第3話 呂興将軍


別室から、娘の甲高かんだかい泣き声が、屋敷の外にまで響いている。


ひどいわ!私よりも、麗蘭を選ぶなんて…!!」

 侍女が憐れんだ表情で、香蘭の肩を優しく撫でるが、一向に泣き止まない。


「でも…私のせいよね…麗蘭に、琴を弾いて欲しいと言ったのは、私だもの…。どうしたらいいの…!」

 

そう言うと、再び床に突っ伏して泣きじゃくる。

「もう泣くのは止めなさい、香蘭…!」

 室内に入ってきた主人も、困り果てた表情で、娘を諭す。


「あなた…お客様はもうお帰りになったの?」


 部屋の入り口に、一人の美しい女性が現れる。

 年齢を感じさせない、気品のある女性で、艶のある髪を頭の上部でまとめている。

 白いうなじの後れ毛が、より一層艶やかに見せている。


「青蘭…!」

「香蘭、どうして泣いているの?」

「な…なんでもないわ…お母様…!」

 香蘭は慌てて、顔を上げ、涙を拭った。


「なに、大した事ではない…大丈夫だ…」

 主人は妻の肩をそっと抱いて、室外へ連れて出る。

「将軍はお疲れ故、もう宿舎へ戻られた。お前は部屋で休んでいなさい。」

「心配しないで、今日は気分が良いのよ。」

 妻の青蘭は、微笑んでみせる。


「それより、あなた、麗蘭の姿が見えないのだけれど…どこへ行ったのかしら…」

「さっ…さあ……?どこだろうな…?」



 澄み渡った青空は、次第に西から茜色を深くしている。

 屋敷の裏庭の一画に、稽古場が設けられている。

 そこには、十代の少年たちが集められ、剣の稽古が行われていた。

 少年たちは、皆木刀を手に、互いに打ち合っている。


虎淵こえん、来なさい。」


 少し離れた場所から、その様子を見ていた奉先が、一人の少年に声を掛けた。


 "虎淵"と呼ばれたその少年は、年齢も体格も、麗蘭と同じくらいにみえる。

 それ程身長は高くなく、寧ろ華奢きゃしゃな印象である。しかし、動作は機敏で、彼は、すぐさま奉先の元へと走って来た。

 奉先は、自ら木刀を手にすると、虎淵に向けた。


「突いてみよ。」


 虎淵は、静かに息を吐き、素早く木刀を奉先の胸元へ突き出した。

 更に素早い動作で身を翻し、奉先は、虎淵の木刀をかわすと、手にした木刀で、虎淵の木刀を受け止めた。

「もう少し、低く構えよ。」

 

そう言うと、奉先は、木刀を握る虎淵の腕を、左手で少し下げる。

「はい!先生、ありがとうございます!!」

 虎淵は嬉しそうな顔で、溌剌はつらつとした声を上げる。


 稽古場の片隅に立つ、古い柳の木の枝に、唐紅の薄い絹織りの帯がくくり付けられている。

 帯は、空の色を吸い込み、より一層紅色を濃くしながら、静かに風になびいていた。



 水面みなもに、夕映えが照り輝いている。

 辺りは深い木々に囲まれ、高い岩壁からは、細く白い滝が流れ落ちている。

 そこは、まさに秘境と呼ぶに相応しい場所である。


 麗蘭は、膝まで水に浸かったまま、激しく剣を振っていた。

 水面を切り、美しい水滴を辺りに散らしている。


「いつになく、心が乱れているな。麗蘭殿…!」

 

岩場から、奉先が姿を現した。彼の手には、唐紅の帯が握られている。


「え…?!麗蘭殿が…嫁に行くのか?!」

 奉先は、頓狂とんきょうな声を上げた。


「それはめでたい…!!」

「なにが"めでたい"だ…!!」

 

怒った麗蘭は、鋭い剣先を奉先の喉元に向ける。

「じょ…冗談だ…!」

 奉先は慌てて、引きつった笑い顔になる。


「父上は、ついに最後まで、将軍に本当の事を話しては下さらなかった…!」


 揺れる水面に、麗蘭の不満な表情が映し出されている。


「それは、奥方様の事を思っての事だ。奥方様は昔、生まれて間もない男児を亡くされた…麗蘭殿の身に何かあれば…」

「わかっている!だが、俺は何も恐れてはおらぬ!!自分の身は自分で護れるのだ…!」


「確かに、俺の弟子の中の誰よりも、麗蘭殿は強いであろう…あと半年もすれば、麗蘭殿は十五歳となる。晴れて曹家の長男となるのだ。それまでの辛抱ではないか…」

 

奉先は、俯いた麗蘭の横顔に語りかける。


「俺は…今でも曹家の長男だ!だが父上は認めて下さらぬ…鬼神の祟りを恐れている…!!」


 麗蘭は、強い光をたたえた瞳を上げ、剣を握る手に、力を込める。

「そんなもの…俺は信じない…!!」

 麗蘭の振り下ろした剣が、美しい曲線を描くと、一枚の青葉が見事に一刀両断され、美しい水面に舞落ちた。



 すっかり日が落ち、辺りは次第に暗くなりはじめている。

 城門の前で、虎淵はそわそわしながら、もうすぐ閉じようとしている、門の間を行き来している人々を見つめていた。


 やがて、待ち詫びていた二人の姿が近付いて来るのを発見し、息を弾ませて、走り寄った。


「先生!」

「虎淵。どうした?」

「呂興将軍が、先生を連れて来いと…」

「将軍が…?どうしてだ…?」

 

奉先は、眉をひそめ、麗蘭にちらりと視線を送った。

 麗蘭も同じ表情をしている。 

「それは…その…」

 虎淵はうろたえ、言葉から滑らかさが失われる。


「将軍が、稽古をしたいので、この邑で一番強い者を呼べ、と申され…何人も挑んだのですが、誰も相手にならず…」

 虎淵は俯いて、拳を強く握る。


「"この邑には、弱兵しかおらぬ"と、将軍の兵たちに嘲笑され…つい…」

「俺の名を、挙げたのか…」

「はい…すみません…でも、悔しくて…!」


 握った拳が小さく震え、唇を噛み締める。

 奉先は、俯いた虎淵の頭の上に、ぽん、と手を乗せた。


「それで良い…俺も同じだ…!」


 そう言って笑うと、虎淵は顔を上げ、嬉しそうに笑顔を返した。



 空には、薄い雲の間から、星の明かりがぽつり、ぽつりと見えはじめている。

 沢山の篝火かがりびが炊かれた、将軍の宿舎の前には、兵士たちが集まり、その周りには、集まって来た邑の人々で、人垣が出来ていた。


 兵たちと談笑していた将軍は、宿舎の入り口に立つ虎淵と、その後ろに立っている、長身の少年に気付いた。


「お前が、その子の師か…?」

 そう言いながら、二人に近づく。


 将軍は、その少年を凝視した。

 洞察力に優れた将軍の目は、彼が発する、独特の空気を既に見定めていた。

 背丈は将軍に迫り、体格は良いが、目元には、まだ少しあどけなさを感じさせる。

 癖のある前髪を、無造作に目にかけている辺りは、野性的な雰囲気を漂わせていた。


「思ったより若いな…まあ良い…」

 将軍はそう言って、少年に剣を投げて渡した。


「名は?」

「奉先、と申します。」


 奉先はそう答えながら、剣を受けとった。

「本気で来い、遠慮はいらぬ!!いざ…!!」

 将軍は、鋭く剣を突き出した。


 二人の手合わせの様子を、見物人たちが遠巻きに見ている。

 人垣を掻き分け、その隙間に入り込んだ麗蘭は、将軍に気付かれぬよう、こっそりと二人の様子を覗き見た。


 十数合打ち合いながら、全く息も乱さない二人は、互いに一歩も譲らない。


 更に、数合の打ち合いが続き、やがて斬り込んできた奉先の左肩に、将軍は遂に一瞬の隙を捕らえ、剣を打ち出した。

「もらった…!!」

 そう思った。が、次の瞬間には、剣は虚しく弾き返されてしまった。

「ち…!」

 将軍は舌打ちすると、さっと跳び退き、再び剣を構え直した。


 奉先は、いつの間にか左手に持ち替えた剣を、静かに右手に握り直していた。

 将軍の目は、先ほどより増して、鋭く光っている。

 再び、剣と剣が合わさり、激しく火花を散らした。


「あっ……!!」

 

 将軍の腕力は、常人の数倍はあるだろう。

 強い力で押し返され、奉先の手から、剣が離れた。

 弾かれた剣は、うねるように回転しながら、見物人たちの足元へ突き刺さる。

 それを見た将軍の兵士たちは、皆腕を振り上げて、歓声を上げた。


「参りました…!」

 

 奉先は、一歩下がって膝をつくと、揖の礼をした。

「……」

 将軍は、黙ってその様子を見つめていたが、やがて、冷ややかな口調で言った。


「何故、本気を出さぬ?!」

 奉先は、はっと顔を上げた。


「お前の利き腕は、左であろう?!だが、右腕で剣を振っているな…!!」

 

 将軍は、剣を奉先の前に突き出し、険しい表情をつくる。

「そ…そこまで見抜かれているとは…!お見それ致しました…」

 奉先は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。

 将軍は、鋭い眼差しを、奉先に向け続けている。が、ふと眉を開いて、表情を緩めた。


「ふっ…お前には、見所がある。一軍を率いる将にもなれるだろう…!」

 

 そう言われて、奉先は思わず瞠目どうもくした。

「こんな片田舎かたいなかで、子供に武術を教えているなど、詰まらぬであろう!おとこなら、大望を持ち、天下に名を知らしめよ!!どうだ?わしに仕えぬか?!」

 将軍は、爽やかに言うと、白い歯を見せて笑った。


「俺には…」

 

 将軍の気迫に圧倒されながらも、奉先は、冷静さを保っていた。

 自分の表情を読み取られぬよう、少し俯き、視線を自分の足元に落とす。

 伏し目がちのまま、しかし、はっきりと澄んだ声で言った。


「自分の居場所と、使命がございますので…」


「…そうか。その気になれば、いつでもわしの元へ訪れるが良い。」

 将軍は、それ以上のしつこさはみせず、あっさりと話題を変えた。


「所で…近くのむらで、大蛇を討ち取った若者の話を知っているか?」

 

 思いがけない質問に、一瞬、奉先は眉を動かしたが、すぐに平静さを装った。

「このまちの者であるらしいのだが…何か知らないか?」

「…さあ、存じ上げませぬ。」

「…知らぬか、残念だ。」

 将軍は苦笑しながら、ゆっくりと背を向ける。


「見てみたかったのだがな…その勇者を…」

 

 そう言い残すと、将軍は立ち去って行った。

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