67 無能も暗愚も狂帝も、


「教えてください、わたしに何ができるかを。……わたしはメルトロー人です。それは紛れもない事実で、変えられない。メルトローで生まれて、メルトロー人に育てられて、メルトローを愛するように仕組まれました。けれど、メルトローの考えだけは、賛同することができないんです」


「考え?」

 バスクス帝の目を見上げて、フェイリットは頷く。


「彼らの目指すのは大陸全土の再統治。それも、あまり平和的とは言えません。メルトロー国王ノルティスの性格からすると、再統治は共存ではなく〝支配〟でしょう。近隣諸国に対してはなおさら、侵略の手が早いはずです。当然イクパルにもその手は及ぶ」


 溜め息のような息を口から出して、バスクス帝は肩を竦めた。

「イクパルは手も足も出せん。現状の財政ではな」

 イクパル帝国とメルトロー王国が戦争をしたなら、敗北する方は目に見えている。


「この国が好きです。お世話になったし…居場所がもらえました。だから、これは恩返しってことにさせて下さい。手をお貸しします。あくまでも侵略でなく、防衛に」


 言われるがままメルトローに還っていたら、敵国だからと知ろうともしなかっただろう。ここにどんな人たちが住み、どんな人たちが生きているのか。

 イクパルもメルトローも、肌の色こそ違えどみな同じだ。泣きもすれば笑いもする。どこの者とも分からぬ娘を拾い、手厚くもてなすような温かさも。メルトロー人が口にする、野蛮民族などではけしてない。


「防衛……か」

 ふと笑って、バスクス帝はフェイリットの手から、タントルアス王の肖像を受け取る。巻物は元どおりに丸められて、皮紐でぐるぐると封されていった。


 大陸を統治したと言われるタントルアス。彼が英雄と言われているのは、その統一が平和的で、かつ全土に富をもたらしたから。恩恵を授かった者たちはみな、口を揃えて英雄と呼ぶ。

 しかし平和というのは実は後期でのこと。統一していく過程には、けっして少なくはない血が流されている。

 そして、恩恵が受けられなかった国さえ存在するのだ。――たとえばイクパルのように。


「イクパルは遥か昔に他への侵攻を断念した。帝国主義とは名ばかりだ。お前が嫌う〝侵略〟とやらを、見せてやることはできん。残念だが」

「だから、見たくないんですってば」


 慌てて口を挟んだフェイリットをまじまじと見やって、バスクス帝が笑う。ずっと皮肉げだと思っていた歪んだ笑顔が、なんだか柔らかく見えてくる。錯覚だと思い直して、フェイリットは首を振った。


皇帝陛下サグーエ妾妃ギョズデ・ジャーリヤ

 突如した声を背中に聞いて、フェイリットは目を瞬かせる。振り返ると仕切りの幕のこちら側に、ジルヤンタータが膝を折って控えていた。


 バスクス帝が「どうした」と返すのを聞きながら、フェイリットはジルヤンタータを見つめる。

 彼女はオフデ侯爵に会ってくると、執務区域に向かったはずだ。が……、この早さでは望みは薄い。

「ご安心ください、オフデ侯爵の元へはシャルベーシャが向かいました。数刻後にはバッソス側の状況が知れるでしょう」


 フェイリットの目線の意図に気づき、ジルヤンタータは隣に来て微笑んだ。

「わたくしにもお聞かせ願いますよ、陛下のお考えを。ただの手駒で命をおびやかされるのは、砂漠でのことで最後に」

 ジルヤンタータの低い声に、バスクス帝は口の端を引き上げた。


「負い目は受けるつもりだ。これまで何もしなかったことも含めて」

 バスクス帝が暗い顔で笑うのを見て、フェイリットははっとする。

 こうしてみて、初めて気づくなんて。さっきのは錯覚ではなかった。……かれは本気で、心から笑っていたのだ。


「負い目? 負い目だなどと、そう簡単にはらえるものではございませんよ。民があなたをなんと呼ぶか、ご存知なのですか?」

「ジル、」

 食い下がるように言葉をつなげるジルヤンタータを宥めようと、フェイリットはその手を両手でそっと握る。


 そんな気遣いも虚しく、バスクス帝はジルヤンタータを逆なでするように、声を立てて笑い出した。

「無能も、暗愚も、狂帝も、喜んで呼ばれよう。私が……いや、私とウズルダンがこの二年間、築き上げた虚像だ」


 握っていたジルヤンタータの手が、わずかに震える。

「どういう意味です、それは」

 少しだけ目を細めて顔を歪めた後、バスクス帝は続けて笑った。



「死ぬ準備をしている。即位からずっとな」





* * *


 「逢えたようだな」

 海に面した露台テラスから、かの国があるだろう方角を眺めて、テナン公王は満足げに言った。


「お前の話を信じるならば。……我が息子は、お前の顔とお前の連れてきた〝王子〟の顔を気に入るはずだな」

「そう願っております」


 カランヌはテナン公王の、長身の背中をじっと眺める。その背を覆う深緑のローブには、さそりを模した図案があった。―――他を刺し毒するさそり……この国の未来を暗示するかのような模様。



 イクパルという国に牙を剥き、その玉座に毒の針を刺す。テナンのさそり



「何か可笑しいか」

「……いえ、」

 背中がいつの間にかひっくり返り、こちらに怪訝な視線が刺さる。カランヌはようやく気づいて、柔らかな微笑みを浮かべた。


「いえ、ここに着いてからずっとぶらぶらと歩き回っていたようでして、どうしたものかと困っていたんですよ。部屋に居なくては、公子殿と引き合わせようがございませんので」

「確か……ロティシュ・アシュケナシシムとかいったな、その王子」

「ええ。私がずっと教育係のようなものをしていたのですがね、お恥ずかしながら少々ひねくれてしまいまして」


 テナン公王は驚いたような顔で目を開けると、ついで肩を震わせ笑い始めた。カランヌは首を傾けたまま、笑い続ける公王を見る。

「閣にしつけられたら、アシュケナシシム殿下もひねくれよう」

 再び豪快に笑っておいて、テナン王は露台を背に歩き出す。


「……そうでしょうか?」

 まったくわからない。確かに自分は忙しいし、サディアナの十六の誕生日が近づいた頃には殆ど顔を合わさなくなった。それでもアシュケナシシムはカランヌの視界をいつでも覗けたし、それを許してもきたのだ。


 教師も惜しみなく、最高位の者たちを送ってきた。カランヌ自身語学を教えたことだってある。

 思い返してみても、よほど捻くれるようなことはしていない。むしろ、寛大で優しかったとさえ言えるだろう。


「いいかね、子は親を見て育つものだ。殿下は閣を見て育った。閣は己を、ひねくれていないと胸を張って言えるかね? まあ、エトワルトと儂は早々に離れた故、あまり似なかったようだが。あいつの素直な性格は母親ゆずりだと思っている。素直な者はひねくれた者をほうってはおけぬ。ゆえに、じき仲良くなろうよ」


 目の前まで来て後ろに手を組み、テナン王は言い放った。

「そしてその口から、〝王太子になれ〟と言わせる」


「理想的な結果です」

 カランヌは僅かに笑んで、テナン公王に椅子を勧めた。

 立場は違えど、他国の参謀ごときと私室で談話をしようとする。この飾らない気質を、公子は間違い無く引き継いでいるのではないだろうか。

 エトワルト公子がテナン城に着いた初日。挨拶程度の対面しか持たずとも、カランヌはそう感じていた。


「庭の噴水で、エトワルト王子に会ったとアシュケナシシム殿下が申しておりました。ですが話によると、エトワルト王子はそれから、部屋にひとりお籠もりになられてしまったようで」

 よほどの衝撃を受けたのだろう。もともと諜報の鷹から、サディアナとは仲が良いようだと聞いていた。そして彼が抱いていたのは、ただの友情ではなかったということ。

 少なくとも、サディアナに対し異性としての好感を持っていた。


「好きな女が敵国の王女だった、か。なんとお伽噺のようではないか」

「ですが、逆手にも取れますよ。王太子となり、次いで公王となった暁には、メルトローとは友好国です。サディアナ王女を正妃として迎え入れることさえ、夢ではなくなります」

 カランヌの言葉を聞いて、テナン公王はゆっくりと頷いた。


 公王には、〝メルトロー王国の第十三王女は生きている〟という情報は渡してある。その王女が宮殿で育たず、イクパルに居て身を隠して生活していることも。


 メルトロー側がサディアナを欲する理由は勿論、彼女が持つ永久とわの覇権を得るためだ。

 だがテナン側にとっては、メルトローの王女は格好の姻戚相手としか映らない。サディアナ王女を公子に娶せることが出来れば、より強い関係がメルトローとの間に築けると考えている。それは公子が王になり、帝冠を奪うのを助けることにも代わるからだろう。


 妻の生家が大陸一の勢力を誇るメルトローならば、それだけ大きな後ろ盾と援助が約束される。


「アシュケナシシム王子を向かわせてはどうかね。エトワルトも、長く籠もってはられんやつだ。放っておいても出てくるだろうが、この機会を使わぬ手はなかろう」

「ええ、ではそう致しましょう」


 椅子から立ち上がりメルトロー式の拝礼をとるカランヌを見、テナン公王はただ頷いた。


「美味しいお茶でしたよ」

 扉の前に控える侍女に柔らかく微笑んで、カランヌは自らその扉を押し開き立ち去っていく。





* * *


 ――死ぬ準備をしている。


 そう告げてわらった男を見上げて、フェイリットは言葉を無くした。


「帝都に戻ったらハレムを縮小するつもりだ。愛妾ジャーリヤは全て家臣に下賜。縮小したハレムには、各公国から一名ずつ妾妃ギョズデ・ジャーリヤを置く。今回は、そのために私自らバッソスに滞在したようなものだ」

 静かな声が、室の中に染み渡るように響いた。

 

「現ハレムのジャーリヤたちの懐妊を、否定せねばならん。それには一月程度の日数がいる。本来ならば別の区画に下賜する女を一月隔離してのち、ジャーリヤの下賜が行われるが。今回は人数も多く他には漏らせん。……それらを一気に解決するために、種馬の私が離れた。ずっと子は出来ぬようにしてきたから、万が一も無い」


 隣に居るジルヤンタータが、小さく息を吐くのを聞いた。

「その新たな妾妃ギョズデ・ジャーリヤたちは、私の代のジャーリヤにはならぬ。次の皇帝が、円滑に帝国を治められるための布石だ」


 そう言葉をつなげるバスクス帝を見て、フェイリットは口を開ける。

「じゃあ、わたしも……その次の皇帝のジャーリヤなんですか……」


 バスクス帝はふと目線を下ろし、フェイリットを眺め見た。

「私と死にたいか」

 感情が含まれているはずなのに。その眼差しが何を覆い隠しているのか、フェイリットにはよくわからない。

 答えも出せずに困っていると、バスクス帝がふっと息をついて笑ったのが聞こえた。

「お前が考えて決めるといい。……尤も、考えるべくもないだろうが」


 すっと上げられた彼の手が、フェイリットの頭を通りゆっくりと頬を撫でた。その仕草がまるで「手離すのが惜しい」と言われているかに思えて、胸がざわざわと騒ぎたつ。


「きっと次代では、平和な生活が送れるはずだ。お前が居ればかの大国とも、友好的に関われるかもしれん」


 ――かの大国、メルトロー王国とのはしごに。はっとして、フェイリットは目を開いた。

 まさか、彼が自分をわざわざ零番目スフィル妾妃ギョズデ・ジャーリヤに据えたのは、それを展望してのことだったのか。

 新しい皇帝が、全ての権力に潰されることなく公平に立ち回れる礎を。


「メルトロー王国第十三王女サディアナ・シフィーシュ。予は其方そなたに――次代イクパル帝国の〝母〟となってもらいたい」


 夜の空にも似た低く広がりのある声が、すっと腰元まで下がってゆく。

 片膝をつき、手の甲に降りてくる唇の温かさに、フェイリットは震えた。


「……――受けてくれるか?」



 まるで、求婚されているようだった。



 跪いて口づけを手の甲に落とすのは、求婚の仕草だ。

 王族男性が、王族女性に対する敬意を持った親しい挨拶。それと同時に、求婚の際にも行われる仕草だった。メルトローの風習でしかないそれを、彼がした意味。


「……陛下」

 ―――唇が触れた手の甲から、熱が身体に広がっていく。


 ふ、と笑ってバスクス帝は立ち上がった。

 一気に高くなった目線の差を、フェイリットは追いかける。


「そうだな、今決めることは無い。考えろ、サディアナ」

 サディアナ、と呼ばれてフェイリットは顔を伏せた。それは自分であって、他人のような遠い名だ。言い知れぬおりのような重みが、胸に沈んで落ちてくる。


「誰なんですか、次の――皇帝は」

「お前がよく知る男だ。……年齢も、程良かろう」


 なんと、返したらいいのだろう――。

 フェイリットは呆然としたまま、バスクス帝の闇色の瞳を見上げた。




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