97 君を呼ぶ


 黒紅色の幕を捲り、ウズルダンは皇帝の背中を見つけた。

 玉座の裏――彼の私室となっている空間は薄暗く、たった一つ灯された燭台の明かりは窓べりの床に置かれている。真夜中をとうに過ぎていたが、バスクス帝は未だ正装を身に纏ったまま。窓に目を向け、回廊ごしの月を見上げていた。


「お戻りでしたか」

 足元を照らす蝋燭の灯火を眺めながら、ウズルダンは皇帝の背中へと近づいていく。

 どこかへ出掛ける姿が見えたため、ウズはてっきり彼がアンを追って行ったのだと思っていた。だがこの様子を見ると、危惧していたような〝こと〟は、なにも起こらなかったのだろう。

「ああ」

 一言だけ、呟くようにバスクス帝は応えた。


「美しい庭だった。いい趣味をしているな」

 じっと注視していなければ見落とすほど小さく肩をすくめると、彼が皮肉げに振り返る。そこにいつもの顔を見つけて、ウズは深々と息をついた。

「いつかの日のための研究です。 灌漑ファラジは頭の中だけで、組み立てられるものではありませんので」

 庭の薔薇を見た。ということは、アンと会っていたのは間違いない。背にした窓から二三歩いて、バスクス帝は肩を揺らし笑う。

「好きでなければ、長く続けることはできん。立派な趣味だろう」


 反論しようとするものの、開けた口からは空気だけが漏れていく。趣味だと言われて、否定できない自分が情けない。

「……如何様いかようにも。ところでハレムの件ですが」

「ああ、決まったか」

 羽織っていた外套を、無造作に脱ぎ捨てるバスクス帝を見ながら、ウズは首を縦に動かす。

「こちらです」


 縮小するハレムに、新たに設ける予定の妾妃たち。ウズはその名前を記した皮紙を懐から引き抜き、バスクス帝へと差し出した。

「……若いな。一番下は十四歳か」

「テナン公女、シアゼリタ・ロアです。若いとはいえ並べれば〝六歳差〟ですし、たとえ兄妹でも血のつながりはありません。まあ、テナン公国には公女が一人しかおりませんので、仕方の無い選択だったわけですが。他にイリアス公国から第三公女シトラン・ガダ、ドルキア公国から第五公女ウルヴァシア・ウルーピー」

 名前を読み上げると、バスクス帝は難しい顔で溜め息をつく。


「……タブラ=ラサをどうするか」

「タブラ=ラサ? 勿論含めるのでは」

 タブラ=ラサことメルトロー王国第十三王女、サディアナ・シフィーシュ。かの国の王女を持っていれば、いずれ外交に有利だ。それを踏まえて筆頭のジャーリヤにしたはずで、今さら躊躇う理由などどこにもない。

 年齢的に考えれば、彼女はシアゼリタより適任でもある。

「そうだな」

 苦い顔で小さく笑い、バスクス帝はターバンに手をかける。彼がその長い布をほどくのを眺めながら、ウズはふと口を開いた。

「そういえば、そのタブラ=ラサはどちらへ?」


「ああ、アンの顔を見に行くと言っていたが。今日はそのまま泊まって来るだろう」

「……自由ですね」

 彼女とともに来た妾妃ギョズデ・ジャーリヤヒーハヴァティは、すでにハレムの一室に身を置いている。

 本来ならば、籠の鳥とも呼ばれるジャーリヤ。小姓をさせていた頃ならともかく、その自由は普通ならば与えられることのない待遇だった。

「自由な方が、あの鳥は面白い」

 ……思ってもみない表情で、彼はそう言った。柔らかな、見たことのない微笑。

 ウズは驚きを隠せずに、バスクス帝の顔を見続ける。


「それは、」

 どういう意味なのか。……そう問おうとした瞬間だった。


「陛下! 宰相閣下!! おいでになられますかな!」

 玉座の間から、時刻にそぐわぬ声が聴こえる。バスクス帝と顔を見合わせて、ウズは玉座の間へとつながる仕切りを潜り抜けた。

「――お前は」

 後ろからバスクス帝が続くのを確認しつつ、ウズは眼下の来客を見やる。


「トゥールンガ」

 玉座を前に膝をついた男は、バスクス帝の名を呼ぶ声に顔を上げる。

「陛下! 売国奴を処断致しました。お聞きください、テナン公国は…極秘裏にメルトローと同盟を組んでおったのです! ひとりきりの公女をかの国の宰相に娶せてまで! これは歴然とした裏切り行為。公女の首を取り、晒す用意が整えてあります。陛下、ご命令を!」


 まくしたてるようなトゥールンガの声が鳴り止むと、しんと静かな空気が降りる。

 シアゼリタの首を取った。この耳が狂っていないなら、確かに彼はそう言った。

「それは本当か」

 低い声が、問いかけるように響き渡る。ぎんぎんと耳をつくトゥールンガの声とは違い、それは背筋がのびるような威圧的な音だった。

 萎縮するように肩を低く下げると、トゥールンガは何度も頭を上下にして頷く。

「も、勿論、……私は忠実な陛下の僕。偽りを言うことがありましょうか?」

 気を取り直したのか、言っているそばから、まるで誇らしいとでも言うように胸を張り彼は答えた。


「……ウズルダン、確認を」

 玉座に座ることも無く、バスクス帝はじっと男の額を見続けている。彼の言葉が本当ならば……事態は一気に危ぶまれる。

「御意」

 格式張った拝礼をとると、ウズは玉座の段差を降りはじめた。

「事実が分かり次第、この者の元帥位を剥奪。帝国法に則り処刑しろ」

「そ、そそそそそんな陛下、私は……!」

 慌てたように立ち上がり、トゥールンガが後じさる。それを追い立てるように立ちはだかり、ウズは彼の腕を掴み取った。


「命令を請うのが遅かったな。例えテナン公女がメルトローに嫁いだという事実があったとしても、シアゼリタは王族。そしてお前は元帥とはいえ、一介の貴族に代わりない。支配階級の公爵家一族を処罰できるのは、皇帝と、定められた者たちのみ。お前がとるべき行動は、いち早く予に状況を報せることだった」

「へ……陛下」

 気が抜けたように呟くと、トゥールンガは膝の力をがくりと無くした。その腕を無理やり引き上げ、ウズは眉をひそめる。


「近衛!」

 声をあげると、すぐさま湾刀を下げた兵たちが現れだした。

「今の会話の口外を禁じます。この男を命が下るまで軟禁しておきなさい」

 ウズの命令を黙って聞きながらも、捕らえるべき人物が〝帝国元帥〟であることに、近衛士たちは一様に驚いた様子を見せる。


「承知致しました」

 トゥールンガを引き渡された近衛が、さっと軍式の礼をとる。驚きに顔を染めていないところを見ると、おそらく彼が隊長か。

 ウズが頷くのを待って、嫌がるトゥールンガを引き摺りながら警備の近衛たちは去っていった。


「……あれではテナンに立派な大義名分がついたな」

 シアゼリタが殺された。それが帝国元帥こちらがわによるもので、彼が「陛下の御為にやった」とでも言えば、断罪は免れない。テナン公国は公女を殺された報復を謳うだろう。

 かねてより独立の時期を見計らっていたかの国にとって、これはまたと無い機会だ。


「ですが、おそらく元帥自身は手を下していないでしょう。公女がメルトローへ嫁ぐなどとは、あの男が嗅ぎつけられる題目ではない。テナンの自作自演か、あるいは」

「――メルトローの張った罠に落ちたわけだな」

 テナン公国が、まさかメルトロー王国の裏の見えた援助に乗るとは。

「ええ。事実を調べます」

 独立に手を貸す。例えそう囁いたとして、メルトローの狙いは明らかに鉄。良質な鉱山を持つテナンは、確かに他国からみれば涎の出る宝石だ。

 甘い援助の裏側には、間違いなく新たな支配者の顔がある。


「シアゼリタの暗殺が真実で、帝国側が関与した証拠があがったなら、二三日にも奴らの動きがあるだろう。まるであらかじめ、予測していたようにな」

 苦々しい。今にもそう吐き捨てそうな顔で言い、バスクス帝はどさりと玉座に座り込む。

「困りましたね……これでは当初の予定が。まさかシアゼリタ公女が殺されるとは」

「コンツ・エトワルトは、まだこのことは知らんはずだ。あちら側につかれては、総崩れだぞ」


 ――バスクス帝を殺害させた、、、四公爵を集め、均等な処断をもとに、テナンから籍を抜いたコンツ・エトワルトを帝都出身の新皇帝と認めさせる。

 その当初の計画は、テナン公国の反乱ひとつで水の泡だ。

 反乱の理由が〝公女暗殺の報復〟であれば尚更、鍵となるはずのコンツ・エトワルトは得られない。あの優しさが取り柄のような青年は、かならずや妹の死を悲しむはず。


「イクパル諸代の汚濁と八年前の罪の払拭は、夢物語に終わるか」

「いえ、そうはさせません。コンツ・エトワルトを帝都領域から出さぬよう計らいます。シアゼリタ暗殺の報を、ぎりぎりまで留めましょう。この国は、なんとしても生まれ変わらなければならない」

 そうはさせない。この長い月日を、何のために費やしてきたというのだ。ウズは強い眼差しで、玉座の上の彼を見上げる。


「――そうだな」

 息をつくと、バスクス帝は視線を受け止めるように、深くゆっくりと頷いて見せた。





* * *


 回廊に漏れるわずかな明かりを踏み、フェイリットは立ち止まった。

 深夜をすぎた皇帝宮は、さすがに人気も見当たらない。そのはずが、まだ起きている人がいるのだろうか。あまり立ち入ることのなかった中央区で、フェイリットは好奇心のまま、光の漏れ出るその仕切りに手をかけた。


「……あれ、」

 手触りの硬い幕を引き上げて、口を開ける。

 玉座を見上げるように、その手前の段差で立つバスクス帝の背中だった。フェイリットの来訪にも気づかず、ずっと同じ姿勢でどこかを見つめている。


「陛下」

 このまま気づかせずに立ち去るべきか、声をかけるべきかを迷った末、フェイリットは後者を選んだ。

 背中に小さな声を聞いて、バスクス帝は上げていた顔をそっと足元に下ろす。音はなかったが、吐き出すような溜め息で彼の肩がわずかに下がるのが見えた。

「……いたのか」

 そう呟いて振り返る、疲れたようなバスクス帝の顔。フェイリットは小さく目を細めてから、頷いた。


「お休みにならないんですか」

 深夜までほっつき歩いていた自分が言える台詞ではなかったが、それでも時刻は明け方に近い。いつから彼がそうしていたのかは分からないものの、そろそろ眠ったほうがよいのは分かる。

 バスクス帝はフェイリットの問いかけに、ゆっくりと苦笑した。

「ああ、そうだな。……楽しかったか」

「はい」

 酔いすぎて気の大きくなったマムルークたちと、なんと宰相家に乗り込んでしまった。などとは、フェイリットの口から言えたものではない。


「それはよかったな」

 頷くバスクス帝が、ふと思い立ったように歩み寄る。

「…は、んっ」

 掴み取るように抱き寄せられ、咄嗟に空気を飲んでしまった。

「どっ……」

 喉奥でむせそうになりながら、どうしたんですか――そう問おうとして、フェイリットは口を噤む。

 頭を掴み背中をく……一歩踏み出されたならその重みに負けそうなほどの深い抱き方。こんなに縋るような体重のかけ方を、彼は今までしたことがなかった。


「あ、の」

 フェイリットは身体の横に忘れていた手を浮かせて、そっと彼の背中にまわす。ローブも羽織らぬその身体は、風を掴んだように冷たかった。

「フェイリット」

「はい」

「……抱いていいか」

 耳元で囁かれる、渇いたような低い声。痺れに似た甘い感覚が、下腹を押し包んでゆく。


「……はい」

 ひたいからまぶた、くちびる、あご、首すじ、胸――丁寧に丁寧にんでゆく唇に身悶えて、

「へいか…」

 たまらずに彼の黒髪に指を差し入れる。


「ディアスだ…フェイリット……私の名前は、ディルージャ・アス」

 何があったのだろう。口先にまでのぼった疑問は、結局声には出せなかった。息をつかせぬ唇が、力強いその腕が、まるでなにも聞くなと言うように。


「ディアス……」

 フェイリットは、問いかけや返事のかわりにその名をささやき、まわした腕にそっと力を込めた。



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