141 それぞれの思惑
うっすらと古書の匂いのまじる室内に立ち並んだのは、
まずは、メルトロー王国から訪れていた使節のうち、ディフアストン王子に帯同しなかった者たち。彼らの中にはメルトロー国王の参謀が幾人か含まれていて、謂わば〝伺い〟をたてる伝令役だ。加えて帰国の日取りを延ばしたギルウォールと、アシュケナシシム。横にはしっかり、エレシンスの姿まである。
……そして。テナン公国からは軍の師団将校たちに並び、各領地から呼びよせたコンツェの兄三人が顔を揃えていた。
話し合いが軍議に成りかわると予測を立てた丞相シバスラフは、会議の開始を夕刻の遅くに定めた。それも公子たち――現在は
久しぶりに見る兄三人を視野のすみで確認して、コンツェはひっそりと息をつく。
前王が崩御し、慎ましやかな国葬と略式の即位を経て以来の再会。二、三の会話をした記憶はあるものの、その内容はもはや曖昧だった。父を亡くした衝撃と混乱が、大きすぎたせいだろう。コンツェは引き継いだ政務をこなすことばかりに集中した。一方の兄たちは、末弟の即位に異を唱えることもなく、あっさりと領地に戻っていった。
気まずさを感じるのは仕方のないこと。それでも、せめて前室で談話の時間くらい持つべきではなかったか……。
コンツェがあれやこれやと無表情のうらで考えていると、楕円の大きな卓上に、飴色に
若い従僕が
都市や騎兵、歩兵、兵站などを模した駒が、地図の上でぐらりと動く。
「さて、皆には集まってもらい感謝している。時間もわずかに限られているため、どうか
コンツェに名を呼ばれ、丞相がそっと頷く。
「まずは、謝罪を。このシバスラフ、皆さまに虚偽の報告を上げておりました」
シバスラフは、テナン・メルトロー連合軍を率いていた王兄デーテンが、帝都陥落で姿を消していた旨を告げた。そして現在、総指揮を執っているのがメルトロー王国第一王子・ディフアストンで、事実上の〝成り代わり〟を黙認していたことも。
「……それは、」
深々と頭を下げる丞相を見やって、震える声をあげたのは次兄であるハイデンだ。
栗毛の総髪の先が、顎首まで襟を閉じた軍衣の肩筋に垂れている。柔和な顔の眉間には消えない
面立ちこそ美しかった母親に似ているが、気性も考え方も父親ゆずりの男。それがコンツェの次兄・ハイデンだった。
「デーテン兄上が殉死したという意味か」
ハイデンの放つ堅い声に、コンツェが首を横に振り返す。
「それさえも分かりません。兄上がたの到着を待つ間、シバスラフと調べた結果ですが。どうやら、今以て情報が規制されているようです」
コンツェの返答に被せるように、長いため息が聞こえくる。見れば、ギルウォールが苛立たしげに腕を組む姿が目に映った。
「我が長兄どのならやるね。申し訳ない話だが、おたくのデーテン殿下。ディフアストンは人気取りのための〝
殉死も存命も、どうでもよかったに違いない。不在となって、名実ともに指揮官の裁量が手に入ったと、喜びさえしたはずだ。と、ギルウォールは
「ディフアストンは自らの精鋭部隊を、メルトロー王国から呼び寄せていた。そいつらを使って、自由に動きまわりたかったはずだ。で、帝都陥落のウラに気づいても、デーテン殿下に知らせなかった」
難なく企図を運ばせるため、侵攻側がはじめに神経をすり減らす問題が二つある。
自軍の上陸と、
なかでも上陸は、一番無防備になる瞬間といっていい。態勢が整わぬ状態で反撃を許してしまったら、あっという間に敗北は決する。
そのため順を置いて、テナン公国からほど近いドルキア公国を
すべては、情報を漏らさず上陸し、すみやかにチャダ小国と帝都を落として〝中継地点〟へと作り変えるために。
その過程で皇帝の首をとれれば、あとは残党兵を片付けるだけの短期決戦ができる。デーテンの策は理にかなっていたし、目論見は成功したかに思えた。
「だが、そこからすでに読み違えていたわけだ」
ギルウォールは褪せた大地図の上に駒を並べ、低い声で言った。
あっさりと上陸を許したかと思えば、イクパル軍は帝都そのものに
そも、宰相を失い、玉座で震えていると噂されていた皇帝・バスクス二世自身が、大きな〝おとり〟だったのだ。おびき寄せられたデーテン含む侵攻軍は、待ち受けていたバスクス二世の罠にかかり、大きく力を削がれてしまう。
テナン・ドルキア・メルトローの連合軍は、敵陣までの輸送路も確保できないまま、ただ敵地深く引きこまれた格好となったのだった。
ギルウォールが黙り込むと、今度はハイデンが息をつく番だった。
「うちの堅物デーテンを追い落としたわりに、ディフアストン殿下の功績は聞こえてこないじゃないか」
ハイデンは苛立ちを隠すこともなく
「それについては、私めに発言をお許しください」
先だって、アロヴァ=イネセンに付随してきた従僕の青年が声をあげる。その手で、帝都を示す地図上の模型をひっくり返す。次いで握ったのは、バスクス二世の駒だ。
「敵、バスクス二世率いる皇帝軍は伏兵を引き入れ南東へ向かいました。ご存知の通り、南東には傭兵部族でもあるバッソス公国があります」
おそらくここで籠城し、我々を迎え撃つつもりだろう。と、ディフアストンは考えたようだった。帝都を中継地とできなかったテナン・メルトロー連合軍は、チャダ小国から出兵することになる。つまり、バスクス二世の逃げ込んだバッソス公国とのあいだに、広大なヤンエ砂漠が隔たっているという話だった。
「ディフアストン殿下は迂回を選ばず、五千の騎兵でヤンエ砂漠に向かいました」
「ヤンエ砂漠に?」
コンツェは頓狂な声を上げて、従僕を見張る。
「あの砂漠を越えるのは不可能だ」
ヤンエ砂漠は、魔境とさえ言われる領域。しきりに吹く砂嵐には多量の砂鉄が混じり、視界はおろか、磁針の動きすら封じてしまう。比喩でもなんでもなく、一度迷ったなら最後。右も左もわからない魔境と化すのだ。
旅慣れた
「……それが、アロヴァイネン伯爵閣下の忠言では、かつてバスクス二世が踏破した経緯があると。事実なのでしょうか?」
「バスクス二世が? そんな馬鹿な」
意外さに再び目を見張って、コンツェは言葉を返す。
「俺は本土の近衛師団に属していたが、そんな動きは一度も……」
と言いかけて、首を捻る。一度もないと、言い切れるだろうか。考えてみたなら、バスクス二世と供に過ごしていたであろうフェイリットが、突如いなくなることが何度もあった。例えば踏破が事実だったとして、アロヴァ=イネセンによって「あの愚帝に出来たなら貴方にも」と耳元で囁かれたなら。
「……アロヴァめ、やはりな。ことごとく掻き回してくれたものだ」
だんまりを決め込んでいたエレシンスが、不意に口を開く。居並ぶ中で唯一の紅一点。しかし、それを感じさせぬほど威圧のこもる低い声で彼女は続ける。
「合点がいった。ほぼ間違いなく、バスクス二世には踏破の経験がある。そして、ディフアストンの気性も読んでいる」
ディフアストンの気性――
「ディフアストン殿下は砂漠にて惜敗。現在はドルキア公国の国境線まで、退避されております。ここまでが、私めがお持ちした書簡の内容にございます」
従僕は頷いて、言葉を結んだ。
コンツェはゆっくりと駒を並べながら、ぐるぐると思考を巡らせていた。
「そもそも、籠城が本当の目的なのか?」
「敵の狙いは消耗戦……それは確かな話だろう。しかし、あまりに長引かせても、我々の大きな次手を許してしまう」
メルトロー王国が本気を出してしまったなら、無尽蔵なほど人員が次々と増していくだけだろう。その前に、戦争を終わらせなけらばならない。バスクス二世にとっても、……コンツェにとっても、長引かせたくない気持ちは同じだろう。
「……何が狙いだ?」
呟いて、コンツェは黙りこむ。
戦争を終わらせる。その思いは変わらないのに、なぜか謎解きに惹き込まれている自分がいた。国土という大きな盤面で、相手がどう動いてくるのか。解かずにはいられない。期待に似た胸の躍動が、ゆっくりと湧き起こる。
人命も国の行く末も、
たとえバッソス公国に籠城しても、バスクス二世にとっては時間稼ぎにしかならない。兵力の補充、味方同士の意思疎通、兵站の整備。重要ではあるが、形勢を転じるほどの決定打は隠されていない。
断片を並べ立ててもため息が出るばかりで、コンツェは苦々しく
「陛下は消耗戦、と仰ったが。駐留地も確保できない以上、すでに消耗しきっているはずですな」
将校の一人が、渋々と宣う。
敵に有利な地での長い移動は、士気の維持には大敵だった。長引くほど消耗し、遠いほど難度がせり上がる。横形に広がるイクパル国土でこのような戦況が描かれるのも、基本通りといっていい。
尻尾を巻いて逃げ出した皇帝を狩りに、意気揚々と出てしまう味方側のうぬぼれも、きっと読まれているのだろう。
「……ああ。ディフアストン殿下が敗走し、士気も疲弊。駐留地もチャダ小国から先、確保できていない。この現状で、これ以上続けるのは難しいだろうな」
コンツェの呟きに、「陛下」と留めるような声が方々からあがった。
敗北を認めたくない――皆の思いを汲みながら、着地点を見つける。それはことの
「総指揮が重傷の今、これ以上粘るのは難しい。だから俺が赴いて、和睦の道がないか探ろうと思う」
室内がざわめきに満たされていく。事実上、〝敗戦〟を認めたことになる国王の発言。「まだ戦える」とか、「弱気な」など、様々な苦言を耳に受け止めながら、コンツェは真っ直ぐな姿勢でその頭を深々と下げた。
「すまない。責任は全て俺が取る。メルトロー王国側にも、傷がつかぬよう計らう」
素直すぎるほどの国王の謝罪は、皆の口を封じる充分な力があった。瞬時にして戻る静寂の中、こほん、と咳払う音が響く。
「だけど……ディフアストン殿下が、敗北をお認めになるかな」
アシュケナシシムが、不安げな表情のまま苦言する。
「ディフアストン兄上は、自分の首が飛ばないかぎり、きっと戦い続けるよ」
やはり、人員を増やし戦い続けるべきだ、と将校の一人が言い放つ。どよめきが戻り、アシュケナシシムが口の形だけで「ごめん」と告げるのが見えた。
コンツェは小さく首を振って、円卓を囲む者たちの顔を眺める。
――難しい。皆の利権や思惑を守りながら、ことを進めるのは不可能に近い。いざという時の覚悟を決め、コンツェは指先で卓を叩き鳴らした。
「では、敵の狙いをまず考えよう。相手の目論見がわかれば、有利な形で和睦を結ぶこともできる。バスクス二世の籠城の次の一手。これを推察できた者に、発言の機会を与える」
コンツェの提言を受けて、皆の視線が大地図に注がれる。しかし、ぶつぶつと囁きがなされるだけで、誰もはっきりと言葉を発しようとはしなかった。
痺れをきらすほどの長い時間が過ぎ、ふと、扉の向こうで大きな物音が響いた。
ガッ! ……ごん! そして続く、小さな情けない声。聞き覚えのある声にはっとして、コンツェが視線を動かす。
「……?」
その先で、エレシンスが肩を震わせて笑っていた。場違いに思えるほど楽しそうに。そして足を動かし、物音の鳴った扉へと近づいていく。
そっと扉を押しひらくと、エレシンスは再び声を上げて笑うのだった。
「ここの扉は、そっちからは引き戸だ。サディアナ」
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