19 四公王

「立太子しろ」

久方ぶりに顔を合わせた息子に、父はいきなりそう宣った。


「は…、今なんと?」

 聞こえていないわけではなかったが、コンツェは驚きのままに問い返す。職務中に尋ねてくるなんて何事かと思ったが――まさかそんな話だとは。

「立太子しろ、と言ったのだ」


ワルターの執務室にいながら、父は群青と黍色の毛が複雑に折り込まれた図案の絨毯の上にあぐらを組んで座っている。いささか痩せた父の顔をまじまじと見つめていると「とりあえず座れ」と促された。部屋の主であるワルターの姿はない。

「ワルター殿には無理を言って空けて戴いた」

 促されるまま父の前に対峙して座る。ワルターは皇族といえど元々はテナン系の血筋。曽祖母ほどまで遡らねばならないが、コンツェを引き抜いた縁もあり父とは懇意にしている様子だった。


「…いったい、どうしたというのです」

「狩りに行ったそうだな?」

 いささか声の調子を抑えて、唸るように父が言った。

 狩り…といえば竜狩りのことか。確かに行ったが、それはこの国が他勢力―――リマ王国やメルトロー王国に立ち向かうための力を得ようとしてのこと。竜を手に入れられれば益にこそなれ、同じイクパル帝国に属する父が、顔に皺を寄せる必要はないのに。


「何か、狩ったか」

 正すように問われて、コンツェは腑に落ちないながらも首を横に振った。

「本当なのだな?」

「はい、うちの中隊を動かしましたので」

 父はまるで心底安堵するかのような表情を見せた。

「報せは遊牧民から受けましたが、おそらく冬眠しそこねた熊か朝焼けの雲か。見間違えたのでしょう」

「そうか……やはりな。あの木偶の坊は、いつまで我々を遠ざけているつもりなのだ」


 木偶の坊…と頭の中で反芻して、ああ現帝陛下のことかと得心する。

 晩年、狂気に侵され次々と悪法を布いていく先帝を見ながら、皇太子という責務ある立場にあってもそれを律さず、自らが玉座についたのちもまつりごとは宰相に全て任せ切り。即位後したことと言えば、本来彼を支える機関であるはずの元老院を凍結したくらい。


 無能で女狂いの世襲帝――世間ではそう呼ばれているのだった。


 閉め出されて一年と少し。その元老の最たる人物である父が、憤りを感じるのも無理はない。

「最近ではハレムの女をことごとく抱いては捨て、子を成そうともしないと言うではないか。慰みに扱われたと他公の送り出した姫君たちが泣き戻って来たと聞くぞ。せめて次への希望があるならいいものの…」

「はぁ、そうなのですか」

「そうなのですか、ではない。いいように邪険にされ、これでは四公国の立場もない」


 国ではなく、貴方がた「公王」たちの立場だろう。そう思ったが口には出さない。

 悔しそうに絨毯に拳を立てると、父はまるで吐くように、

「だからお前を立太子させる」

 と呟いた。その言葉にコンツェは思わず片眉を上げてしまう。

「話のつながりが解せません。私が立太子したとして、何がどう変わるわけでもないでしょう。それに私は第五公子、お忘れですか?」


 長子継続のテナンで、五番目の公子がまさか立太子できるわけがない。まして自分の上には四人の兄が居て、その一番上は今年三十九にもなる。父親ほども年の離れた兄を差し置き自分が王太子になるなど、もはや笑い話だ。


「テナン公子、であるお前には用は無いのだ。知っての通りテナンには長子に王位の継承権が与えられる。お前は本来ならば継承権は空よりも遠い」

「わかっておいでなら、」

「だがそれを覆すものをお前は持っているだろう、コンツ・エトワルト。他の兄弟には出来ぬことと聞いて、解らぬ程の頭でもなかろう?」

 覗き込むように見られて、コンツェは眉根を寄せた。

「………解らぬようです。あくまで私はテナンの第五公子で、勉学に勤しむより身体を鍛えて参りましたから」


「…ふん」

 何もかも見透かしているのだろう。鼻で笑い、父は立ち上がった。

 六十を超している体なのに、未だ衰えを知らぬかのような身動き。それを見上げて、そういえばこの人も武人であったと思い出す。

「解らぬなら考えろ。私たちがお前をテナンに据えてすることと言ったら、一つしかない」


 簒奪。元から図りかねていた言葉を脳裏に浮かべて、やはりそうかと視線を落とす。「私たち」というのはもはや「四公王」というのと同義だろう。とうとう結託したのか、父たちは…。


 コンツェは自らも立ち上がり、軍隊式の礼をする。テナン公国の公王に対してその息子がする礼ではなかったが、こちらのほうが気がまぎれた。

「忙しい身ですので、おいおいに考えてみます。この頭ではよほど時間がかかるかと思いますが」

「まあいい。竜を得たとでも言うなら事は急を要した。だが違うのならばまだ時間は残されている。ゆっくりと己の置かれている場所を見なおすことだぞ」


 ワルターは知っているのだろうか。テナン公が簒奪へのあしがかりに息子を呼び出したなどと。いや、考えもしないだろうな…。そんなことを考えながら、退室していく父親の背中を見つめた。

 ワルターは曾祖母にテナンの血を持ってはいるが、育ったこともないテナンに愛国の情など持たぬはず。

「お前があの者と同じように、能無しでないことを祈っている」

 ふわりと捲れる父の上套の中心に、公国の蠍の紋章を見つけて、コンツェは静かに息をついた。





 仕事を片付け終えた頃には、すでに月が真上に昇っていた。満月に近いそれに照らされて、雨でもないのに街路の石畳が艶やかに光る。

 コンツェはぼんやりしたまま、ジャイ・ハータの門を潜った。二人の門番の兵士とは、長い間の顔見知りだ。軽い挨拶ですんなり通され、浮かぬ顔のままコンツェは歩き続けた。


 眠れる気がせずに宿舎を飛び出してきたが、こんなに夜中では酒場か花宿しか営業していないだろう。どこで時間を潰そうか…。

 城下へ渡っている橋を降りていると、ふと前方にとぼとぼと歩く小さな背中を見つける。

 小姓衣――トリノだ。こんな時間に、いったい城下で何をしているのか。そう思いながらもその背中を追いかける。


「トリノ!」

 声をかけると、やはり少年は振り返った。…が、その顔を確認してコンツェは唖然とする。

「フェイリット?」


 小姓衣を着て、髪をターバンに包んで。姿は紛れもなく少年のもの。しかしその印象に残る、水色の透き通った瞳は間違いなく彼女のものだ。

「コンツェ、びっくりした」

 本当に驚いたかのように目を丸くして、フェイリットは苦笑する。

 その唇につい先ほどまで噛みしめていたかのような血の痕を見つけて、コンツェは眉根を寄せる。少女の顔色は、さして良いとは言えないものだった。

「泣いてたのか」

 いや、正しくは泣くのを堪えていたのか、だったが。この際どちらも同じだろう。

「ううん、」

 強がりだとわかっているのに、フェイリットは否定する。

「…そうか」

 追求されたくないのなら、それでいい。そう思いながら、彼女の横に並んで歩く。


 城下へ出て、迷路のように狭く入り組む民家のあいだの道を、しばらく黙ったまま連れ立った。しばらくの頃合を見計らい、

「正面から出てきたんだろ? よく門兵に止められなかったな」

 コンツェのほうから口火を切って、隣を歩くフェイリットに目を向ける。

「え、自由に出入りできないの?」

「普通は二三、問答を受けるとか身分の提示とか」


 小姓という立場で、この時間帯の門外外出はまず認められない。彼女がもしここまで何もなく通ってきたというなら、外壁を乗り越えるとか気配を消すとか、鍛錬している一端いっぱしの兵士相手に、相当な芸当をしなくてはならない。

「普通に門は潜って来たけど…止められなかったっていうか、気づかれなかったっていうか。どうしよう。帰りも立ってるんでしょ、あの人たち」

「帰りは俺が居るから大丈夫、」

 だが、真正面を堂々と通ってきたなどと、首を傾げずにはいられない。

 夜番に選ばれるのは、勘の働く者が優先されているのだ。年端もいかぬ少女がひとり、やすやすと通れるところではないはず。現に横を通ったコンツェにさえ、彼らは声をかけることを忘れなかった。


「変だな、あいつらが気づかないなんて…」

「…あ、あのね。小姓になったの…って格好見ればわかるだろうけど」

 こちらを僅かに見上げて、フェイリットが照れたように言う。

 幾分はぐらかされたような気がしないでもなかったが、コンツェはさして気にとめなかった。

 はにかんだように笑う彼女の顔に、先ほど見えた泣きそうな気配は微塵もない。あの顔の原因はそこかと思っていたのに、この反応では間違いだったのだろうか。


「小姓って、」

 アンのか。そう聞こうとしていたら、彼女自らの口から「ウズさまの」という言葉が続けられた。

 ウズの小姓…? あの、侍女すら側に置きたがらない男の。

「見て」

 言われて、視線を向ける。コンツェの双眸を見上げながら、ふわり、彼女は頭を包むターバンを解き放った。

「…!!」

 フェイリットの髪が、まるで少年のように刈られていた。くせ毛がくるくると巻かれて、いっそう彼女の愛らしさに拍車をかけているのだが、素直には誉められない。

 以前の肩ほどの髪でさえ一般には短すぎる長さだったのにあれ以上とは……まるで罪人だ。


「ウズにやられたのか」

 憤りを押し殺して、コンツェは問う。

 娘にとって、髪を切られること以上のはずかしめがあるだろうか。この年頃の少女の短髪を見て、罪ゆえだと思わぬ人はまずいまい。

 思い当たる罪状は、ただひとつ。

 コンツェの怒りを察したのか、フェイリットが歩みを止める。こちらを覗くように見上げて、どうってことないと苦笑して見せた。


「小姓になるのに、髪の毛は邪魔なんだって。どうして小姓なのか聞いたら、侍女じゃ皇帝宮で働けないらしいし。かといってあのままアンやエセルザさんにお世話になりっぱなしも悪いから」

「そんなことは…」

 やはり、さっさと妻にでもしておけばよかったとコンツェは思う。自分の力で生きていけるほど、この国は女性に甘くない。

「フェイリット。何も辛い思いして男に成りすまさなくてもいいんだよ、俺の…」

 俺の女になればいい、という二の句が喉に突っかかって出てこない。


「ううん。これもこれで、何だか面白くなってきたから」

 平気だよ。いたずらを思いついた子供のような表情を浮かべて、フェイリットが答える。

「それに、この国で女の人って不便じゃないのかな。外に出るときに羽織る黒い外套、あれすごく重そうだし暑そう」

 なるほど、「男」である小姓なら彼女の言う不便を味わわずに済むわけだが…。

 コンツェは小さく笑って、仕方ないなと思い直した。

「ハレムよりは、ましだな」

 かくいうコンツェも、小姓をしていた時期があった。


 イクパルにおいて小姓は、子供の才能を育てるための養成過程のようなものだ。軍人としての才を見込まれれば押し出してもらえるし、文才を認められれば側人として生涯仕えられたりする。

 ウズがどういうつもりでフェイリットを小姓にしたのかは未だ掴めないが、少なくとも身分に関係なく、気に入られれば身を立てられる場所ではある。


 その点は、ハレムでも変わりは無い。気に入られて愛妾ジャーリヤから階級を上げ、共同統治者サグエ・ジャーリヤともなれば、皇帝に並ぶ権威が得られる。

 だが、現帝の治める今のハレムで女としての出世は望み薄だろう。数ある愛妾の中からは、より寵愛を受けたとされる妾妃ギョズデ・ジャーリヤに昇れたものが未だ一人も出ていないという。

 在位二年目ともなれば十や二十、ギョズデ・ジャーリヤが出ていてもおかしくはない頃合。テナン公の言った「女を抱き捨てる」というのが、なんだかわかる気がした。


「貴族も皇族も王族も、まっぴらごめんだわ」

 過去に、何か気に障ることでもあったのだろうか。吐き棄てるように言ったフェイリットを見遣り、苦笑する。

 自分も一応王族なのだが、まあ分らないならそれでもいい。エセルザがコンツェの正体を明かしたとき、たしか彼女は熱やら目眩やらで朦朧としていた。


「そろそろ戻ろうか。…ああそうだ、ウズのところから抜け出て来たのなら宮殿から来たんだろ? またよく見つからなかったな…」

 コンツェは今度は呆れたように息を吐いた。ここまでされては兵士たちも面目がたたない。

 その視線を受けてフェイリットは、

「今度から、抜け出したりしないよ」

 と小さく肩を竦めて見せた。


 幾分気もまぎれてきたのだろう。城門で会ったときに見た思いつめた顔も、もうすっかりなくなっていた。

 コンツェは満足げに笑んで、フェイリットの澄んだ横顔を見つめた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る