18 月の昇る深夜に
しんと静まり返る深夜。ふと目が覚めて、フェイリットは腰をさすった。
「いたた…」
絨毯が敷いてあったとしても、石床の上で寝るのはやはり辛い。
のろのろと起き上がって、小窓ひとつない小部屋を眺める。人ひとりが縮こまってようやく寝れるほどの狭さに、折りたたんだ毛織の絨毯を押し込んで敷いているのだ。
おかげで石床の冷たさは殆ど感じられないが、余計に狭い。本来なら寝る場所でないこの小部屋は、小柄なフェイリットでも窮屈でならなかった。
「まるで小さな石牢ね…」
トリノに小姓の仕事をひと通り受けてから、執務室の裏にあるこの空間に通された。これからは、ここで寝泊りするようにと告げられて。
夜明けまで眠るようウズから命じられているものの、これ以上長く寝ていられる気はしなかった。
「はぁ…まだ夜明けじゃないなんて…」
ひっそりと息を吐いて、フェイリットは絨毯の上にあぐらを組む。さすが宮殿というだけあって、肌触りだけは心地いい。
―――こんな夜更けになっても、ウズは卓に向かっているのだろうか。
横になった頃にはまだ政務を続けていた「主」のことを思い出し、部屋を仕切る薄布をめくってみる。
…のだが、
「…ウズさま?」
ふと呼んで、フェイリットは首を傾げた。
椅子にぐったりと
思わず仕切りを越えて執務室に入るが、やはり部屋の中にはその人しかいない。…ウズはどこへ? 背中しか見られぬこちら側から、恐る恐る前へと回る。
「ひっ…!!」
思わず悲鳴を上げそうになって、フェイリットは自らの口を両手で塞いだ。
忘れもしないこの顔――あいつだ。砂漠で拾われて、手当てを受けたテントから逃げ出そうとした夜…襲われそうになったことを思い出す。
こんなところに、なぜ。疑問がわいてくるけれど、それにも勝る好奇心がフェイリットを動かしていた。
卓の上は、ウズが居た頃より増して羊皮やら帳面やらが山積みされている。もしや居ないウズに入れ替わって、何かしていた…? その山のわずかな隙間をねらって、フェイリットはそっと卓に手をつく。
顔を近づけると、覚えのある乳香の香りがふわりと流れた。
…やっぱり恐い。
間近で見る男の顔は、均整のとれた野性の獣を思わせた。
唐突に肌が粟立って、震えが身体を支配しはじめる。
もう、気どられぬよう小部屋に戻ろう。そして朝まで息を潜めて、じっとしているほかない。そう思いたち身を引こうとした瞬間、
「……もう行くのか」
男の近くに寄せていた卓の上の手が、がっちりと掴まれる。
「えっ!」
「随分と長く見惚れていたようだな」
目を細めて
「小姓衣まで着せられたか。奴にそんな趣味があったとは思えないが…」
奴、というのはきっとウズのことだ。いや、今は考えている場合ではない。飛んでいきそうになる思考を引き戻して、フェイリットは掴まれた腕を外そうと引く。
「離してっ…」
取り戻そうとした腕をさらに抗えぬほどの力で引き寄せられた挙句、膝の上に乗せられてしまった。
「で、おまえ名は?」
男の長い指先が、フェイリットの刈り込んだ巻き毛の残る髪を撫でてゆく。一瞬でも感じた心地よさを否定しようと、フェイリットは慌てた。
「知らない!」
「…では言いたくなるまで待とう」
男はごくわずかに、口の端に笑みを浮かべた。必死に身を仰け反らせても、蛇のように絡みつく腕からは逃げだすことができない。
「……んん!」
柔らかな感触が唇を割り、なにかが優しく口中に挿し入れられる。全身を貫くような心地よい痺れが、身体の力を奪っていった。
男は片方の手でフェイリットの頭を支え、もう片方を腰に回した。逃げ場のなくなった体制では、自由の効く手で押し退けるしかない。
「はぁっ…」
けれど、そんなささやかな抵抗の力もあっけなく抜けていく。
脱がされた着衣は一枚の布に変わり果て、椅子の足元でたわんでいた。あとはウズにきつく巻かれた胸を平らにするための薄い布と、下履きのみ。
意識をどこに向けるべきか逡巡しているうちに、ついと男の顔が離れていった。
「震えは止まったか?」
長い口づけの後なのに、その呼吸は少しも乱れていない。離された唇をぼんやりと見つめて、フェイリットは我にかえった。
「お陰さまで」
視線を這わせた先に偶然にも男の長剣を見つける。卓の横に立て掛けられたそれを素早く抜きさって、刃の切先を男の首にぴたりと寄せた。
「…お前」
まったく殺気を感じなかったのに違いない。驚ききった表情で、男が腕の力を緩める。その隙を逃さずに、フェイリットは男の膝上から転げ落ちた。
「っうぐ!」
受身を取り損ねて、石床にまともに体を打ち付けてしまう。けれど、もたもたしてはいられなった。
口の端からつるりと伝った唾液の雫。それを忌々しげに拭い取り、フェイリットは男の長剣を床に投げ捨てる。
ガランガラン! 大きな音を立てて転がっていく剣の音が、静かな宮に響き渡った。早々に立ち去らないと、巡回している兵士が駆けつけるかもしれない。
「次、会ったら斬ります!」
脱がされた衣装を引っ掴んで、噛みつくようにフェイリットは叫んだ。
だがとっくに驚きも通り過ぎたのか、そんなフェイリットを見ても男はわずかにその闇色の目を細めただけだ。それどころか口元には、楽しそうな笑みまで乗せられている。
「では、続きはまた〝次、会ったら〟だな」
「…っ最低!」
フェイリットは怒りのまま、執務室を飛び出した。
話の通じる相手ではないことにも憤りを感じる。回廊を全速力で駆けながら、妙に熱い身体を片手で何度も掻き
あっという間に宮殿を抜け出しタルヒル門、アル・ケルバ門、ジャイ・ハータ門と順番に通り過ぎると、唐突に城下の町並みが目前に広がる。
「わっ!!」
足を止めて、切れた息を整える。城下まで出てしまっては、さすがにまずかったかも…そんなことを考えつつ、水のない堀にかかる橋のような坂道をとぼとぼと下った。
頭のなかに、怒りと悔しさが渦巻いていた。
あの男…、二度目までも。奪われた唇をもう一度拭って、固く噛み締める。途端に血の味が口中に広がったが、それでいい。触れられた唇の感触を消そうと、フェイリットは何度も自らの唇に歯を立てた。
しばらくぼんやり歩いていると、背後に人の気配が現われる。まさか追われてきたのだろうか。今度こそ一発くらい、直接殴ってやる。
そうしてゆっくりと身構えると、
「トリノ!」
自分ではない名が呼ばれたのだった。
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