92 海神に愛された貴公子


 大理の床をがつがつ踏み鳴らす、軍長靴の音が耳につく。

 橙の灯火がきらびやかに灯り、天には夜空を模した紺碧の絵画、両脇には歴代の王たちの白い顔が並んでいる。

 磨かれた床は靴先を鮮明にうつし出し、均等に並ぶ燭台の光を受けてきらきらと輝いていた。


 その久しい光景を横目に流しながら、なおも肩を揺らし歩く隣人を、カランヌは盗み見る。

 肩元まであった黒髪は刈り込むほどに短く切られ、横顔は青白く死人のよう。両脇に建ち並ぶ王たちの彫像に、そっくりだった。


「……ご無事で何よりでした」

 カランヌの呟くような声に、彼は返事を返さなかった。ただ硬い足音ばかりが鳴り響く廊下の突き当たりで、侍従の一人に目配せをする。


「国王陛下がお待ちです」

 彼――イグルコ・ダイアヒンの合図を受けて、侍従は深い礼とともに、大きな扉の向こうへ来訪者の伝達を行う。

 音を立てて開かれるその巨大な〝穴〟に、彼が先立って入っていく。飛び込むかのような勢いは、この城に入った瞬間から抑えられることはなかった。


「イグルコ、カランヌ。……よくぞ戻ったな」

 朱色の絨毯は、足音が鳴らぬようつくられている。だがそれすら彼には効かぬようで、メルトロー王の声がかかり彼の面前に膝をつくことになるまで、彼は足音を鳴らし続けた。


「陛下、ただ今戻りました」

 膝をつき、無言のまま床を見ているイグルコに代わって、カランヌが口を開く。長たらしい挨拶を述べるべきかと奥歯を鳴らすが、それよりも少しだけ早い瞬間、メルトロー王が右手を上げた。

「イグルコ」


 老王の声が、玉座の間に響き渡った。年輪を重ねた重みのある声に、ようやくイグルコが目線を上げる。

「さすが〝海神の愛児いとしご〟と呼ばれた男。海の女神は、やはり閣の命を奪うことができなかったな」


 労いの言葉に、イグルコは深々と頭を下げた。

 公女シアゼリタとともに〝暗殺者〟によって帰路を襲撃された彼は、ひとり難を逃れ、燃え残った帆船の木屑にしがみついて命を存えた。


 ……それが彼の、存命の筋書き。


 その下げた顔には、果たして命令を達したがゆえの喜びの色は浮かんでいまい。覗き見やる必要も感じず、カランヌはつられるようにして額の位置をわずかに下げて沈黙する。


「いえ、陛下。その逆です。私が本当に海神に愛されているのなら、とうの昔に海の底へ沈んでいたことでしょう」

 けれど低く、しっかりとした声でイグルコは言った。自分の悪運を皮肉るようにも、陛下の労いに対する抗いにも聞こえる言葉を。


「ならばそれで結構。陸に上がり、愛も薄れたか。陸の王である儂にとっては、喜ばしいことでしかない。イグルコよ、違うか?」

 言葉の深い意味を、おそらく王も察している。だがかれは一言でそれを一蹴し、皮肉へと置き換えてしまった。

「……御意に」


 イグルコ・ダイアヒン・ファ=ファーデン――階級は伯爵。遠くはあるが、その家名は王家にも連なる確固たる血筋を持つ。

 海軍副総督から王国の丞相にまでのし上がり、その若い頭脳を必死にひた働かせてきた男は、けれど最後の一足を踏めなかった。

 王の意のまま「御意」と応え、彼はその死人のように真っ白な顔を再び床へ落とす。


「状況は?」

「はい、公女の首は計画通りイクパル本土へ運び込みました。他はこちらに持ち帰りましたが――……確認なさいますか」

 カランヌの言葉に、王は指のはらで肘掛を叩く。

 公女の入った棺は、実際にはまだ港に格納させてある。どこへ運びどう処分するかは、国王の下す判断だ。


「いや、首から下に用は無い。入念に焼却しろ」

 ――この一言で、〝彼女〟は骨も残されないことが決まった。よもや隣人の顔色を伺うことさえ、カランヌはしなかった。


「御意。サディアナ王女の収用は、テナンの第五公子とアシュケナシシム殿下に引き継がせました」

「テナンの第五公子……コンツ・エトワルト・シマニだったか?」


「ええ、なかなか自我の強い男です。が、一度こちらに引き込めば、裏切ることはまずありますまい。大きな餌にも、じきに気づくことでしょう。追ってご命令がおありでしたら鷹を飛ばしますが」

 カランヌの言葉に、王はひとつだけ頷く。

「まずは〝えさ〟に気づいてからだ」


 ふと視線を横にずらし、王はその先を眺め見た。壁に並ぶ太い円柱のそばから、控えていたのだろう男たちが進み出る。

 けれどその思わぬ顔ぶれに、カランヌは目を開いて王を見た。

「……まさか、…彼らを?」


「そうだ。ディフアストン、ギルウォール、ハサリオード、ファンサロッサ――儂の息子を四人、テナンへ送ろう。内、海軍艦隊の総指揮をギルウォールに任せる」

 並ぶ顔のすべてを順番に見つめ、カランヌは唾で喉奥を鳴らした。


 揃いも揃って、嫡子ばかり。三十九歳の第一王子ディフアストン、三十七歳の第二王子ギルウォール、三十三歳の第五王子ハサリオード、同じく三十三歳の第六王子ファンサロッサ……彼らはこのメルトロー王国において〝四将君子〟とも言われる国軍の「かなめ」だ。彼らが出た、、ということは――戦争の封が切られる刻限も、近づいている。


「今後はこの四人に、テナン公国独立への援助をさせる。陸の総指揮をディフアストンに一任。カランヌ、お前はこれまで通り諜報に努め儂に流しつつ、ディフアストンの下につけ」

 カランヌは王に向けて敬礼する四人の王子からようやく目を外し、礼の形に頭を下げた。

「イグルコ、」

「……はい」

「お前には暫くの休養を与える。しっかり体をやすめ、また儂の隣に戻って来い」

「……御意」

 イグルコの青白い顔は国王を見上げず、床に向けられたまま。

 そうして立ち上がり、二人で退去の礼を王に向ける。



 ――海の女神に、魂だけ抜かれたな。



 王子のうちの一人が、嘲笑じみた囁きをもらす。それを後ろ背に聞きながら、カランヌはイグルコが歩き出すのを待って、彼の背に続いた。




 その日から幾日も経たず、彼の失踪が露見する。


 メルトロー王国丞相イグルコ・ダイアヒン・ファ=ファーデンは、休暇を終えて玉座のそばに戻ること無く、


 歴史の上から名を消した。



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