104 鳴り糸の音色


 廊の両わきを挟んで幾本も吊るされる、鬱金色の細い金属の糸。からだに触れればしゃらんと音をたて、橙色の照明を浴びるままに煌めきを増す。

「トリノもさまになってきたね」

 皇帝の寝室から後宮ハレムへとつながる廊を歩きながら、フェイリットは肩をすくめた。


 背が高くなった、とコンツェに言われて喜んでいたのは一昨日にもなるが、それにも増して彼は伸びた。横並びだった身長に差をつけられて、フェイリットは胡乱そうに側を歩くトリノを見やる。

 宦官のまとう漆黒の長衣が、青年へと近づいた姿によく似合っていた。

「僕は前から伸びてましたよ。フェイリットが気づかなかっただけで」

 そうしてすんなりと笑う顔に疑問を解かれて、フェイリットはしぶしぶ首を傾げる。

「そうかなあ」

「そうそう。バッソスは楽しかったですか」


「楽しかったよ、砂漠で水脈を探したんだ。いくつか見つけてきたから、あとは掘るだけ。地図もつくった」

「へえ、前から好きそうでしたしね、地理やら井戸やら」

 手をのばし、天井から垂れる鳴り糸にしゃらしゃらと触れながら歩く。

 腕をかすめる糸先の房が、くすぐったくて気持ちよかった。楽しげにしていると、それをトリノが邪魔するように前方に立つ。

「わ、ひどい」

 腕をかすめるはずの鳴り糸が、トリノのせいでこちらに来ない。楽しみを奪われて、フェイリットは負けじと彼の長い衣の裾を引っぱった。


「っと! 転んだらどうするんですか」

「転んじゃえばいいよ」

 二人で掴みあい笑っていると、ふと離れたところから鳴り糸の音がする。

 はっとなって振り返り、フェイリットはその先を見やった。

「あれ、陛下?」

 寝室に見えなかったから、ウズのところに居るのだとばかり思っていた。よもや後宮ハレムで出くわすなんて。


「愉しそうだな」

 赤墨色のローブを纏い、湾刀まで履いている。その姿が目の前に来て、フェイリットは遠慮がちに笑った。

「ええと…こんにちは」

 帝都に戻ってからというもの、昼日中に顔を合わせることがなくなってしまった。そのせいか、なんだか気恥ずかしい。

 朝はウズのところで小姓の仕事をし、昼食を食べるためにハレムに足を伸ばす。昼食を終えたらすぐに取って返し、今度は奴隷軍マムルークにいるシャルベーシャの元、馬の世話や鍛錬をしていた。

 いつもならとっくに飛びついている首元を見上げて、フェイリットは肩をすくめる。

 今日に限って、なぜだか彼も〝おいで〟とは言わなかった。


「これから昼食か」

「はい。はじめは面倒だったんですが、ここで食べるとゆっくりできるんですよ。半刻ぐらいですけど」

 ウズの元では、もっと時間を削られる。半刻というのは、短いようで長い休憩なのだ。鼻息を荒くして吐き出すと、バスクス帝は口元を緩めて笑ってくれる。

 伸ばされた手が頭に触れて、薄いヴェールごしに撫でていった。


「すまないな、ともにできたらよかったのだが。これから四公と謁見がある」

「四公? ホスフォネト公王もいらっしゃるんですか」

「……どうだろうな。あの男は腰が重い」

 どこか暗い表情。厳しい眼差しのその向こうに何かあるような気がして、フェイリットは彼をじっと見つめる。

 それは玉座の間に立ち尽くしていたあの夜からの、小さな違和感だった。結局、なにも語らぬまま夜を明かして今に至る。


「陛下、」

 何かあったのですか。その言葉を飲み込んで見上げると、彼は片方の眉を上げた。

「わたし忘れてました。まだ賭けの報酬、はらってなかったですよね」

「報酬?」

 大きく頷いて、フェイリットは歯を見せて笑う。

「肩揉みです」

 バスクス帝の強張った顔が、ふと力を抜いて優しげに緩む。

「そうだったか?」

 肩揉み――それは遊戯盤を習った初めの夜に、報酬として賭けた小さな代償だった。

 あの夜勝ったはずの彼が、褒美としてくれた気の荒い月毛の馬は、今や軍一の駿馬だ。


 どうしてハレムに居たのか。四公をどうして呼んだのか。ホスフォネト王の名を出したとき、顔色を曇らせたのは何故か……。本当に訊きたいことを、やはり言葉にできぬまま。

「では夜にな。楽しみにしている」

 最後にもう一度、フェイリットの頭に手を置いて、バスクス帝は過ぎてゆく。

 離れていく背中を見ながら、フェイリットは自らの頭に手を乗せ、そっと息をついた。

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