さな城邑じょうゆうへ連れて来られた二人は、言葉を交わす事も無く、邑の通りを彷徨さまよい歩いていた。


突然、孟徳は腰の辺りを何かに掴み掛かられ、はっとして我に返った。

振り返って視線を落とすと、腰に一人の少女が、しっかりと抱き着いている。

「…?!」

孟徳が狼狽ろうばいしていると、人通りの中から、大きな箱を背負った、壮年の小男が走り寄って来た。


玉白ぎょくはく!」


男は少女の腕を掴んで、孟徳の腰から引き離した。

「申し訳ありやせん…!」

そう言って孟徳に頭を下げ、少女を連れて少し離れた所まで行くと、少女の前にしゃがみ込み、何やら少女の顔の前に指を立て、横に振ったり、自分の首を振ったりしている。


少女は、十歳前後だろうか。振り返り、大きな瞳を向けて、じっと孟徳を見つめている。

やがて、少女の手を引いて、男は人混みに消えて行った。


「孟徳様…!大丈夫ですか?!何か、盗られたりしていませんか?!」

呆然とする孟徳に駆け寄り、虎淵が声を掛けた。

孟徳は自分の懐や、腰の辺りを探ったが、何も盗られたりはしていないらしい。

「ああ…大丈夫だ…」

再び二人は歩き始めた。



小さな宿に入った二人は、旅装を解き、一先ひとまず旅の疲れを取ることにした。

孟徳が着物を脱いだ時、懐から白い布の包みが、はらりと足元に落ちた。

「…!」

それを、虎淵が床にひざまづいて拾い上げた。

「先生が…もう、いらっしゃらないなんて…僕には信じられません…!」

冷たい床に跪いたまま、奉先の遺髪を両手に抱いて、目をうるませた。

孟徳は、黙って虎淵を見つめていたが、やがて窓辺に立ち、空に浮かぶ、冷ややかな半月を見上げた。


「奉先が死んだ、という証拠は…その遺髪と将軍の言葉だけだ…」


冷静さを取り戻した孟徳は、この邑へ着いてから、その事をずっと考えていた。

「あの将軍は、そもそも信じられない男だ…これも将軍の詐術である可能性は、充分にありうる…」

そう言うと、目線を落とし、虎淵を振り返った。


「俺は、奉先が死んだという事実を…この目で確かめるまで、諦める気は無い…!」


虎淵は瞠目どうもくし、まぶたに涙を溜めた目で、孟徳の顔を仰ぎ見た。

「そうですね…孟徳様のおっしゃる通りです…!」

希望を見出だした虎淵は、声を震わせながらも、顔を輝かせた。

「良し…!明日からも、また忙しくなるぞ!」

この邑へ来てから、初めて孟徳は破顔した。



翌朝、澄み切った空気の中、二人は宿から外へ出た。

二人の足取りは、重くはない。目的の場所は、既に決まっている。

昨夜の内に、宿の主人から、将軍の食邑しょくゆうの場所を聞き出していた。

"鄭邑ていゆう"というその邑は、ここからおよそ二百里の道のりである。


邑の通りへ出た時、市場の方から、男のがなり声が聞こえて来た。

「この餓鬼がき!よくもわしの商売道具を、壊しやがったな!」

大男が斧を片手に、少女の腕を掴んでいる。

足元には、割れた酒甕さぎめと、中に入っていたらしい、白く濁った覆水ふくすいが広がっていた。


その二人の間に、男が割って入り、しきりに頭を下げている。

「どうか、堪忍してくだせえ!旦那!」

男は、大きな箱の様なものを背負っている。

必死な形相で、大男の足にすがり付いていた。


「このは、言葉が通じねぇんです…!耳が不自由でして…不憫ふびんと思って、許してやってくれやせんか?!」


大男に腕を掴まれた少女は、声も発さず、人形の様に振り回されている。

「しょうがねぇ…許してやるよ…!」

そう言うと、大男は足に縋り付いた男を蹴り飛ばし、少女の細い腕を強引に引っ張ると、台の上に強く押し付けた。


「片腕だけでな…!!」

大男は握った斧を頭上高く、振り上げた。


「やめろ!!」


その声と共に、大男の胴体に何者かが飛び掛かった。

男は一瞬よろけたが、直ぐに体勢を立て直し、目の前の少年を睨みつけた。


次の瞬間、大男の顎の下へ、素早く切っ先が向けられた。

「お、おいおい…!まさか、本気でやると思ったか?ただの脅しだ…!」

大男は額に汗を浮かべ、慌てて斧を地面に投げ捨てた。


「俺のも、脅しに見えるかい?おっさん…!」


孟徳は大男を睨み据えたまま、片頬だけを上げて笑った。



「旦那…!待ってくだせぇ!」

箱を背負った小男が、少女の腕を引いて追いかけて来た。

「さっきは助けて頂き、ありがとうごぜぇやす…!」

城邑の門の前で、孟徳と虎淵に追い付いた男は、深々と頭を下げた。

「ほれ、玉白…!おめぇも、ちゃんとお礼しねぇと…!」

男はそう言って、少女の頭を押さえ、強引に下げさせようとする。


「礼など必要ない…!」

足を止め、それを見ていた孟徳は、少し不快な表情をする。

男の手の下で、少女は大きな黒い瞳を上げて、孟徳の顔を見つめている。


「ああ…旦那、やっぱり、昨日のお方だね…!」

孟徳の顔を改めて見た男は、そう言って愛想の良い顔でにっかりと笑った。

「いやぁ、それにしても驚いた!旦那は剣の達人ですかい?」

男は、矢継ぎ早に話しかけて来る。


「この邑の者ではなさそうだし…何処かへ、かれる途中ですかい?」

「関係の無い事だ…虎淵行くぞ…!」

迷惑そうな表情で、孟徳は虎淵を促し、男と立ち尽くす少女に背を向けて、再び歩き始める。


「これも、何かの縁でさぁ…!あっしは旅の薬売りで、あちこちまわってるんで、力になれるかも知れやせんよ!」

男は、二人の背中に呼びかけた。



鄭邑ていゆうへ行くのかい?だったら、あっしが一番近い道を教えやす!」


男は、布にいた地図を机の上に拡げ、指で示しながら、白い歯を見せて笑った。


孟徳と虎淵、男と少女の四人は、邑の小さな茶屋へ入り、机を囲んで向かい合っていた。

「あっしは、趙泌ちょうひつと申しやす。この玉白ぎょくはくといって、あっしの姉の子なんですが…幼い頃に母親を亡くして…今は、あっしが面倒をみてると言う訳でさぁ…」

趙泌は、隣に座る玉白の頭を撫でながら話す。

玉白は、無表情のまま、孟徳の顔をじっと見つめ続けている。

「ずっと気になっていたんだが……」

孟徳が口を開いた。


「何でこいつは、ずっと俺にがんを飛ばして来るんだよ…?!」


思わず立ち上がり、声を荒げる孟徳を、

「まぁまぁ、落ち着いて…孟徳様…」

と虎淵がなだめ、肩を押さえて座らせる。


「ああ…それは、その…」

趙泌は先程までとは違い、急に口篭くちごもる。


「この子には、五つ年上の姉がいたんです。この辺りの山には、虎が住んでやして…ひと月程前、山に入ったきり帰って来ねぇんでさぁ…」

趙泌は、痛ましい目付きで、玉白の横顔を見つめた。


「生まれつき、耳が不自由で…言葉が通じねぇもんで、何て言ってやったら良いか…それで、この子は姉さんがいつか帰って来る、と信じてやしてね…」

孟徳に向き直ると、じっと見つめる。

「本当に、よく似てるんでさぁ…!この子の姉さんに…!」


「………?!」


孟徳と虎淵の二人は、暫し言葉を失い、呆然とお互いの顔を見合わせた。

次の瞬間、虎淵がこらえ切れず吹き出した。

孟徳は複雑な表情で、顔を紅潮させた。


「おい!笑うなよ、虎淵!!」

「だって…孟徳様…!も、申し訳ございません…!」


「どうだい、旦那?そろそろ、あっしらもこの邑(まち)を離れようと思っていた所なんだ…一緒に鄭邑まで行きやせんか?」

趙泌は人懐ひとなつこい笑い顔を向け、二人に提案してきた。


「あっしが道案内しやすぜ!それに、人数は多い方が安心でしょう?」


相変わらず、こちらへ眼を飛ばしている玉白を横目に見ながら、孟徳は暫く考え込んだ。

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