66 英雄の王、忌まわしの君
バスクス帝がいるはずの室の前に立ち、フェイリットは深呼吸する。身の回りを世話するような小姓の姿は、どこにも見当たらなかった。
蒼を加えたような草色の仕切り幕が、風にゆっくりと揺れる。
帝都で見てきた仕切りの幕は、薄い布地を幾重にも重ねて作られていた。けれどここの布地は、硬くてぶ厚い。一枚きりで向こう側は見えず、触れると麻に近い手触りがする。
紗布と呼ばれる布は高級で、権力者でさえなかなか手に入らない。それを城内の端々まで使える帝城と、皇帝を迎える部屋にさえ使えないバッソス城。……これだけ見ても、財政の開きはかなりある。
普通なら、他の目に晒される区域は多少なり見栄を張るもの。一目で〝苦しいんだな〟とわかってしまう城を、恥と思わない城主は多くないだろう。
――見せつけて無言の訴えしてるとか……。
鎖国で物が動かない。それはそのまま貧困へつながる。
帝国の領土で循環させてはいるが、偏りが生まれてしまうのは避けられない。なにせ資源が乏しく、バッソスに至っては砂が財産とさえ言える。皮肉にもならない事実だ。
もしこれが、隠しきれない貧困のせいではなく、わざと〝苦しいのだ〟と見せつけているなら。何の動きも見せない皇帝に、財源の富強を訴えているなら。
バッソス公王は相当に切れる人物ということになる。
「そうだ、」
こんなことを考えている余裕はなかった。そっと仕切り幕の端へ手をかけ、フェイリットはまた息を吸う。
――なんて言おう。普通の人間が、血を吸ってごめんなさい、なんて言わないし……。
「陛下、」
そっと声をかけて幕を捲る。室はぽっかりと広く、毛の短い絨毯が四隅まで敷かれていた。
寝台は壁ぎわに置かれており、そこだけ窪んですっぽり収まる仕様になっている。調度は少ないが、壁に掛けられたタペストリーが室内を充足させていた。
「陛下?」
倒れてから、三刻ほども時間が経つ。目が覚めていておかしくない頃合いだ。
返事が無いので居ないのかと思いつつ、フェイリットは歩きだす。仕切り幕を捲るとき、寝台の天蓋が閉まったままなのを見つけていた。
見上げた天蓋は銀色のような、
帝城の風も透かすような紗布に比べたら、厚みがあって向こうは見えない。
「失礼しま!!」
思い切って開けた途端、真っ黒な影に見下ろされる。
フェイリットは驚いて声を上げてから、その人物がバスクス帝以外ありえないことを思い出した。
「どけ」
汗の浮いた土気色の顔で、目前に立ったバスクス帝が言い放つ。
「陛下……?」
フェイリットを、押しやるようにして彼は過ぎていった。
するすると鳴る長衣の衣擦れの音を肩ごしに聞いて、そのあまりの形相に
「す、すみません」
バスクス帝は背を曲げて近くの長椅子に腰掛けた。肘を自らの膝に置いて、眉間の皺をほぐすよう
「何か用か」
溜め息が混じったような低くて深い声。怒っているようにも、疲れているようにも聞きとれる。
フェイリットはしばらく沈黙してから、口を開いた。
「あの……覚えてますか?」
「――何を」
質問に、声色が一層低くなる。フェイリットは半ばうなだれるようにして頭を下げた。もうこれは、怒っているとみて間違いはない。
「ごっ、ごめんなさい。噛みついたりして……その、」
「……ああ、」
思いついたように声を出して、バスクス帝は顔を上げた。違ったのだろうか。まるでたった今気づいたような反応だ。
「大したことはない」
しかし言葉の割に、汗が浮いて色の悪い顔をしている。〝大したことはない〟顔には、明らかに見えない。
「でも、」
尚も言いたげに口を開いたフェイリットから視線を外し、バスクス帝は皮肉げに顔を歪めて息を吐いた。
「それ以上そこに突っ立っているなら、壁に押しつけられても文句は言うな。次は手加減してやらんぞ」
手加減……と口の中で呟いて、フェイリットは顔を赤くする。けれどいつものように「何言ってるんですか!」と叫ぼうにも、かれは冗談を返せる顔色でなかった。無理をしているのが、ひと目でわかってしまう。
「でも」
「吐かんだけまだいい。前はもっと、酷かった」
窺うような空気を察したのか、バスクス帝は鼻で息を吐いてそう呟いた。
「〝前〟って…」
―――夢見が悪くてな。
唐突に思い出される彼の台詞に、フェイリットは何も言えなくなる。
皇子時代、牢獄に監禁され五年も痛めつけられた過去。その深い闇は、寝ている合間まで彼を蝕むのだろうか。
フェイリットは合わせられた視線から目を反らさず、小さく微笑んだ。話したくない話題なら、自分にもある。
「お水、淹れますね」
見渡すと、窓際の卓に水挿しがのっていた。銀製で、網目のような模様が這っている。フェイリットはそこまで歩いていって水挿しを取ると、椀に水を注ぎながらバスクス帝を見やった。
「ああ、」
帝都では、水を用意するのは小姓の役割だ。ウズルダンの元で働いたとき、水に檸檬を浮かべるのが好きだったが、ここにもそういう人がいるらしい。
無造作に傾けた水挿しから、黄色の果実がとび出して水に浮いた。
「はい」
椀を差し出して、バスクス帝が受け取るのを待つ。少しの沈黙のあと、指先が軽くなった。
「…何をしに来た?」
フェイリットが見上げると、含んだような顔のバスクス帝が口元を引き上げる。手に持った椀を口元に寄せて、黒い眼だけがこちらに動いた。
「質問をしに……来たんです、けれど」
バスクス帝はフェイリットが〝サディアナ王女〟であることを知っているのか。その自分をどう使うつもりなのか?
――それが、これから起こるかもしれないメルトロー王国からの「災厄」を、回避できるものならばいい。喜んで手を貸すと、そう言うつもりだった。
しかしこれは、身体の調子の良くないところに尋ねる話題ではない。フェイリットが王女であることを〝知っている〟のと、フェイリット自身の口から〝正体を明かす〟のでは、格段に差がある。
遠まわしでも「味方します」と、はっきり告げるようなものだ。そんな重要な話題を、具合の悪い相手にしていいものかどうか。
「〝けれど〟?」
「…けれど、あとでまた出直しますね。陛下のお加減がよくなってから」
フェイリットが愛想笑いで応えると、バスクス帝は喉の奥で短く笑った。
「ならば互いにひとつずつ、というのはどうだ。私もお前に訊かねばならんことがある。それを訊きにお前の室へ向かったんだが。まあ、この有様だ」
「そ、その」
「断れなくなったな」
満足そうに口の端を引き上げて、バスクス帝は頷く。お前のせいで今まで寝ていて、今も気分が良くならない。――そんなことを言われては、かれの提案を断る理由がみつからなくなる。
「わたしに、質問ですか」
「そうだ。どうする、お前の選択に委ねてやるぞ」
選択肢などないことを知っているだろうに。フェイリットは俯いたあとで小さく首を振り、視線を戻す。
飲み終えた椀を持ちながら、バスクス帝は肘かけに置いた手の甲に顎を乗せた。口元は皮肉げに歪んだまま。けれどその眼は静かに据えられている。
……気づいたのはいつ頃だったか。かれはいつも、皮肉を言いながら、その裏側に理性を押し隠している。
「じゃあ、えっと……陛下から聞いてもらえますか? わたしのは、そのあとで」
ひとつずつ質問を言い合い、それにお互いが答える。
簡単なようだが、フェイリットには隠していることが多すぎた。王女であること、生い立ち――そして人間ではない、ということ。
こちらの質問はもちろん、〝メルトロー王国が戦争をしかけてきたら、自分に何ができるか?〟だ。
ここにフェイリットが〝居る〟だけで、メルトローは恐れる。世界を手に入れられる化け物が、自分たちの管理下にないから。
戦争をしかけられたらどうするか――それに対する指示は、一帝国に座する男にとって困難ではないはず。けれどそれに対して、バスクス帝の質問に何でも答えるというのは、フェイリットにとって危険な賭けにしかならない。
竜であることは……その真実だけは話すことができない。
「疑問は山ほどある。お前の強さ、知識、アルマ山脈で何をしていたか。ウズルダンから聞いたが、イクパルの文字も難なく読めるそうだな。礼儀作法も、村民にしては出来すぎているし訛りも無い」
フェイリットは眉根を寄せて、黙っていた。質問はひとつだけ。かれが口にする疑問は、その核心にまだ近づいていない。
「バスクス二世は、女狂いの木偶の坊。政治や軍事は見ようともせず。ハレムから引き上げた宦官宰相にすべてを取り仕切らせ、自分は女に溺れている」
低い声でそう言いながら、バスクス帝は長椅子から立ち上がる。
「……そう思われている。他王国の重鎮たちにも、もちろん、直轄領であるサグエの者たちにも」
こちらに来るかと思っていたが、違ったようだった。バスクス帝は身を翻して、窓際の卓まで歩いていった。その卓の上から何かを取る。
大きな背中に隠されて見えないが、フェイリットは首を傾げた。そこで水を汲んだ覚えはあるのに、卓の上に他に乗っていたものが思い出せない。
「実際、なにもしていないのだから嘘は無いわけだが」
振り返ったその手には、古びて茶色くなった紙が丸めたまま握られていた。巻物の内容が気になり、その紙ばかりに目を向けてしまう。そんなに古い書物を、見たことがなかった。
「そんな木偶の坊でも、他国の情勢ぐらいはわかっているつもりだ」
「他国……」
フェイリットは思わず目を丸くした。かれの口にする〝他国〟は、深く考えずともわかる。メルトローか、リマか。イクパル帝国に関わる他国は、今のところその二カ国が根深い。そして自分と他国を結びつける事柄は、ひとつ。
フェイリットの顔色が変わったことに気づいたのか、バスクス帝は小さく笑んだ。いつも通りの、皮肉にしか見えない笑顔で。そうして手の巻物へと目を下げてから、結わえてある革のような紐を解く。
「見てみろ」
巻物が目の前に出されたことに、フェイリットは驚いた。ぼんやりしているうちに、バスクス帝の顔が見上げるほどに近くなっている。ゆっくりと手をのばし受け取ると、古めかしい、少し湿ったような手触りがした。
「どうした」
「ええと……」
なぜだか、躊躇する自分がいる。これを開いたとき、平静でいられる自信が持てなかった。
しばらく丸められた茶色の紙面を見つめて、フェイリットは目を瞑った。小さく息を吸って、紙をまっすぐに開けていく。両手がそれ以上動かないことを確認してから、目を開けた。
「……あ、」
「さあ、私の質問はそれだ」
口を開けたまま、フェイリットは紙を凝視していた。
そこに描かれていたのは、薄金の短い髪と水色の目を持つ人物。血の気の失せた白い肌は、けれど病弱そうには見えない。大きな椅子に埋もれるように座り、強い視線でこちらを睨みつけている。
紙面を見ているはずなのに、まるで鏡を見ているような気分になって、フェイリットは顔を歪めた。もちろん、描かれた人物の顔は変わらない。
――タントルアス。
自分に似ているとさんざん言われているらしいが、その肖像画をフェイリットはかつて自らの目で見たことが無かった。
何しろ千年近くも前に生きた古人。その後の歴史において、貴重な書物や真実は、ほとんど隠蔽されてしまった。遺されたものが、各国に散らばっているのは確かだろう。それがこのように表の光を浴びることなど、今までなかったはずだった。
「メルトロー第十三代国王、タントルアス一世。そして今の世に、容姿を写し取ったと言われるほどの王女が生まれた。庶子であるにも関わらず、皮肉にも王女は十三の号を得さえした――第十三王女サディアナ・シフィーシュ」
似ているが、五歳ほども年かさがある。このままフェイリットが五年、生きることがあったなら、まるで姿は生き写しのようになるだろう。
くせのある緩やかに巻いた髪の上には金の王冠が乗り、身体には、半分だけ隠すように椅子の下まで伸ばされた深緑のローブが見える。そしてその手に、メルトローだけの両刃の長剣。刀身には王家をあらわす、獅子の下肢が鱗で覆われた紋様まで細やかに彫り込まれている。
――では、同じだったというわけだ……質問の内容が、お互いに。
茶色の紙面から目を上げ、静かな声でフェイリットは言った。
「同じです、わたしも」
バスクス帝はほんの一瞬、いぶかしむように片眉を吊り上げて、フェイリットを見やる。
「わたしの質問です。イクパルをメルトローに燃やさせないために――サディアナ・シフィーシュには、何ができますか?」
バスクス帝が満足げに腕を組むのを見つけて、フェイリットは小さく微笑んで見せた。
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