74 遊戯盤


 ……どうしよう。

 室内に入ったはいいものの、入り口の仕切り幕を背中に、フェイリットは一歩も動くことができなかった。


 その目でちらりとバスクス帝を見やって、どうしたものかと口を曲げる。

 彼は寝台のへり、、に身を預けて、何かの書類を読んでいるところだ。挨拶とともに入ったフェイリットに、ほんの一瞬目線をあげたきり、書類に思考が傾いている。


「あの、おまじないを」

 ようやく言葉を振り絞るが、バスクス帝は首を左右に振って応える。

「すまないが、まだ寝るつもりはない」

「はい……」

 フェイリットは入り口に立ったまま頷く。


「お前も少し休んだらどうだ。砂漠に出て疲れただろう」

 休もうにも一体どこで休めばいいものか、フェイリットは目を泳がせる。

 せめて長椅子ぐらいあるだろうと思っていたのに、さすがはイクパル。床の上に直接座る生活様式に、よもや椅子など不毛なようだ。椅子と卓を当然のように使っていたウズが、極めて珍しい人物だったのだとわかる。


 綺麗な深紅の柄の絨毯と、寝台。水差しの置かれた小さな卓。石壁にかけられた何本かの芸術的なタペストリー。この部屋には、実はそれだけしかない。


 しばらく考えてから、入り口の脇に腰を降ろして座る。膝の上に顎を乗せて、フェイリットは静かに息を吐いた。

 こうして身体を落ち着けて、はじめて自分の疲れに気づく。どっしりとした疲労感が、肩の上からローブのように纏わりついているのが感じられた。


 寝る間際に呼んでもらうことにして、ジルヤンタータの部屋で寝台を貸してもらおうか。そのほうが邪魔にならないだろうし、この疲れもとれるかもしれない。

 そんなことを考え始めた矢先、


「タブラ=ラサ」

 間の悪いことにバスクス帝の声がとんでくる。


「そんなところで休む気か?」

「…だって、」

 書類を脇に置いて、バスクス帝がこちらを向いた。部屋の隅で丸まっていたせいで、気を遣わせてしまったのだろうか。


「……おいで、楽しいことをしよう」

「へ?」

 フェイリットは唖然として〝楽しいこと〟――それがいったい何なのか考えた。

 本当に楽しいことなのか、わかったものではない。普段なら手放しに喜んでいるだろうその言葉も、この男の口から発せられただけでこんなにも胡散臭く思える。

 そっと立ち上がり「陛下」の命に従うものの、フェイリットは寝台のそばで足をとめた。バスクス帝の顔を戸惑いつつ見やると、


「これだ」

 そう言って彼は長方形の盤を差し出す。

「知っているか?」


 この部屋に置いてあったらしいその盤の上には、いくつかの升目があって、升の中に収めるように馬の形や円柱の形の模型が乗せられていた。

 一見して、遊具の一種だろうことがわかる。山村の生活を送っていたから、上層の子供がやるような遊具には全く縁がなかった。けれど確かに〝楽しそう〟だ。


「初めて見ました」

「座れ。そこで突っ立っていても教えてやらんぞ。絨毯の上で、遠慮している必要はない」

 遊具ということは……とりあえず子供扱いされているらしい。

 フェイリットは安堵して、バスクス帝のいる寝台へそっと腰掛けた。


「セルトだ。駒を進めて自分の領地を獲っていく。教えてやるからやってみるといい」

「セルト……?」

「お前は一国の将。駒を上手く動かしながら、自分の陣地を守り、相手を攻めてその陣地を奪う。子供でも出来る戦の模擬盤というところか」


 そうして升の説明や進め方を逐一聞きながら、バスクス帝とのセルトがはじまった。

 教えられながら実際に駒を動かしていくと、案外奥が深い。フェイリットは必死になって説明を聞きながら、セルトの盤を見つめていた。


「国にいるのは兵だけではない。民や商人や盗賊もいる。それらの駒を上手く使って勝つことだ。この小さな方の盤の太陽の駒が、半周すれば夜。もう半周すれば朝がくる」


 まるで本当に戦を盤の上で繰り広げるように、さまざまな戦法があった。たとえば、兵を動かさず商人と盗賊だけを動かし、戦をせずに相手の国に勝ってしまうものや、夜の奇襲で一気に攻め取るものまである。

 単に子供の遊びというより、大人でも好みそうな遊びかもしれない。


「巧いぞ、お前の勝ちだ」

「ほんとですか!?」

 勝ちだ、と言われてフェイリットは素直に喜ぶ。盤にならんだ自らの駒が、バスクス帝の駒を取り囲んでいた。


 駒は囲むか、取るかで減らしていく。囲めば自分の兵も使えなくなるので、あまり使いすぎるのも良くない。

 勝ったことに喜びながら、フェイリットはふと気づく。よく考えれば、随分と手加減してくれたに違いない。享受を受けながらの初心者が、いきなり勝てるわけがないだろうに。


 ――もしかして、勝たせてくれた……?


「嬉しそうだな。気にいったか」

 バスクス帝は小さく笑って、盤の上の駒を並び変えている。フェイリットはぼんやりしていたことに気づいて、バスクス帝を見上げた。

「はい! おもしろいです、これ」

「じゃあもう一度。今度勝ったら、何でも言うことを聞こう」


「何でも?」

「ああ、今日の働きの褒美だ。欲しいものはあるか」

 何でも……褒美……。頭を捻って考えてみるものの、フェイリットにはなかなか欲しいものを思い出すことができなかった。


「ええと、特に思いつかないんですけど……」

 額に手をあてて宙を見つめるフェイリットを、呆れたように見やってバスクス帝が笑った。

「ならば馬はどうだ」

「馬……?」

「先程オフデ侯爵から、お前の髪と同じ色の駿馬がいるのだと聞いてな。お前にどうかと言われたんだが」

「ええ! いいんですか?」

「宝石云々より、そのほうが好みだろう」

「はい!」


 確かにバスクス帝の言うとおり、宝石をやると言われても、いまいち嬉しいとは感じられなかっただろう。寝台の上で一気に目を輝かせるフェイリットを見て、バスクス帝は苦笑する。

「いいだろう。だが私も本気でいくぞ」


 二戦目。時間の制限などはないので、じっくり悩んで駒を動かした。そうしてフェイリットは褒美のために、心臓をばくばくさせながら盤に意識を向けていたのだが、


「――私の勝ちだ」

 静かに最後の駒を置いて、バスクス帝が言い放つ。

「ええっ」

 褒美だと言うから、少しくらい勝たせてくれる気があると思ったのに。フェイリットはセルトの盤を穴があくほど眺めた後で、バスクス帝の顔をじっと見つめた。


「も、もう一回……」

「よく見ていたか?」

 静かな声で言って、バスクス帝が駒を戻し始める。

「気の向くままに駒を動かしていては、私には勝てない。今負けた原因はなんだと思う」

「原因……? ええと、陛下の城を攻めるとき、わたしが全部の兵を移動させたから……ですか? 陛下の兵は一見少ないように見えたけれど、実はもともと分散させてあったんですよね。で、わたしが兵を動かして空っぽになってた陣地を、陛下はその分散させていた兵を使って攻め落とした」


 フェイリットが盤を見ながらセルトの局面を思い起こしていくのを、バスクス帝は満足げに頷いて聞いていた。

 盤上には、バスクス帝側の陣地を取り囲むフェイリットの全兵の駒と、フェイリット側の陣地に完全に〝入り込んだ〟バスクス帝の一部の兵の駒が並んでいる。


 囲んだから勝ちだと思っていたが、よくよく見れば自分の陣地が侵されていたとは。自分の行っていることばかりに集中してしまい、全体を把握することができなかったのだ。

 フェイリットは顔をしかめて、兵の駒を摘み上げる。


「陛下……あの、わたし今さっき教えてもらったばかりなんですけど」

 素人相手にここまで本気でやられたのでは、彼の言うとおり夜が明けたって無理だ。それでも駒の並べ方は覚えたので、次のためにフェイリットは黙々と並べはじめる。


「そうか? お前ならできると思ったが。思ったほど要領はよくなかったな」

 からかうように言うその顔を見やって、フェイリットは複雑な顔をする。

 率直に褒められたわけではないのに、なんだか気恥ずかしい。

 きっと昼間の水脈探しが後を引いているのに違いなかった。砂漠を歩いて水脈を見るのは、地図上で思い描くよりも実は簡単なのだ。


 乾燥した地では、水の匂いをとても敏感に感じられる。その上に足を乗せるだけで、〝ああ、この下に匂うな〟とわかってしまう。それを説明すると、人間ではないことがばれるから黙っているのであって。

 地形や地図の見方ならひととおり習った。それでも実際に、地図と地形を符号させて見られるほど熟練してはいない。


 ――お前ならできる。


 まったくの買いかぶりだったけれど、それがまるで信頼されているような言葉に思えて、フェイリットは笑ってしまう。

 なんだか楽しい。こういう風に遊ぶのは、いったいいつぶりだろうか。


 サミュンが遊んでくれたのは、五歳に満たぬ頃合まで。稽古に身を入れるようになってからは、村の友人に会うことも少なくなった。

 考えてみれば、まともに遊んだことなんて、もう何年も無い。


 フェイリットは寝台の上にぽんと乗り上げると、盤を覗き込むようにしてバスクス帝の前に座った。彼はというと、いたって楽そうな体勢で寝そべり、片手に頭を乗せて、もう片方の手だけをこちらに伸べて駒を持っている。

 その余裕が、フェイリットを勝負の中へと駆り立てていく。先ほどまで感じていた疲れも、一気にふっとんでしまった。


「悔しいので、夜明けまでにはぜったい勝ちます!」

「……わかった、寝られるよう手を抜いてやろう」

「それはだめですからね! もう本気でびしっと、やっちゃってくださいね」


 かん、と音を立ててフェイリットが最初の駒を動かすと、バスクス帝は愉しげにこちらを見やる。

「ならばお前も褒美を賭けろ」

「え! なんでですか!」

「セルトは本来、何かを賭け合うものだ。なにせ国を取り合うのだからな。夜明けまで勝てなければ、賭けは私の勝ち。一勝でもしたならお前の勝ちを認めよう」

「ええと……」


「そもそも私は、人には滅多に教えないんだぞ。それだけでも報償を貰って然る」

 報償、と言われてフェイリットは眉根を寄せた。財産のようなものは何もないから、何かを賭けろと言われたら無形のものになるのは避けられない。だが、ここでしっかり答えなければ、〝褒美にお前の身体をよこせ〟と彼なら言い出しかねない。というより確実に言う。


 フェイリットは考える間もなく、

「じゃあ肩揉みします」

 即座にそう言い放った。


「それは……ずいぶん公平な褒美だな。私が馬で、お前が肩揉みか」

 明らかに皮肉ととれる言い方で、バスクス帝は片方の眉を上げる。確かに、ものの大きさは違いすぎる。賭けの褒美が肩揉みだなんて、今どきの子供より考えが足りない。フェイリットは小さく息をついて、バスクス帝を見上げた。

「……だめですか」


 じっと見ていると、バスクス帝は肩をさっと竦めて笑った。




 *


 はっと気づくと、身体が寝台の上に寝ていた。フェイリットは目だけを開けて、ぼんやりとそこに映るものを眺める。


 寝転んだ身体の前にセルトの盤が置かれ、その向こうに、バスクス帝の身体があった。

 うつ伏せに寝ていて、顔があちらを向いている。どんな顔をしているかはわからなかったが、ぐっすり眠っているのか身じろぎ一つしていない。

 うなされている様子もみられなかった。


 仕切りのように置かれた盤には、駒が途中まで並べてある。たぶんフェイリットの番で、駒を持ったまま寝入ってしまったのだ。起こされたような記憶はない。ということは、バスクス帝は盤の向こう側で、眠りこけたフェイリットをずっと眺めていたのか。


 彼の右手だけが、盤の位置を通り過ぎ、フェイリットの顔の前に置かれていた。ちょうど、鼻に触れるか触れないかという位置で。指先がフェイリットの巻き毛を、一房だけ絡め取っている。

 フェイリットはそこまでしてようやく、目の前の大きな手を見つめた。


「……わ、」

 大きい。片手だけでは、彼の手をすっぽりと覆うことはできないだろうな。そんなことを考えながら、フェイリットはそっと身体を起こした。無理をするように伸ばされた右手を、彼の身体の横に戻そう。


 そうしてなるべく静かに動かしたのに、次の瞬間には、持ち上げたバスクス帝の手がフェイリットの手のひらを掴んでいた。


「ひ!」

 フェイリットは突然のことに驚いて、悲鳴ともつかぬ声を上げる。

「……もう少し愛らしい声をたてられんのか」

 呆れたような、面白がるような、どっちつかずな声だった。どちらにせよ驚かされたのには違いないが。

 掴んだ手を離して、のそりと彼が起き上がる。


「あの、すみません……寝てしまいました。おまじないもできなくて」

 そもそもは、まじないのためにこの室を訪れたはずだ。フェイリットは寝覚めでぼんやりする頭を支えるように、片手を額に押し当てた。


「いや」

 はっと気づいたように眉を寄せると、バスクス帝は短く答えた。何かを考えるようにセルトの盤に目を落としている。けれど何故だか、その考えの内容がセルトでないことだけはわかった。


 しばらくして盤から目を上げると、

「賭けは私の勝ちだな」

 そう言って皮肉げな顔で笑みを作り、寝台から足を降ろして立ち上がる。

「あ、どこへ……」


大浴場ハマムだ。一緒に入るか」

「い、いえ、遠慮します」

「そうか?」

 喉奥でくつくつと笑った後、彼はそのまま室を出ていった。


「め……珍しい」

 フェイリットは寝台の上でしばらく考えて首を傾ける。何もされなかったなんて。これを珍しいと言わずにいられるだろうか。

 まったくの無防備な状態だったというのに、彼の体はセルトの向こうにあって、手は髪だけに触れていた。

 寝ている自分をじっと見つめて、髪を撫でているバスクス帝なんて――なんだかうす気味悪いが。


 考えてしまってから、それを吐き出すようにフェイリットは深い息をつく。

 頬や身体が熱いのは、何をおいても気のせいだ。



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