93 迷路の街で
「……ねえ、エトワルト」
帝都アデプを歩きながら、アシュケナシシムが立ち止まる。振り返って彼を見ると、コンツェは驚いて顔をしかめた。
「お前、」
「ごめん……」
崩れ落ちるようにしゃがみ込むと、アシュケナシシムは口元を押さえて咳をはじめる。顔は血の色を失い、口元を抑える指先さえも蒼白に変わっている。コンツェは慌てたように彼の元に膝をつき、その背に手をあてて覗きやった。
「ごめん、て……大丈夫なのか」
「うん、休めば、なんとか」
ひゅうひゅうと鳴る苦しそうな息をしながら、アシュケナシシムはまた激しい咳を繰り返す。様子を見て背中をさするが、彼が顔を上げる気配は見られなかった。
休んでなんとかなるようには思えない。
「医者にみてもらおう、アシュ。お前、前から思ってたけど、医者にかかってないだろ」
喀血するほどの発作をおこすくせ、未だに彼の〝主治医〟を称する者の影をコンツェは見たことがなかった。
ここになら、信頼できる人がいる。アンに診せさえすれば、多少の義理は通してもらえるはずだ。たとえばアシュケナシシムの素性が、彼女にとって「敵」であろうとも。
「知り合いがいるんだ。診療所は城内だけど、お前はすぐそこの宿で寝てろ。俺が行って連れて来る」
帝都には入ったばかり。城に行くには、この迷路のような路地をまだまだ歩いていかなくてはならない。しかもイクパルの路地は舗装されておらず、土の盛りあがる粗雑な箇所が無数にみえる。おぼつかない足取りでは、一気に転んでしまうほど勾配もまちまちだった。
そんな道のりを、アシュケナシシムが自分の足で歩けるとは思えない。まして背にかついでも、今度は暑さにやられてしまう。太陽もすでに傾き、じきに涼しい風が吹いてくるだろうが、それはまだ先の話だ。
「やめて」
立ち上がりかけたところを、アシュケナシシムの腕が制する。コンツェは思いとどまり、地面に再び膝をついた。
「まだ真っ青だろうが」
「やめてよ、医者なんて嫌いだよ。僕は医者より自分の身体をよくわかってるから、必要ない。まだ死なないから大丈夫」
腕を掴む彼の指が、力強く食い込んでくる。その痛みに目を細めて、コンツェはアシュケナシシムを見つめた。
「大丈夫に見えないから言ってるんだ」
「いやだ。呼んだりしたら、ただじゃおかないよ。そこ、宿屋なんだろ。僕はそこで休んでるから、君はさっさとサディアナを見つけてきなよ。逢いたいんだろ?」
アシュケナシシムが指差す先に、コンツェが先ほど休んでいろといった民営の宿屋がある。土壁の、ごく普通の宿屋だ。帝都への入り口に位置するため多少は割高のはずだが、彼を泊まらせるには足りないくらいの設備だ。しばらく休ませて彼の回復を待ったら、別の場所に移したほうがいいだろう。
「俺の用事は後回しでいい。水をもらってきてやるから、行こう」
肩を貸して立ち上がらせ、宿屋に向けて歩こうとする。けれどアシュケナシシムの足は、頑として動かなかった。
「何も食べたくないし、何も飲まなくても平気。欲しくなったら宿に言うよ。……ほら見て、息も落ち着いてきただろ。放っておいてくれたほうが、僕は助かる」
貸していた肩から身体を離し、アシュケナシシムが真っ直ぐにこちらを見つめる。
「…お願い、エトワルト」
たしかに息はまともになったが、顔色は相変わらずだ。けれどここで反論しても、彼にとって立っている時間を延ばすだけになる。一刻も早く横にならせるには、頷くしかなかった。
「わかった。辛くなったら、無理しないで宿の主人に助けを求めろ、いいな?」
宿泊に必要なだけの銅貨を余分に握らせて、コンツェは彼を見送る。アシュケナシシムの姿がしっかりと宿の中に入るのを見届けて、ほっと息を吐き出した。
目的は二つ。皇帝にシアゼリタ殺しの真実を問い、フェイリットを連れ戻す。いきなり宮殿を訪れて、バスクス帝が謁見に応じるとは思えないため、おそらくこっちは明日のほうがいい。……となると。
「あれコンツェ!?」
歩きながら険しい顔で考えていると、そばの建物の中からひょっこりと赤毛が見えた。
通りに面した土壁の窓は、砂埃を防ぐため小さく高く作られている。覗き用のそこから見知った人物を確認して、コンツェもまた口を開いた。
「――アン少尉?」
小さな覗き窓から赤毛が消えて、次いで入り口の垂れ幕が捲れ上がった。三段ある段差を駆け下りると、アンは着ていた軍衣の首元と一緒に、そばかすののる頬を緩める。
「やっぱり。よかった、戻ったんだな」
同僚を含め、アンにも直属の上司にも、テナン公国に帰ることは告げずにいた。身勝手にイクパル本土を後にした手前、どうしたものかと考えてもいたが、この様子ではワルターが手を回してくれたのだろう。アンが知っているのも頷ける。
〝戻ってきた〟のではなく〝けじめをつけにきた〟だなんて、言えるはずがなかった。
シアゼリタを殺させた犯人が本当に皇帝ならば、近衛から足も抜くつもりだ。
けじめをつけにテナンに帰ったはずが、同じ理由でまた本土に舞い戻ることになるとは…。
「どうしたんですか、珍しいところから」
問いかけを
邸宅のようだが、下級の貴族街すれすれに建っており、城の最終門からもかなり外れたところにある。つまりここは城下だ。
アンが城下へ出て行く姿はあまり見かけないため、どうしても珍しく感じてしまう。
このままアシュのところへ連れて行こうか。そう考えてみるものの、やはり彼の嫌がるしかめ面が目に浮かんだ。
「ああ、ちょっと師匠のところにね」
「師匠って……テリゼアシダ様の?」
テナン王家の血筋を引くくせ、放浪ののちに民家に腰を落ち着けてしまった〝変わった〟婦人。そんな印象が頭に浮かぶ。アンに医術を教え、逃亡に手を貸した張本人だが、コンツェはまだ顔を合わせたことがなかった。
「そう、たまに顔見せとかないとうるさくてな」
アンは声を立てて笑っているが、その顔はひきつり疲労さえ見える。久しぶりに師を訪ねたという格好には、どうも見えなかった。
この人も嘘をつくのが苦手だな、そう思いながらコンツェは苦笑する。
「帰ってきたならうちに来るか。どうせ飯もこの辺で済まそうと思ってたんだろう」
「ええ、この辺で済まそうと思っていたのは確かですが、連れがいるんですよ」
「へえ、まさか女か?」
困ったように笑って、コンツェは違いますよ、と首を横に振った。
顔を見たなら女だと確信しそうだが、アシュケナシシムは立派に男。不浄の無い船に長く揺られていれば、確認する機会はいくらでもあった。
いや、性別がどうこう以前に、顔を見たならフェイリットとの類似点に驚くだろうか。
「構わないよ。どうせ場所だけはたくさんあるんだ」
ワルターも呼んでやるぞ、という言葉に思わず首を振って、コンツェは口元を緩める。
「いえ、そんなに大袈裟に歓待して頂かなくても」
「遠慮するな。気が向いたら連れも一緒に引っ張っておいで」
悪気のない大らかな笑顔に、少しだけ胸が痛む。自分はこんなにも簡単に、嘘がつける男だっただろうかと。
「はい」
頷いて見せて、コンツェは微笑んだ。じゃあな、と笑ってアンはもとの建物に戻っていく。
暗くなり始めた空を静かに見上げてから、コンツェはまた歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます