78 乳香が咲き、


 そっと寝台から身を起こすと、フェイリットは片手の甲を額にあてた。


 ――眠れない。


 体調を気遣うジルヤンタータに従い、早めに寝台に入ってはみたものの。夜更かしが習慣づいたのか、それとも短い睡眠に慣れてしまったせいか、浅い眠りを繰り返してすぐに目が覚めてしまう。


「ジル、寝たかな」

 彼女が寝ているのは、仕切りを挟んだ隣の寝台。使用人のための部屋にこっそり泊めてもらっているのは、オフデ侯爵には内緒にしていた。なにしろ〝皇帝陛下とご一緒にお休みになっては?〟という提案が実行されたまま、フェイリットには帰る室がなくなっているのだ。「やっぱり部屋を下さい」などと、滞在している身では言い出しにくい。


 身を起こしたまま水でも飲みに行こうか考えていると、ふわりと吹いたつめたい風に乗って、乳香の香りが流れた。


 棒のような衝立てに、ぴんと幕を張った仕切りはフェイリットの背丈もない。その仕切りに昼間、バスクス帝から借りたままになっていたローブを掛けていたのだった。

 置き場所に困ったあげく皺にならないようにとその場所を選んだが、もしかすると眠れない原因はこれなのだろうか。香をつける習慣がなく、まして嗅覚の鋭いフェイリットにとって有り得ないことではない。けれどその香の焚かれた室で彼とともに寝起きしていたことを考えれば、それはおかしな話だった。


「……返しにいこうかな」

 そっと呟いて、フェイリットは身体にかかる掛け布を剥ぐ。夜の砂漠は、とても寒い。掛け布をどけたとたん空気の冷たさが押し寄せてきて、フェイリットは身を縮める。


 立ち上がって仕切りに掛けたローブを掴むと、ジルヤンタータを起こさぬよう、そっと室を抜け出した。

 薄暗い照明は続いていたが、深夜もすぎたせいか城の中は人気がない。室を次々に通りながら、フェイリットは気配を抑えて歩くことにした。廊下がないために、どこに誰がいるものか把握できないからだ。起きているならともかく、寝ている者にはこれで気づかれないはずだった。


 バスクス帝の部屋はジルヤンタータの部屋から六室ほど移動した先にある。もうそろそろという場所になってようやく一人、人影が立つのを室の先に確認して、フェイリットは立ち止まった。


 華奢な背中から、バスクス帝でないことはわかる。小姓か、それとも誰かの侍女だろうか。すっぽりとローブを着ていて、細かな体型まで観察することができない。フェイリットがじっと伺っていると、人影はくるりとこちらに向きを変えて、歩きだした。


「……誰?」

 距離にして十歩ほど。人影がこちらに気づいて、声をあげる。――女の声。振り返った顔を見て、フェイリットは息をのんだ。


 暗闇にもはっきりとわかる顔は、ヒーハヴァティ・ウィエンラ公女のものだった。夜目がきく側としてはわかるが、きっと彼女に自分は見えていないだろう。そう思って、フェイリットは口を開いた。


「すみません。……驚かせてしまって」

 フェイリットの声に、目前で立ち止まったヒーハヴァティが首を傾げる。

「タブラ=ラサ?」

 赤味がかった茶色の髪が、緩やかに波打って腰下まで流れていた。昼間は結い上げているその髪が、ヴェールにも隠されず目に触れている。


「はい」

「こんな夜中に、明かりも持たず何?」

「明かり……ああ、」


 そこではっとして、フェイリットは目を瞬かせる。彼女の左手に持たれた燭台に、ほんのりと明かりが灯っていたのだ。こちらを照らすように明かりを向けて、ヒーハヴァティは不審げに顔を歪めている。暗くても辺りを見渡すのに不自由しないため、うっかりしていた。〝普通〟なら、まず蝋燭をさがして火を灯していたはず。


「ぼんやりしていて」

 こんなのでは、言い繕いにもならないだろう。咄嗟に応えて、フェイリットは後悔した。

「変な子ね。――……そう、あなた、村娘なのですって?」

「え?」

「陛下が仰っていましたわ。山麓に近い村の出だって」


 ――バスクス帝が。彼女の言葉を頭に届けて、フェイリットはのろのろと首を縦に動かした。自分がメルトローの王女だという事実は、あまり公言してはならないものだ。彼が言うのなら、きっとヒーハヴァティ公女にも〝そういう〟ことにしているのだろう。


「……どうしてそんな子が零番目スフィルなのかしら。テナン公国とか、他の公国の公女が零番目スフィルだというなら、まだ理解できるのに」

 苛立たしげに呟くと、ヒーハヴァティは小さく唇を寄せて息をついた。その息が白く曇って、ほんのりと空気に溶けていく。

 フェイリットは何を言ったらいいものか、考えながらじっとしていた。


「侍女と一緒の室を使っているのですって? そんな男の子みたいな格好して、ハレムにも入れてもらえないなんて可哀想ですわね」

「それも、陛下から聞いたんですか?」

「いいえ。こっちは噂。けれど根も葉もない噂ではないでしょう? 現にあなた、まるでお小姓ですわよ。そうですわ、だから使用人の室を使っていますのね?」


 くすくすと笑いはじめるヒーハヴァティを見て、フェイリットは諦めたように静かに微笑む。確かに、最近の自分はターバンをしっかりと巻き、肌と髪は黒く染めて、小姓の衣装を纏っている。砂漠に自由に出るための変装だったが、考えればヒーハヴァティの前で女らしい姿でいたことがない。

 それはバスクス帝の前でも同じだった。


「そうかもしれません」

「……否定なさらないのね?」

「ええ。自分に必要だと思うので、こういう衣装を纏っているだけです」


 ――今の自分に必要なのは、水脈を記して残すこと。


 呆れたように息をついて、彼女は笑うのをやめた。しばらく沈黙したあとにふっと目線を落として、フェイリットの手元に向ける。その先には、バスクス帝のローブがあった。彼にローブを返すために歩いていたことを思い出し、フェイリットもふとそれを見下ろす。


「それ、陛下の……、どうしてあなたが?」

 いぶかしむように片方の眉をすっと上げて、ヒーハヴァティが問うた。彼女と一緒に居たころから纏っていただろうバスクス帝のローブは、あの屋上でのほんの少しの時間でフェイリットの手元に移った。彼女が知らないのは当たり前だ。


 敵意をむきだしているヒーハヴァティに、これ以上どう話せばいいものか。フェイリットは眉をひそめて考える。

「ええと、雨が降っていて、借りたんです。ちょうど良く居合わせたので」

「それでこんな夜中に返しにいらしたの?」

「ええ、」


 曖昧なフェイリットの返事のあとで、ヒーハヴァティは口を閉じて黙った。しばらくしてふっと息を洩らすと、彼女が微笑む。


「――そう、なら残念ね。陛下、今もハレムの、、、、わたくしの寝台に、いらっしゃるから」

 ゆっくりと区切りながら、囁くようにヒーハヴァティが言った。

 彼女が浮かべる笑みは、いつも美しい。勝ち誇ったように引き上げられた口元から、小さな吐息が吐き出される。


「だから今、陛下のお部屋にいっても誰もいらっしゃらないわよ。なかなか離して下さらないものだから、困ってしまいますわ」

「……そう、なんですか」

 フェイリットはヒーハヴァティの言葉に、曖昧に頷くしかなかった。他に何を言えというのか。


「そうよ、少し夜風に当たりたくて。彼がお休みになったのを見計らって、腕の中から出てきましたの」


 バスクス帝が彼女と寝台に居たと聞いても、あり得ないことではないと感じる。ふと脳裏に、タラシャとバスクス帝の姿がよぎった。帝都にいたころに見てしまった、彼らの情事の瞬間――そうしてタラシャの顔がヒーハヴァティとすり替わっていって、フェイリットは唇を引き結ぶ。

 なんて想像をしてしまったのだろう。


「ええと、じゃあ、戻りますので」

「そうね。ゆっくりお休みになって」

 ヒーハヴァティの頬が、笑顔の形につくられる。きっと遠目から見たなら、自分たちはとても楽しい話をしているようにとれるはずだった。

 フェイリットはイクパル式の略礼をして、彼女のわきを通り抜ける。


「愛していると、言ってくださいましたわ。あなたに勝ち目はありませんわね?」

 背中にかかる声に、突き刺される思いがした。フェイリットは足早に歩いて、早く彼女から遠ざかろうと懸命になる。



 ――今もハレムのわたくしの寝台にいらっしゃるから。

 ――なかなか離して下さらないものですから、困ってしまいますわ。

 ――愛していると、言ってくださいましたわ。



 彼女の言葉が、今になって胸を締め上げる。

「……関係ない。わたしは関係ない」

 自室に戻ろうと踵を返し、フェイリットはふと考える。バスクス帝がハレムに居るのなら、それはそれで都合がいいのでは?


 つまり今、彼の部屋には誰も人がいないことになる。

 ローブを返すには絶好の機会だった。彼が室に帰ったとき気づくよう、水差しの台の上にでも置いておけばいい。


 顔を会わせなくて済むし、ヒーハヴァティの言葉をこれ以上思い出さずに立ち去れる。

 そうしてバスクス帝の室まで辿り着くと、フェイリットはひとつだけ大きな息を吐き出した。誰もいない部屋に、儀礼としての挨拶は不要。


 けれども仕切りを掴んで引き上げた途端、フェイリットは小さな悲鳴をあげた。



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