08 とんでもない女
「青信号になってから渡らんか! 赤でも突っ込んでくる車がいるんじゃぞ!」
交差点の一角で怒鳴っているのは白髪の老人。矛先を向けているのは相手は横断歩道を渡る子供たちだった。
「ペンじいがおこったー! にげろー!」
「走るなバカモン! 転んで怪我したらどうする!」
怒鳴られた子供たちはきゃっきゃと騒ぎながら逃げるように横断歩道を渡り、僕らの横を抜けて公園へと駆けて行った。
「とっても元気なおじいちゃんぴよ」
「まろやかに言うけどさ、コンビニのレジ待ちが長いと即文句を言うぞ、きっと」
これは実際に目撃した話だ。レジが混雑していると、僕の後ろにいたお爺さんが大きな独り言で「いつまで待たせる」「たらたら仕事するな」と文句を言いはじめ、いざ順番が回ってきた後も店員に文句を言い続けていた。言い分は理解できるけれど店員も急いでいたし、こんな年の取り方はしたくないなと思いながら店を出た。
関わらず、見て見ぬ振りが吉。
「
この人が大家……近くで見ると背は低く、胸から腹にかけて弓なりにぽっこり丸いシルエット。ずんぐりむっくりとした体形という言葉が的確で、よく言えばマスコット的だろうか。でも愛らしさは欠片もない。
筆村さんは表情険しく、値踏みするように路希先輩を眺める。
「電話の印象よりも若いな」
「よく言われます。そしてこちらがお話した仲村優斗です。ほら、挨拶を」
今日はよろしくお願い致します、取り繕うように頭を下げた。ひそめた白眉が、今度は僕に向けられる。初対面なのに何かを咎められているような、疑われているような、そんな気分を味わう。
「部屋はすぐそこだ」
「一筋縄じゃいかなそうぴよねえ……」
ピヨはまだ可能性を残しているが、僕はすでに諦めていた。取り付く島がないどころか、近づくだけで領海侵犯だと怒鳴ってきそうだ。早々に期待は捨てておこう。
来た道を少し戻り、筆村さんは木に囲まれたアパートの敷地に入っていった。そんな建物は公園の裏手にしかない。またここにくるとは……。
偶然が重なりすぎてもはや必然、縁が深いどころか呪いのように感じてしまう。
別れも言わずに姿を消した依緒は、家の中に入れたのだろうか。昨日の出来事がよぎる。
「一階の奥以外は空いておる。中は全部同じ造りだ。どこが見たい」
どこって言われても。よく考えれば、実際に部屋を見学するのは初めてだ。間取り図だけの妄想見学なら数多くこなしたが、取らぬ
「二階の手前にするぴよ」とピヨからお告げがあり、そのまま口に出す。隣や下が空いている方が生活音に気を使わなくて済む、って理由だったか。
人ひとり分の幅しかない鉄階段をのぼると、木々をまたいで公園やもう行きたくない交番が見えた。筆村さんが鍵束から迷わず一本を選んで扉を開ける。
「選ぶのは優斗だろ。ほら」
路希先輩に背中を押され、最初に入室する。
六畳一間の和室には、すりガラスのはまった障子風の窓がひとつ。内装は外観と比べればずいぶんと綺麗だが、やはり古さはにじみ出る。押し入れのふすまを開けると、ほこりと湿気の混じった匂いに思わずせき込んでしまった。
玄関右側には小さな台所、左側にはトイレ。信じられないくらい狭いが風呂もある。必要な機能を縮小して詰め込んだような部屋だ。
室内を一通り見て回ると、路希先輩が部屋の中央で天井の四隅を見上げていた。
「いい部屋じゃないか。筆村さん、参考のために写真を撮ってもいいですか?」
「好きにしろ」
了承を得るや否やバッグからスマートフォンを取り出し、意気揚々と撮影を始めた。部屋に入ってからの路希先輩は心なしかテンションが高い気がする。
「どうぴよユート? 一人暮らしには不足のない部屋だと思うぴよ」
「うーん……」
狭い部屋だけど必要な機能は揃っている。古さは外観の時点で覚悟していたけれど、押し入れのカビ臭さは気になるなあ。あと浴槽の小ささ。体育座りしなきゃ浸かれないのはちょっと嫌だ。
比べる基準が今の家だけなので、どこまで妥協すべきか判断に困る。
「ここは立地条件がいいな」
僕の隣で路希先輩が天井にカメラを向ける。
「地下鉄駅は近いし、大きな通り沿いには百円ショップやスーパーもあるみたいだから、生活用品の買い出しには便利だ。通学距離は今より増えるだろうが、何十分ってわけじゃないだろ」
天井の隅を撮影すると、今度は押し入れの中で暗闇にフラッシュを点灯させる。そんな場所を撮って何の参考にするんだろう。
ともかく、贅沢を言わなければ過不足のない部屋。あとは家賃にもよるけれど、その前に契約してもらえなければ意味がない。いやまず交渉ってどう切り出すんだ?
「住むのは坊主一人だったな」
「はっ、はい!」
考えあぐねていると、筆村さんから先手を打つように声がかかる。目じりのしわを一層深くして、僕の目を
「金は払えるのか」
「貯金があります。アルバイトも探します」
路希先輩はどのくらい事情を話したのか知らないが。僕の口からも説明すべきだろうか。大家にとって大切なのは、家賃を払い続けることができるかどうかだ。当面の生活費があることは伝えなければ。
「いくらなら出せる」
筆村さんからの質問が続く。いくら、とはもちろん家賃の額。そりゃあ安ければ安い方がいいけれど、ここは金銭感覚があるところをアピールしたい。
六畳一間、風呂つき、駅近。築年数はだいぶ経っていそうな点を考慮すると……三万くらいかな。もともと三万円台で探していたから、それ以上はピヨと要相談だ。
「一万なら払えるか?」
「え? はい、さすがにそれなら問題ありませんが」
「なら一万でいい」
「えっ⁉」
予想を下回る数字に素直な驚きが出てしまう。
「敷金も礼金もいらん」
「ぴえええっ⁉」
今度は僕以上にピヨが驚愕した。家賃以外にもかかる費用が敷金と礼金というのは聞いていた。いまいちよく分からないシステムだったので初期費用程度に考えていたのだけれど、それすら不要なんて条件は見たことがない。もちろん月一万の部屋も。
「親権者のない身で部屋を貸す奴なんておらんじゃろ」
「そうですね……不動産屋ではまず相手にされませんでした」
だからこそ、この話の流れに面を食らっている。それにいま気がついたけれど、事情を知ったうえで家賃を提示するということは、契約を結ぶ前提あってこそ。つまり、僕が了承すれば部屋を貸してくれるということだ。交渉は省略されていた。
「高校二年だったか。その歳でいろいろと……大変じゃったな。親が残してくれた金は大切に使え。これからも金はかかるし、姉さんみたいに大学へ進むんじゃろう?」
「進路はまだこれから……姉さん?」
誰のことだ?
「両親を亡くしたことがきっかけで腹違いの姉に再開するなんざ、神様も皮肉なことを考える」
待って。そんな設定知らない。
「突然再開した弟のために協力を惜しまないなんて、いい姉さんじゃないか。将来は一流企業に就職して恩を返したいとは、最近の子供にしちゃあ見上げた心粋じゃ……あの子には幸せになってほしいって、電話口で泣いとったぞ」
声をひそめたのは、発言した当人に聞こえないようにするため。その人はとても楽しそうにシャッター音を響かせていた。
「ん? どうした優斗」
台所の戸棚を開けようとしていたところで、僕がじーっと見ていることに気がついてくれた。
「姉……さん?」
説明を求める呼びかけに路希先輩は、冷静にスマホをしまい眼鏡を取った。さっきまで上気しながら天井ばかり見ていたのに、畳を見下ろし急激に顔色を暗くする。
「……優斗は名前の通り優しい弟なんです。私は一緒に暮らそうって言ったんですけど、迷惑はかけられないって……いつまでも甘えていられないって……一番大変なのは自分なのに周りに気を使って……それが見ていて辛くて……うう」
「ぴぅぇ……昨日の放課後から電話をかけてくる数時間でよくそんな筋書きを練ったぴよね」
ピヨも僕も引きながら、黒いハンカチで目じりを覆う路希先輩を眺める。本当に泣いているように聞こえるのでより一層引く。
「優斗、強く生きるんだよ! お姉ちゃんのこと、いつでも頼っていいからね」
鼻をすすり、突然僕を抱きしめてくる。急な行動に心臓が跳ねたが、向けられた表情を見たらまったくバウンドしなかった。
「めっちゃ悪い顔しているぴよ! 近年まれに見る『してやったり顔』ぴよ!」
背を向けている筆村さんには見えていないけれど、僕の胸元でニヤリと擬音がしそうなくらいの笑みを浮かべていた。この先輩……とんでもない女だ。
そして悪女の芝居にほだされ、うんうんと頷きながら目頭を押さえる大家さん。なんだこの茶番は。昭和のドラマだってこんなベタ展開はやらないと思う。
「いいもんを見させてもらったわい……さ、どうする。決めたなら鍵を渡すぞ」
「お姉ちゃんはいいところだと思うな」
姉感を押してくる路希先輩は放っておいて考えを戻す。
物件としてこれ以上の条件は他にないだろうし、あとは僕の返事待ちというリーチ状態。これは流れが来ているぞ。今までの不幸が今日という日のためにあったなら受け入れよう。これで不動産屋めぐりとはおさらばだ、いやっほぅ!
「ちょっと待つぴよ」
苦労の日々に決着をつけようとした直前にピヨが水を差した。
「話が上手すぎると思わないかぴよ?」
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