77 想い慕う


「ね、わたしがたずな引いてもいい?」

 駱駝に取り付けた鐙に足をかけるジルヤンタータを見て、フェイリットは尋ねる。彼女は一瞬だけ顔をしかめて、鞍に腰を落ち着けてから、小さな息を吐き出した。


「よろしいですが、危ないと思ったらすぐに……」

「大丈夫」


 フェイリットは欠伸を噛み殺しながら、駱駝のたずなを引っ張った。

 昨夜はずっと眠れずに、寝返りばかりうっていた気がする。

 ジルヤンタータを心配させないよう、早起きのふりをして朝焼けに昇る太陽なんか見ていたけれど、フェイリットにとって朝夕の太陽ほど苦手なものはない。溜まっていた眠気が、今さらになって重くのしかかる。


 フェイリットは駱駝を進めながらぼんやりと空へ目を移し、ゆっくりと進む雲を眺めた。

 砂漠には珍しく湿ったような風が流れ、いつもより雲が多くなっている。相変わらず空の青さは突き抜けるようなのに、雲と風だけは雨でも降りそうな色をしていた。


「あれ」

 そうして見上げた目線の先にバッソス城を見つけて、フェイリットは呟く。人影を二つ、剥き出しの廊下に確認して、ゆっくりと目を瞬かせた。


 こちらから見えるバッソス城は、南側――ハレムがあるはずの区域だ。遠目にも緑が溢れた場所で、棗や椰子の葉が風にそよいで揺れているのがわかる。砂漠から区切るように石壁で囲われているが、こちらのほうが勾配が上のため、よく見通すことができた。


 緑を眺めるためなのか、ハレムの窓はみな大きくとられ、バルコニーのような形で突き出ている。剥き出しという表現が、ふさわしい造りだった。


 円柱が等間隔に並ぶその廊下に見た人影は、バスクス帝と、おそらくヒーハヴァティ・ウィエンラ公女。バスクス帝は上背もあり肌が浅黒いので、遠目からでもよくわかる。珍しくターバンを巻いておらず、黒っぽい長衣の上に濃紫のローブを羽織っていた。


 バスクス帝は普通、正装以外でターバンを巻かない。それがバッソス公国に訪問してからというもの、巻くことの方が多くなっていた。お忍びといえど、公式な訪問だからだろう。正装に近い衣装にターバンを併せる彼の姿を、フェイリットはすっかり見慣れていた。


 しかし今、彼のひたいから梳いて後ろに流した黒髪は短く、項あたりまでしかない。あんな髪型をしていたのだと思ってしまうほど、しばらく見ていなかった姿だ。


 ――くつろいでる……のかな。


 イクパル民族がターバンを外すのは、眠るときやハマムに入るときだけだ。他にはよほど親しい者同士でもなければ、人前で髪をさらすことがない。

 バスクス帝とヒーハヴァティ公女は、それほど親密になったのだろう。


 ずっと見ていると、しきりに何かを話す公女に大らかな顔を向けて、バスクス帝が頷いた。一瞬だけ、その頬が笑みの形になって公女へと向けられる。


「……笑った」

 なんだか、見ているのが忍びない。幸せそうなら、それでいいではないか。彼女は名実ともに揃った、妾妃ギョズデ・ジャーリヤなのだ。フェイリットが捉われている秘密や制約は、彼女には無い。


 喜ばしいことと思うのに、どうしてこんなに、悲しいような寂しいような気分になるのか。

 段差をのぼる前に手を差し出されて、公女が嬉しそうに首を傾げている。さっと視線を外して、フェイリットは駱駝の首筋をじっと見つめた。こうしていれば、余計なものは目に入らない。


 見えないように、考えないように。そうしてたずなをしっかりと握り、前に進むことだけに集中する。

 ジルヤンタータと幾らか会話したけれど――、頭ではまったく別のことばかり、考えていた。





 バッソス城は広い。

 帝都のサグエ城ほどではないが、東西南北の区域にしっかりと分かれていて、簡単には乗り越えることができない覗き窓つきの塀を四方に張り巡らせてある。


 薄い砂色で統一されたこの城は、砂漠の太陽の極彩色をそのまま、うつくしく照らし出すのだった。朝焼けで橙色、昼は青空に映える白砂の色。そして夕焼けで、なんとも優しいうす紫に染まる。


 きっとこの城を造った者は、根っから戦争なんて好んではいなかったのだ。

 イクパル全土の中で、最古にして堅固な砂漠の要塞。それがバッソス城の真の姿だ。もとは戦うためだった城の、それも外側に、こんなにも美しさを求める必要はないはず。帝城のように他を威圧し畏怖させる、赤い彩色だというならまだしも。


 そしてもう一つ違うのは、廊下がほとんど無いということ。部屋は部屋どうしでつながっており、どの部屋も、人ひとりが通れる幅しか取られていない。侵入者を阻み迷わせ、また武器を持った者を痞えさせる意匠だ。


「でも、こんな場所もあったんだ」

 部屋続きで廊下がなく、外を見張らせる回廊もない。そう思っていたが、フェイリットが今いる場所は、腰丈の塀が回してあるだけで、そこから遙か向こうまで、連なる砂漠と青い空を展望できた。昼に見上げたハレムの露台のような場所と、少しだけ似ている。


 昼食も食べずにぶらぶらしていたら、迷ってしまった。というのが本当のところだが、この見晴らせる砂漠の連なりを見れば、こちら側は南の区域に近いのだろう。

 見上げて帰ってきた、あのハレムがある辺りだ。

 塀には均一な間隔で支柱が並んでいるが、弓を引くのには狭くない。きっと、ハレムのある南側を守るため、見張り処として造られた場所なのだ。


「ぬう、」

 伸びをして、支柱に手をつく。

 きれいだった。真っ青な空が、地平線でふたつに砂漠を区切っている。雲が多くて、風が湿っている気がするのが難点だけれど。きっと、雲ひとつ無いからりとした天候にここにくれば、一刻だってぼんやりできる。


「弓か……」

 ふと呟くと、フェイリットは左手で空を掴んだ。そうして幻の弓を思い描いて、右手でさっと引いていく。そのままじっと、頬に当たる風を感じてから、雲のひとつを狙って定め――、

「いけ、」

 右手で掴む矢の端を、弾いて離してやる。


 小さな雲に突き刺さり、幻の矢はぽっと静かに消えた。

 弓を習ったのは、誰にだったか。確かにサミュンは弓を使えたけれど、直接習った覚えは無い。彼はそれを食料を得るためだけに、つまり、狩りでのみ使っていた。だからフェイリットにも教える必要がなかったのだ。


 戦いのためではない弓。それがとても好きだった。サミュンの放つ矢はいつも、呼び寄せるように獲物たちの身体に吸い込まれる。感心しながら眺めていた記憶はあるのに、習った記憶がどこにもないなんて。


「……降りそうだな」

 そのまま空を眺めていたところで突然、自分ではない声が耳に届いた。


「え、」


 低く深く、背筋を通り抜ける静かな声。そっと横を見やると、廊下の向こうに、バスクス帝の姿があった。フェイリットと同じようにして、見張り廊下から空を眺めている。


 彼の姿は、さきほど見たときと変わらなかった。黒っぽいと思っていた長衣は、茶が混じっているように見える。その上に薄いローブを羽織っていて、ターバンは巻いていないまま。

 ここが南側に近いという予想はあたっていた。きっと、ハレムから帰ってきたのだ。


「地を潤すものにはならんが、砂漠にも雨は降る」

 ほんの少しだけ目線を脇へずらしてこちらに寄せ、バスクス帝は囁くような声で言った。

「雨……砂漠にいたときから、湿っぽいなとは思ってました。……これから降るんですか?」


 そう返した瞬間に、サアアア……と聴こえる優しい雨の音が、耳に迫ってくる。

 フェイリットは驚いて、窓の向こうへと視線を移した。青かった空は一面、灰白い雲に覆われていて、むっとするような独特の雨のにおいが、ここまで昇ってくる。


「あの、」

 バスクス帝はとっくに歩き出していて、背中はずいぶんと向こうに進んでいた。

 〝付いて来い〟とは言われていない。けれど何となく、その背を追わずにはいられなくて、フェイリットは小走りに駆ける。

 追いかけた背中が不意に止まり、バスクス帝が前を見たまま小さく笑った。

「来るか?」


 彼が立ち止まったその前には、見上げるほどの階段が続いていた。ぽっかりと空く出口が外へとつながっている。真っ白で、少しだけ光が漏れ出ていた。両脇はすべて石壁で、道幅は片腕ほどしかない。


 階段を上りながら、フェイリットは上を見上げる。

 ――バスクス帝の背中。薄いローブを羽織っていて、それが揺れるたび彼の纏う香煙のかおりが流れてくる。甘くて、少しだけ辛いような。


 ついさっきまでハレムに居たのだろうに、少しも女の匂いはしなかった。乳香をつけているのは、バスクス帝ただ一人。大浴場ハマムでヒーハヴァティ・ウィエンラ公女と会ったとき、柑橘系の香油をつかっていたから、彼女の香りではないとわかる。


 甘い匂いにつられてそっと手を伸ばし、そのローブの裾を掴む。そうしてしまってから、フェイリットははっと唇を震わせた。

 自分の咄嗟の行動に、頬が熱くなっていく。慌てて手を離して、足元の階段をじっと見やった。

 ヒーハヴァティに差し出された彼の手は、……自分には無い。


「子供の頃、雨の日にここに来るのが好きでな」

 辿り着いたのは、城の屋上と思われる場所であった。一番上に立って、バスクス帝がふと息をつく。


 けぶるような霧が垂れ込める真っ白な空が、低い位置に広がっていた。まるで手をのばせば、その綿のような感触を味わえそうなほどに近く、雲が見えている。その雲が、霧のように細かな雨を、さらさらと吐き出し続けているのだ。


「わっ」

 雨を遮ろうと手をかざしたところで、頭の上に何かが被さる。一気に押し寄せた乳香の香りが、ふわりと身体を包んでいった。

 驚きつつも頭に手をやると、バスクス帝が羽織っていたはずのローブが触れる。


「あ、ありがとうございます」

 礼を言い少しだけ目線を上げると、彼は空を見上げたままじっとしていた。自らは濡れるのも厭わずに、その黒髪の流れる項から、ぽたぽたと水滴が落ちていく。


「……何も、見えないですね」

 雨の日に来るのが好きだと、バスクス帝は言った。けれど、どこもみな真っ白で、せっかくの景色が台無しだ。


 さきほどまで抜けるようだと思った青空も、今はどこにも見当たらない。わざわざ一番高いところに上っているのに、遠くの風景は霞にも見えなかった。

 まるで何もない空間に、ぽっかり自分だけが浮かんでいるような心地になる。


「そろそろだ。この辺りの雨は、すぐに止む」


 こんなのが好きだなんて、不思議な感性だなあ……そう思いかけて、次の瞬間。

 フェイリットは息を呑んだ。

「――わあ」


 ――雲のすきまから眩しいほどに降りそそぐ、たくさんの〝光の帯〟。


 驚きのせいで、言葉は思いつかなかった。ただただ空だけを見上げ、フェイリットは唖然とする。

 光は、何本も何本も、地を目指して降りそそぎ――暖かな陽射しの色は金とも橙とも言いがたい。灰色の分厚い雲間から噴きだして、どれもまっすぐに地上を指した。


「きれい」

 バスクス帝が、満足げにこちらを見るのがわかった。しっかりと頷いて、フェイリットは空を見上げたまま微笑む。

「本当に、すごくきれい……」


 息をついて言ったその声が、小さく震えていた。

 あの光のあいだを、ぬって飛んだら……、

 心地よい血の沸騰が、四肢ししをめぐって流れ出す。


「明後日の朝にここを発つ。帝都に帰るぞ」

 バスクス帝は息をつくと、空から目を外して言った。

「え? あ、」

 フェイリットははっと気づいて、自らの腕を見下ろした。


 ――よかった、変化はしていない。


 覚えのある血のざわめきが、全身をめぐって身体が熱い。なのに、不思議と痛くはなかった。皮膚が裂けて血が噴き出せば、その兆候の前からもう、叫びだしたくなるほど苦しいのに。


「確かにひと月にはまだ早い。だが、テナンの情勢に怪しい動きがあってな」

 話し続けるバスクス帝へ、意識を戻す。フェイリットはその言葉を考えて、ふと首を傾げた。

「テナンですか」


 テナン公国には今、コンツェがいるはず。それとももう帰ってきているのだろうか。……帝都の知り合いには、何も言わずにバッソス公国に来てしまった。彼らが今どうしているのか、フェイリットにはまったくわからない。


 ――自分の不在に気づいていたら、心配するかもしれない。アンもコンツェも。


「前以てジルヤンタータには伝えていた。荷物の整理はついているはずだ。お前の方はどうだ?」

「どうって、」

「水脈だ。まだかかると言うなら、ここにお前だけしばらく残ってもいい。シャルベーシャを置いてやる」

「……いいえ、水脈は、あとは地図に清書してまとめるだけです。明日からは城の書庫で。一日で終わらせてみせます」


 そうか、と頷いてバスクス帝はこちらを向いた。大きな手が近づいて、そっと髪を撫でていく。梳くよりも、絡めてもてあそぶような仕草だった。


「ではな、」

 そうして去っていくバスクス帝を見やって、フェイリットは慌ててローブを握りしめる。

「あの、このローブ」

 彼の姿は、もうとっくに階段の中にあった。また追いかければいいものか迷って、小さく息をつく。畳んでいたローブをふわりと開いて、試しに身に纏ってみるが、裾が長すぎてずるずる引きずってしまった。


「くれるってわけでも、なさそうだよね」

 何しろ丈が合わないのだから。もらったって、使えなければ仕方ない。どうにも貧乏性なのは、育ちのせいだと思うことにした。

 ローブを元どおりに折り畳んで抱えてから、フェイリットは気づく。


「あ……部屋、戻れるかな」

 自分が迷子だということを、彼に伝えればよかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る