47 餞別
皇帝の眼鏡にかなうため、
多くは半球状のかたちをしており、奥へと進むほどに空間は広くなっている。
ハマム全体をつつむ真っ白な蒸気は、その最奥、円形の浴場から発せられるものだ。熱いお湯が天高くから、泉のように溜められた冷たい水の中に、ごうごうと流れ込んでいる。その温度差で発せられた熱い蒸気が、身体の毛穴という毛穴から汗を噴き出させる仕組みだ。
蒸されて暑くなった体に、その溜められた冷たい泉は心地がいい。
フェイリットは備え付けの片手で持てるくらいの壷に、冷たすぎない辺りをねらって水を汲む。何度か体にかけて、すっかりのぼせている状態をいくらかでもましにしようと懸命だった。
泉の深さはフェイリットの肩ほど。本来ならばそこにとっぷりと身体全部をつけてしまうため、そのくらいの深さにされている。けれどフェイリットは今泉に体を沈めるわけにはいかない。そのために壷で汲んだ水で我慢しているのだ。
ただでさえ不定期だった〝月のもの〟が、まさか今になってくるなんて。ウズに薬をもらっていなかったら、今ごろは腹痛でのた打ち回っていたかもしれない。
思えば山を降りるまでの半年、サミュンのつける稽古が吐くほどにきつく変わった。当日までなにも言わなかったが、彼はきっと半年――もしくはもっと昔から――あの最期の日があることを、知っていたのだ。だからその日に備えて、フェイリット自身の身体が〝女〟であることも忘れてしまうぐらい、過酷な稽古をつけたのだろう。
「……降りてきてから、なんにもやってなかったものね…」
剣術の稽古も、体術の稽古さえも。
イクパルに来て日にちも経っている。アルマ山でうっかり半年もの間忘れていたものが、ここでどっときたのは仕方のない話かもしれない。
「あの兄妹、二人で診療所つくれそう」
素直にそう思って、フェイリットは再び何杯目かの水を身体に浴びた。
ハマムで視界にうつるのは、みな美しい曲線と豊かなふくらみを持つ女ばかり。絨毯を敷き寝そべっていたり、相手を品定めしようと集まって談笑していたり、真剣に体を磨いている者もいる。とにかくそこらじゅう、目を移せば人がいる――という状態なのだが、
「みんな、どこ行ったのかな」
奥へ奥へ、今日は行けども人――愛妾たちの姿がない。
水をひとしきり浴び終わると、フェイリットは何度そうしたかわからぬほどに、辺りをくるくると見回していた。
「どうかなさいましたか」
「わっ、」
今までどこにいたのだろう。磨き師の侍女がひとり、湯気のむこうから現れ出でて、不思議そうに問うた。
「人が……。わたしだけなんですか?」
まったくの無人ではなかったことに少し安堵しながら、それでもやはり気になってしまう。時刻はまだ夜がぎりぎり明けぬ程度の頃合いだったが、ちらほら、何人かのジャーリヤがすでにいたとして不思議ではないはずだ。
「こちらは皇帝陛下専用の大浴場ですので」
「……」
「なるべく人目に触れぬようにと聞いております。だ、大丈夫でございますか」
「……大丈夫です」
暑いハマムにいるというのに、フェイリットは蒼白い顔を硬直させて、ふらふらと壁際にへたり込んでいた。磨き師が慌てたように駆け寄ってくる。
「ジャーリヤ、よろしければお水でもお持ちいたしますが。おのぼせになられたのでしょう」
「はい、……すみません」
昼間のようにそんなに時間をかける必要はないとジルヤンタータに言われて、フェイリットは一部屋に半刻ほどの蒸し時間をとってここまできていた。
のぼせた自覚はなかったが、この突然の衝撃で急に血が降りたのかもしれない。
――皇帝陛下専用? どうりで、人がいないわけだ。
うなだれるように壁に頭をもたげて、フェイリットは天井から降り注ぐ大量の熱湯を見上げる。
ジルヤンタータに連れられてハレムのなかをぐるぐると歩いたため、自分が今どの位置にいるものなのか、わからない。今いる
金、深紅、そして紫――それらは高貴な身分である皇族、とりわけ皇帝が好んで使う色。
「陛下のハマムなのに、わたしが入ってもいいんですか」
床に座っていると、立っているよりも暑くはない。幾分覚めて落ち着いてから、フェイリットはゆっくり立ち上がって言う。
「ええ。そうするようにと。しっかりと磨かせていただきますので」
飲むための水を差し出しながら、磨き師は続けた。
「それと、御髪はこちらを。三日で落ちる染料ですので、毎日お使い下さい」
「染料?」
「そうです、お染め頂きます。あなた様の御髪は、お目立ちになりますので」
硝子細工の小さな壷に、真っ黒な液体が満たされている。お湯に溶かして濯ぐようにするのだと、説明を入れながら磨き師はフェイリットの髪を洗い始めた。
「目立つ……」
金髪が目立ってはいけないのだろうか。ハレムの君主ともすれば、さまざまな国から愛妾を集めていてもおかしくはない。今さら金髪の、〝北方生まれらしいギョズデ・ジャーリヤ〟が増えたとして、あまり問題はないはず。バッソス――他公国に行ってまでフェイリットが隠さねばならぬ素性といったら、〝メルトロー王国第十三王女〟くらいなものだ。
「ま……………まさかね、」
髪の手入れも終わり、台の上に寝そべって身体に香油を擦り込まれる。ほんのりと花の香りのする香油に心地よくなって、フェイリットは目を閉じた。
「あら、様変わりなさいましたね」
脱衣のための一室で出迎えたジルヤンタータが、ハマムから出てきたフェイリットを見つめ、微笑む。
「御髪もお肌の色も――……」
「肌?」
「ええ、綺麗な黒蜜色でございますよ」
そう言うと、壁に掛かる手触りの良さそうな布を、ジルヤンタータはわずかに引いた。現れたのは天井にも届こうかという、大きな大きな鏡。その前に立つように導かれて、とうとう、フェイリットは口を開けた。
「タブラ=ラサというのはそもそもは〝真っ白な紙〟という意味なのです」
フェイリットが見たもの。それは裸で鏡の前に立つ、黒蜜の肌に同色の髪の――瞳だけが薄い、自分の姿をした少女だった。
「
* * *
朝日が昇りはじめていた。帝都を出て、何時間経ったであろうか。
コンツェは愛馬から身を降ろして、その先に広がる光景をじっと見つめた。
空よりも美しい澄んだ瑠璃色の海。背中から太陽を受けて、まだぼんやりと薄暗い。イクパル本土の最西端、どこか愛しい人の瞳を思わせるその海の色に、コンツェは苦笑した。この向こうに、ふるさとのテナン公国はある。
〝さよなら〟は言わなかった。 甘菓子を受け取り微笑む彼女に、「気をつけて帰れよ」と手を振って。
テナンに帰ったら、その足で王城に向かわねばならない。「王太子の選定」は、テナン公国内の貴族たちが集まる席で執り行われる。けっして大それたものではなく、円卓を囲み書類に血判を押すような会議。帝国から脱したい貴族たちの中で異論を唱えるものはもちろん現れるはずもなく、きっと選定は〝会議〟にすらならない。
テナン王はもうじき退位を表明する手はずになっているため、王太子はそのまま「公王」となりうる。初代皇帝の血をひくコンツェが、テナン公国の王に――万が一、そういう事態が現実のものとなれば、他の「三公国」の承認でイクパル皇帝の玉座にさえ座ることができる。
貧困の増すイクパルで、けれどそれは本格的な解決にはならない。もちろん比較的資源の豊富なテナン公国や、海賊文化の栄えるイリアス公国はメルトローとのつながりの中で私服を肥やし、生き残ることができるだろう。しかしその他の国々は、さらなる貧困に苦しむだけ。
特に傭兵の育成が盛んなバッソス公国に至っては、戦争がなければ国土が持たない。帝国に藩属し、軍事力を提供することで国土の維持に必要な恩恵を預かる。そうして続いてきたバッソス公国に、「独立」の二文字など恐怖にしかならない。
こうした事情があるのはバッソスだけに収まらない。一度〝こと〟がおこったら、もうその先にあるのは、帝国全土の戦乱のみだ。
父――テナン公王が狙うのは、「独立」なのか「簒奪」なのか。それだけでも分かったなら。
島国であるテナンの王城は、海沿いに建つメルトロー様式の城だ。その昔、大陸を統治したメルトローのタントルアス王がテナンにも手を伸ばしたという名残。物質的な交流が持ちにくい「島国」だからこそ、イクパル帝国へと併合されたのちもメルトローの文化が多く残る。
「……俺は帝城が好きだ」
フェイリットを帝都へ連れてくる折に、言った言葉を思い出す。
〝俺はここの城が一番好きだな。故郷は違うけど、なんだか『還ってきた』って感じがするんだよな。〟
――それが嘘にならないような、決断をしなければ。
イクパルを、ばらばらにしてはいけない。
「……さすが、耳が早いですね、」
船を出すために選んだ場所は、直轄領<サグエ>の中でもチャダ小国寄りの寂れた漁村だった。その立ち並ぶ、泥壁でできた民家の向こうから現れ出でた人物に、コンツェは笑みを浮かべた。
「ワルター大佐」
「見送りに来てやったんだ。寛大な上司を持ったことに感謝するんだな」
慌てて出てきたのだろう。こんな漁村に軍の衣装を着て、目立つことこの上ない。その上から薄めの外套を羽織ってはいるものの、見るものが見たなら軍衣だとひと目でわかってしまうだろうに。
「……見送ってもらえるんですか」
「なんだ、止めて欲しいのか? まあ……止めたいがな。無理やりにでも公子身分を返上させて、どっぷり軍人に漬ける手も、無くはない」
「そうするべきでした、もっと早くに。けれどもう引き返せません。俺の出生が歪んでいるのは、生まれつきですしね」
腕を組んで、しかめっ面をするワルターを苦笑して眺めて、コンツェは深く頭を下げた。
「……すみませんでした」
必ず戻ります。約束はできないその言葉を、心のなかでしっかりと告げながら。
引き抜いて育ててくれた、何よりも権力という魔物から守ってくれた人物。この人がいなかったなら、きっと自分は何よりも欲におぼれた、玉座を欲する人間になっていたに違いない。
「行ってこい。
ひゅっと空を切る、ワルターが投げた丸いものを掴み取る。そのまま手のひらを見下ろして、コンツェは肩眉をあげた。
「指輪ですか?」
「餞別だ。困ったときはそいつの持ち主をさがしてみろ」
手のひらの銀色の指輪を見つめて、コンツェは唇を噛み締める。
埠頭に隠しておいた漁船の中に、乗り込むまで見送ってくれる暖かな視線に感謝しながら、上司に向けて心から頭を下げた。
「――出航の準備は整っております、エトワルト公子」
船の中でかしずく二人の「鷹」を見て、コンツ・エトワルトは静かに頷いた。
「……待たせてすまない」
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