128 竜の存在
サディアナの居室を出てずっと、アシュケナシシムは床ばかり見て歩いていた。
まるで〝検分〟でもするかのような立ち会い。裸身を覆い隠すはずの、たった一枚の肌掛けさえ取り払われて。サディアナは
メルトロー・テナン両国には、王族の初夜を確認する
脳裏に焼きついてしまったサディアナの姿。痛ましいという言葉以上に、表現する方法が見つからない。そうして顔を歪めて、アシュケナシシムは一人立ち止まる。
協議の席には、座らない心づもりだった。気持ちが追いつかないのと、そういう場に
「僕は」
――サディアナの部屋に戻る、そう宣言しかけた瞬間だった。
くぐもった鈍い音が、回廊の途中に響き渡る。
はっと顔を上げて、アシュケナシシムは目を開いた。
王の政務室へつづく回廊の先――はるか前方を歩いていたエトワルトが、壁に背を打ちつける。強く弾かれた力の元をたどれば、ギルウォールの姿があった。
立ちはだかり、怒りに震える
元は癖の強いはずの髪を刈り込み、陽射しと潮風のせいで、常に赤ら顔で歩く彼のこと。同じ母をもつ長兄と、
しかし怒りを表す彼の姿は、まごうことなく同じ血筋のものだった。
「色々聞きてえことはあるが……」
ギルウォールの怒りに細められた眼差しを、エトワルトが暗い目で見上げる。口から微かに
「サディアナは、お前を
エトワルトを殴ったことで、ギルウォールの興奮は極度に達しているようだった。声色さえディフアストンに近づいて、気づいた者たちはみな、一様に身を固めている。
呑気と
「
わずかに眉を動かしたまま、エトワルトの沈黙は続く。あの恐怖の下に晒されて、平然と眉を
「エトワルト王!」
ギルウォールの拳が、再びエトワルトの腹部に突き立てられる。
「なあ、同意か不同意かで協議の内容も変わるんだぜ。あんたがここで嘘ついたら、サディアナの名誉にも傷が付く」
二度目の拳を腹に受けて、エトワルトは胃液を口から吐き出した。
「結婚? ふざけるんじゃねえ。お前はサディアナを、ただ陵辱した」
その場に
テナン公国の最高位である王と、メルトローの王位継承権三位の王子。地位だけを見比べたなら、ここに居る十数名は誰も動けない。
「……兄上、ノルティス国王陛下の御意志を」
堪りかねて声を上げたのは、他ならぬアシュケナシシム自身だった。ここで止められる立場にあるのは、庶子でも王の息子だけ。
右の指骨を粉砕しただろう血だらけのギルウォールと、腹を掴み口から胃液を吐き出しているエトワルト。このまま二人を眺めている
「アシュ、お前体調は?」
しかし返されたギルウォールの言葉は、全く別の方向にむかった。
虚を衝かれながらも、アシュケナシシムは平然と見せて首を振る。
「平気です、今のところは」
サディアナの吐血は、おそらくは
「ならいい、引きずられないよう気をつけろ」
同じ宿命を背負うアシュケナシシムは、渋い顔で兄を見上げる。
「いっそのこと御典医に、姉上の身体のことをお教えしてきましょうか?」
診察を続けながら、テナンの御典医は首を傾げるばかりだった。何度も脈をとり、打診し、首から腹にかけて確かめる。
そうして最後に言いやったのは、「もとから身体が虚弱なのでしょう」の一言。
雑音のまじる心音も、あれだけの出血で死ぬことがないのも……サディアナの中身が
御典医に教え、
短命の宿命からは、どう足掻いても逃れることができないのに。
……そう、ただ一つの方法を除いて。
「やめておけ」
アシュケナシシムの提案に短く反対して、ギルウォールはエトワルトに向き直った。
サディアナの居室を出る頃からずっと、暗い目をしているエトワルト。彼の顎のあたりを血に濡れた手で掴み上げて、ギルウォールは続ける。
「聞け。遅かれ早かれサディアナは死ぬ」
メルトローからの重鎮の一人が、慌てたように身体を動かす。
「
「ギルウォール殿下!」
身分をわきまえる時間は、とうに過ぎたようだった。名をドリューテシアというはずの使節が、厳しい顔でギルウォールの横に立つ。眼鏡から覗く氷のような青い瞳が、咎めるような色で渦中の二人を見つめた。その勇気に賞賛を贈りたい気持ちを抑えつつ、アシュケナシシムは道を譲る。
「アシュケナシシム殿下のおっしゃる通りです。まずはノルティス国王陛下の御意志を、仰ぐべきではありませんか」
「……おっと」
ドリューテシアの発言に首を竦めて、ギルウォールは息をついた。
「〝おにいたま〟しすぎちまった。もう十発は殴りてえところだが」
やれやれ、と言いながらエトワルトに背を向ける。
「――人間じゃない」
その後ろ背に向けて、ようやくエトワルトが口を開く。暗い声で続けられた、エトワルトの言葉。
「……とは、どういう意味でしょうか」
メルトロー側の人間たちの誰もが、時を止めたように口を開けて固まった。
「サディアナが……言ったのか?」
舌打ちをして、ギルウォールはエトワルトを振り返った。何を考えているのか、だいたいの予想はつく。
「はい、確かに」
人間じゃない、と言ったサディアナの台詞。
その意味を、エトワルトが履き違えて受け取っていたなら……何も問題はない。〝もう人間ではいたくない〟、〝生きたくない〟という意味になって、エトワルトに響いていたなら。
メルトロー王国がひた隠しにしてきた〝竜の存在〟が、
……しかし、
「エトワルト王。協議が終わったら、俺とアシュケナシシムのところに来い」
次いでギルウォールから出た言葉は、明らかに後者。竜の
「個別に話し合うべきことが増えた」
サディアナが自ら言った、〝自分は竜だ〟という意図の告白。
漏らされた
エトワルトは何も言わず、その頭をゆっくりと下げた。
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