118 おとぎの国の海の城
「にしても、遅いな……」
コンツェはどうしたものかと気を揉みながら、船室の窓から海を眺める。アシュケナシシムが様子見に出てから、すでに一刻は経とうとしていた。
これまで表立って顔を合わせていない二人のこと。会話に花が咲いている、というのが単純な見解だ。しかし、次々に浮かぶ陰気な考えが、コンツェの思考を支配する。
「見に行ってみるか…?」
ちらと窓越しに確認するだけ。それで二人が楽しそうに笑っていたなら、
そうして立ったフェイリットの船室の前で、コンツェは戸惑っていた。
窓から確かめたフェイリットは、どう見ても泣いている。寝台に突っ伏し、薄地の掛布を頭から被った悲壮な姿。
掛布の隙間からのぞく彼女の華奢な背中が、時おり震えて揺れていた。
訪問中であるはずのアシュケナシシムが、どこにも見当たらないことも気にかかる。
「フェイリット……」
そんなにも深く、彼女を傷つけてしまったのだろうか。
コンツェは窓枠に手をかけながら、小さく息を吐きだした。こんな風にしてしまうなら、いっそ何も言わず彼女の側に居続けるべきだったのだ。
そっと窓を指で叩くと、フェイリットは僅かに身を寝台から離す。それでもこちらに目線は上がらない。
コンツェは手に浮いた汗を握りしめて、窓越しの彼女に語りかけた。
「昨日はその……すまなかった。フェイリット、俺は……お前の気持ちが何より大切なんだ」
こちらに向けられた彼女の背が、また小さく震えだす。
「怖がらせるつもりは無い。お前がいいと思うまで、俺はお前に近づかない。だから、」
ふわりと彼女が起き上がる。掛布は頭から被ったまま、寝台から離れて扉に向かうのが見えた。
そっと開かれる扉の向こうから、白い手がコンツェに伸ばされる。
握手を求めるような手の形。それを握り返して、コンツェは驚きに目を開いた。
「うわっ、フェイリット?」
想像していたより強い力で船室の中に引き込まれて、体勢が崩れるまま、彼女の上に倒れこむ。
「すまな、」
体重の全てをかけてしまったことに気づいて、慌てて身体を起こして見やると、
「……おっ、おまえ、」
にやにやと笑う
「やあ、引っかかったね」
「アシュ!」
寝台の上、コンツェは組み敷く格好になったアシュケナシシムを睨みつける。
泣いて震えた演技までして見せて、こうして
「あ、ちょっと待って。あと十秒離れないで」
アシュケナシシムが、不意に真面目な顔になって言い放つ。その白い手が襟首を掴んで引き寄せてきて、コンツェは目を見開いた。
「な、に考えて……」
「何も。ほら一緒に数えてよ。五、四、三、二、」
そうして悪態のひとつでも言ってやろうと口を開いた瞬間だった。
「来た」
間の悪いことに、背後でかちりと扉が開く。
「ただい……」
―――次いで現れる〝本物〟のフェイリット。
「ま……」
驚きも露わに動作を停止する彼女を眺めて、コンツェは顔を蒼白にするしかなかった。
「……わわわわ、やっぱり……失礼しましたっ!」
慌てて再び閉められた扉に飛びついて、コンツェは勢いのままに開け放った。
「ごっ誤解だ!!」
外に躍り出て、去り際の彼女の肩を握った。振り返るフェイリットの瞳が、真っ直ぐこちらに向けられる。
「コンツェ……」
もう近づかない、そう宣言までしたのに。逃げられることを恐れていた彼女の瞳を、コンツェも真っ直ぐに見つめ返す。
「すまない、」
驚いているような、笑いを噛みしめるような。複雑な表情を浮かべて、フェイリットは頷いた。
「あの、わたしも、」
「いや、お前は謝るな。いま謝られたら俺……」
何に対して謝られても、今は振られた気持ちに拍車がかかるだけだ。「ご、」と言い始めた彼女の口に手で蓋をして、コンツェは渋い顔で続けた。
「それよりも〝やっぱり〟って何だ?」
「えっ、ほら、それはその……アシュがそろそろ楽しくなっちゃうと思ってたの」
胸の辺りの衣服を
コンツェははっとして目を反らしながら、彼女が容易に外出できた訳を納得する。成る程、二人で衣装を取り替えて、監視の目を誤魔化したのだ。
女の衣装を着せられて、アシュケナシシムが面白がらないはずがなかった。
ぶっと噴き出す音が船室の中から聞こえて、アシュケナシシムの大仰な笑い声が響き渡る。
「もう、馬鹿だねぇ。手間のかかるやつらだよ」
揃って声の主を見やった後。コンツェもフェイリットも、息をもらすようにして笑いだす。
「お前もじゅうぶん馬鹿だろう」
確かに彼は、大人しくしていなかった。けれどこの〝悪戯〟は、アシュケナシシム自身の為ではない。彼なりの最大限の気遣いに、コンツェは小さく苦笑する。
「腹回りも足回りも、風が入ってきて気持ち悪いよ。サディアナ、早くそっち返してくれない?」
サテン地の寝間着のドレスをふわふわと
言っていることと動作が真逆なのは、もう指摘しないでおこう。コンツェはアシュケナシシムが可憐に回るのを、悟りの眼差しでじっと見つめる。
「うん、アシュの衣装、着心地いいもんね。着いたらドレス生活かあ……」
うんざり、という声色で欄干に身をもたげフェイリットが息を吐く。
テナン公国で着用されているドレスは、メルトロー王国のように窮屈ではないだろう。コルセットは巻かないし、下着の数だって比べれば少ない。そうして脱がせる場面を目に浮かべてから、コンツェは慌てて首を振った。
「着心地で言ったら、イクパル本土とたいして変わらないんじゃないか?」
「そうなんだけど……」
苦々しく言葉を濁すフェイリットを、隣のアシュケナシシムが笑う。
「姉さんは、お淑やかな宮廷の礼儀作法が苦手なのさ」
同じ顔の、色合いだけが違う二人が、目を合わせてにっと笑う。微笑ましい光景を眺めながら、コンツェはこれで良かったんだ、と独りごちる。
自分の〝選択〟をやっと認められる気がした。育ったイクパル帝国を捨て、生まれたテナン公国に戻る。この裏切りの選択を、目の前のささやかな幸せが浄化していく。
「じゃあ、僕の衣装そのまま着てるといいよ」
再び悪戯を思いついたような顔で言って、アシュケナシシムはふと海の向こうに視線を伸ばした。
「あれ、もしかしてテナンじゃない?」
彼の指が指し示す、遠くに浮かぶ島影。
中央に白亜の美しい城がせり出して、瑠璃色の海にぽっかりと浮かんでいる。
「綺麗ね」
ふと、フェイリットが何かを思い出した顔になる。きっと前にも、こんなやりとりをした記憶が呼び起こされたのだろう。
「そうだ、あれがテナン城。俺が生まれた場所だ」
フェイリットの隣に並び立ち、いくつも塔の並び立つ、美しい城を眺め見た。
「案内するよ、二人とも」
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