113 紺碧の世界


 長い月日を海風にさらされて、曇り濁った窓硝子の向こう。そこに見たことのない紺碧の世界が広がるのを見つけて、フェイリットは息を洩らした。


 空も海も同じように深い紺碧で、水平線の遠くに見える横へと伸びる島影が無ければ、ここが海なのか空なのかも曖昧になってしまうだろう。

 そんな美しい光景がすぐ目の前にあるのに、扉を開けて外へと飛び出す気分にはどうしてもなれなかった。窓の枠に両腕を預けて、観るともなしに長々と時間を過ごす。

 …気持ちも体調も、最悪だった。

 吐き気を堪えて唾を飲むと、今度はその唾に吐き気がおきる。一向に良くならない胃の調子と、けだるい身体を持て余して、フェイリットは窓枠に額を押しあてた。


「サディアナ殿下、」

 扉を叩く音が聞こえて、次いで背後に声がかかる。ここ何日かの〝攻防〟のせいで、給仕についた女性はこちらの許可を待たなくなった。

「失礼いたします、サディアナ殿下」

 そっと後ろを振り返ると、その人は小さな椀を盆に乗せて立っていた。

「蜂蜜ですわ、殿下。そのままだと濃いようでしたので、牛の乳に溶かしてみました。ひと口だけでもお召し上がりに…」

 女性は音を出さずにそっと歩いて、船室の円卓ではなく、フェイリットの座る寝台の上に盆を置く。自らは床の上に膝をついて、

「蜂蜜、お好きでは?」

 じっとした沈黙のあとに訊ねた。


 一体どこから聞いてきたのだろう。好物の蜂蜜を目の前にして、フェイリットは逡巡する。その間さえ給仕の女性は根気強く動かない。

 フェイリットが折れるようにして頷いて返すと、彼女は嬉しそうにほっと息をもらした。

「匙を持ってまいりました。これでひと口だけでも」

 そう言って小さな匙を乳のなかに浸す。ひとつ掬ってフェイリットの口元に差し出して「さあ、どうぞ」と微笑んだ。

 充てられたそれを素直に啜って、無理やりに飲み込む。

「お辛いでしょうが、何かは召し上がりませんと」


 度重なる嘔吐のせいで、喉元が妬けるように痛かった。ものを飲み込むのも億劫になり、スープさえも遠慮していたのに。

「……おいしい」

 乳の温かさとやさしい蜂蜜の甘さが、ゆっくりと身体に沁み渡る。それは暖炉の上でことこと煮立てた……サミュン特製の味にどこか似ていた。あたたかくて、懐かしい故郷の味。

 脳裏に浮かんだのは、サミュンの困ったような笑顔と渋みのある優しい声色。そしてディアスの……。ふとしてそこまで考えて、フェイリットは息を呑んだ。



 ―――私は他の者のいる隣で、眠ることができない。



 考えないようにしていたものが、じわりと心にあふれだす。堪えようと息を呑んだのに、とうに間に合わなかった。目のふちから涙が伝い落ちて、どんどん溢れだしてくる。

 彼はまた、あの硬い執務椅子の上で眠りについているのだろうか…。

「サディアナ殿下……」

 ほんの少し、液体の残った匙をまた椀に戻しながら、給仕の女性は考えるように瞳を揺らした。

「どなたかは存じませんが…お慕いしていたのでしょうね」

 彼女の手が組み締めた両手にそっと重ねられて、フェイリットは自分が震えるほどに力を込めていたのだとようやく気づく。


 彼女が何を聞いて、どこまで知っているのか分からない。けれどその温かい手のひらが、堪えていたものを一つずつ溶かしてゆく。

「わたくしからは、何もご報告しておりません。じきに体調も戻りましょう、大丈夫ですわ。それまで少しでも、御身体を大切になさって滋養、、のつくものを」

 真摯な眼差しで、囁くように彼女は言った。その言葉を受け止めながら、フェイリットははっと口を開く。

「……お、気づきでしたか…?」

「船上で助かりましたわ。いくらでも言いようがございますもの」


 綻ぶように微笑んで、女性は頷いた。その温かな手をそっと伸ばし、フェイリットの腹に触れながら。

「お隠しになりたいのなら、わたくしもお付き合い致しましょう」

 そっと立ち上がり、目線を船室の外へと向ける。監視の兵はすぐ外に立っているはずだが、その耳がこちらに向いていないことを確認したのだろう。

「フィティエンティ・ティリ・ヤローシテですわ、殿下。随分と申し遅れてしまいましたけれど」

 悪戯を知られた子供のように片目を瞑って、フィティエンティは笑った。

 そうして差し出された椀を受け取って、フェイリットはじっと見下ろす。


 考えないようにしていた、身体に感じるわずかな変調。それが船酔いではないことは、とっくに分かりきっていた。

 フィティエンティの触れた腹部にゆっくりと手を充てて、フェイリットは息をつく。

 覚悟は、もう決めてある。


 今度は自ら椀に口をつけて、フェイリットは蜂蜜入りの乳を飲み干した。




* * *


 「ウズルダン」

 卓に大きく広げた地図に片手を置いて、バスクス帝はようやく口を開いた。

「首都機能を移転させるぞ」

 宰相の居室に集められた者たちは、遂に来たかと息をつく。ウズは小さく頷いて歩を進め、バスクス帝とともに地図を囲んだ。


「では、それとともに民衆をいくつかの都市に分散、退避させましょう」

「…そんな急に、大丈夫なのか」

 ワルターが絞るような声で後に続く。

 たしかに宣戦布告も今やという状況下で、大掛かりな遷都は限りなく不可能。しかし機能の一部を移転する程度なら、国を保持するにあたり無駄骨にはならない。


「耳の早い沿岸部の民はすでに分散していると聞く。それだけ開戦の噂が広まっている現状で、大勢をひっそり逃すというには難しいだろうがな」

 地図に描かれた印を見れば、すでにドルキア公国がテナン公国側に下っている。つまり、攻め入られる地点は海岸線には限らないということ。

「で、帝都は位置的にテナンやドルキアに近すぎる。一時的な放棄を視野に入れるってことか。しかしもぬけの殻にはできねえよな」

 タイハーン少佐が胸の前で腕を組む。すぐ隣に控えるシャルベーシャも、鼻を鳴らして同意を示した。


「帝都には二個師団を残す。ウズルダンには随分前から執政を肩代わりさせている。今さら私が居なくとも問題は無い」

「は? つまり移転先には宰相しか行かねえってことかよ」

 シャルベーシャがタイハーン少佐の陰から躍り出て、声を荒げる。無謀なことを。そう言葉の端に響かせる青年に向かって、バスクス帝は小さく笑う。

「シャルベーシャ、お前はタイハーンとともに奴隷騎兵連隊マムルークの中から幕僚と成り得る者を選びぬけ」

「マムルークから?」

「そうだ。お前たちは実戦経験があるうえ、躊躇しない。同じ理由で、味方についたバッソス公国の傭兵軍も編成し直している」


 地図から身を離し、バスクス帝は石壁を切り抜かれた窓に目を向ける。そうしてそのまま歩いて行って、こちらに背を向け窓枠に手をついた。室の位置は三階のため、小さく抜かれたここからの眺めは空しかない。

 彼の見やる空は晴れ晴れとして、いつになく淡い色合いだった。

「おそらく戦況は国土を横断して散らばるだろう。指揮官を分散させて、どこからでも当たれるよう備える。幸か不幸か、我々には英雄的資質、、、、、のある先導者は居ない。つまり戦力の一挙集中は起きにくいと考えられる」


 戦場になるであろう予測地点に印をつけながら、ウズはバスクス帝のあとに続ける。

「ええ、それならば多面的な戦い方ができます。向こうにはメルトローの息が掛かっていますから、恐らくは四将君子のディフアストンあたりが出るやもしれません。奴なら、英雄的な最たる指揮者です」

 そして長らく続けた鎖国と停滞のお陰で、テナン公国もドルキア公国も決して戦闘が得意とは言えない。

 ゆっくりと頷くと、バスクス帝は窓を背に振り返る。


「で、帝都がもぬけの殻にならぬよう対策をとろう。私が二個師団とともに帝都に残る」

 なぜ、という声が何処からともなく洩れ聴こえた。帝都を放棄するならば、先陣をきって脱出しなくてはならないのが皇帝ではないのか。その意図を組んでか、バスクス帝は小さく肩を竦める。

「なぜ? 誰かが後始末をしなくてはならんだろう」

「しかし陛下自ら囮と殿しんがりなどと、さすがに賭けに出すぎでは」

 不安げなワルターの声に、バスクス帝は鋭い目をゆっくりと細め、首を横に振る。


「大丈夫だ。賭けにもならんよ」


 遠い昔、四人の皇子の中で〝随一〟と称された戦才の持ち主。彼はまるで眠りから覚めた獅子のように嗤った。

「加えて私は、演技力、、、には定評があるのでな」



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