08 乳香のかおり

 「アン…!」

「どこ行ってた? 心配したんだよ」

 アンは困ったような、うれしいような表情を浮かべて、尻餅をつくフェイリットの元へ来る。

 その優しい顔を見て、フェイリットは泣き出しそうになるのを必死にこらえた。

 ついさっき、逃げ出したばかりなのに。もうそんなことはどうでもよかった。早く、この男から逃れたい。


「……なんだ。お前のところの娘か」

 アンの所によろよろと駆け出し、その腕にしがみついたフェイリットを見て、男は何とも表しようのない複雑な表情を浮かべる。


「私のところで預かることになった娘です。お手を出さぬよう」

「ほう、面白いことを。私が怪我人を抱くとでも?」

「私の目が間違っていないなら、今まさに手をお出しになるところでした」


 フェイリットの着衣の乱れを直してやって、アンは深いため息をつく。

「…松明も持たずに歩き回って危ないじゃないですか。どこへ行くつもりだったんですか」

 アンが自ら持っていた明かりを近づける。炎の明るさに目を細めて、男は不機嫌そうに笑った。

「明かりを持っていたら目立つ。私が陣にいるのは内密だというのに、わざわざ顔を見せびらかして歩けと?」

「誰もこんなところに貴方がいるなんて考えもしませんよ」


 フェイリットは首を傾げた。この男が高貴な身分だろうことは、使っている香や雰囲気だけでわかる。特に乳香は貴族ですらめったに手に入らない、貴重な品なのだ。

 アンが敬語を使うとなるとそれより上位。仲も良くはなさそうだ。まして顔を見せてはいけないなど、よほど高位の軍人でもあるのだろうか。


「ようやくお戻りになったかと思えば、さっそく次のお相手探しをなさるとはまったく……」

 アンの言葉を受けて、男は面白そうに笑った。

「小言はまた今度聞こうか。それより、周辺貴族たちが駐屯の理由に気づき始めているぞ」

「それは……本当ですか」

「ああ、明日にも公爵あたりの諜報が来るだろう」

 顔色ひとつ変わらない男の言葉をうけて、アンはやれやれと首を振る。

「……アンリで遊んでいたわけじゃなかったんですね」

「――遊んでいても責務は怠らん。ワルターは?」


 結局遊んでいたんじゃないですか、とアンは視線を前方の明るみ――松明がたくさん焚かれているほうへと向けて言った。

「あちらです。明朝には出発すると」

「そうか、それならばよかった。一応このことを伝えておけ」

 桃色に変わり始めた空を見上げて、男が言った。


「わかりました。……言っておきます。が、なるべく誰にも会わぬようお願いしますよ」

 アンの言葉に肩を竦めて、男は何も言わず行ってしまった。

 風に乗ってまた残り香がふと漂う。

 獰猛そうでいて壮美な顔、日に焼けた褐色の肌……闇に溶け込む漆黒の瞳。ふと目で追った背中は、まるで夜闇に紛れる黒豹のように見えた。


「あの、こんなにたくさんの軍隊で、戦争でも起きたんですか」

 ようやく不安げながら口を開いたフェイリットに、アンは微笑を向ける。

「たくさん……ていうわけでもないけどね。何をしていたように見える?」

「少なくとも散歩には見えないです」

「ははは、そりゃそうだね。狩りさ、戦争でもなんでもない」

「……狩り?」

「そう。とっておきの、でっかいやつをね。でも毎回失敗してる。今年もね」


 アンが松明を左右に揺すると、燃えている部分から小さな火の粉がぱちぱちと舞っていく。ふと耳をすませると、風が鳴いているのがわかった。びゅうびゅう、まるで動物の鳴き声のように。

「ほら見て、風が強いだろう? もうじき寒くなる。イクパルは砂漠地帯だけど、北のこっちのほうでは雪も降るんだ。とくにアルマ山に雪が降ると、もう狩りにも入れなくなるからね」

「狩りなら、春か夏のほうが」

 でっかいやつ、アンはそう言った。ならば熊か、鹿か。この冬に近いとき、確かに熊は肥え太っている最中だ。そこを狙って落とすというのも頷けるが、だいいち相手は夏でも仕留められる獲物のはず。


「この時期なんだ、伝説では」

「伝説?」

 ぽつりと呟くように言ったアンに問い返すと、彼女は困ったように眉を下げて笑った。

「上のやつらはこの時期の熊が好物なのかな? ――さあ、夜も明ける。出発だから私たちも戻ろうか、コンツェがお前を乗せる馬を用意しているはずだ」


 アンは歩き出すが、ふとフェイリットは足を止める。

 ついて来ないフェイリットを不思議な表情で見返し、アンが「どうした?」と柔らかな、何も知らない笑顔を向けてくる。


「逃げようと思ったんです…わたし」

「え?」

 あまりにも唐突な言葉だったのか、つかみ損ねたような表情を浮かべて彼女は首を傾げた。

「死にそうなところを救っていただいて、感謝しています。けれど、」

 敵であるイクパル帝国には、どうあっても居られない。メルトロー王国の王女という、肩書きがある限り。


「追っ手が来てるかもしれないってことは、コンツェに聞いたよ」

「ですからこれ以上は……ご迷惑になると思います」

 フェイリットの言葉に、アンは困ったように眉をひそめる。

「その傷でどこに行けるっていうんだ」

「リマ側のほうに出ようかと……」

「リマから来たのに、リマへ抜けるって? おまけに追っ手はメルトローの売人なのだろう」


 フェイリットは頷いた。

 たしかにそうだ。アルマの山脈から来たのだと知らぬ彼女たちは、自分のことをリマ人だと思っている。そのリマからメルトローへ売られそうになったところを、逃げてきたのだと。


「それなら、関係の無いイクパルへ逃げるのが道理じゃないか」

「――はい」

 思ったことがそのまま、アンの口から言葉になって出てきた。

 敵国であるイクパル……しかもその中枢である宮殿。どう考えても思いつかないだろうそこへ逃げ込むことが、もしかしたら今自分にとって一番の選択……。


「しかもこんなに軍人がそろってるんだ。追っ手というには腕の立つ者なのかもしれないけど、うちの近衛がそこらの人にやすやす負けたりはしないよ」

 アンは人好きのする笑みを浮かべて、まかせてと胸を張る。

 コンツェに話したのは人買いから逃げてきたという真実ではない話。それでも追っ手がいるのは本当なので、フェイリットは口をつぐむ。


 追っ手……カランヌは、今どこにいるのだろう。ここがアルマ山のふもと――家から全く離れていない場所だということを考えても、危険なことは変わりない。もし今の時点で自分を見つけることができていたとしても、イクパル軍に囲まれていては手が出せない。まして帝都に入ってしまえば、カランヌも大っぴらに動けなくなる。

 これは思っていたより、いい隠れ場なのかもしれない。ただ、正体さえばれなければ。


「さて、そろそろ私たちも出発の準備をしよう。馬をもらいに行かなくてはね」

 アンに従って、今度はフェイリットも歩き出す。麻酔がきれて両足がひどく痛んだが、我慢できないものではない。

 ふと見上げると、アンの朗らかな笑みが目に入った。―――しばらくここに、居てみるのもいいかもしれない。

 そう思って、ふと先ほどの男の影が脳裏に浮かんだ。


「さっきの男の人って……偉い人なんですか?」

 見るからに良い衣装を着けて、貴重な香をまとうあの男。


 どうしてこんなに印象に残ってしまったのだろう。それでも、もう二度と会いたくないのは確かだ。


 ふと聞いた質問に、アンは苦笑した。

「もうあの人に近づいたり、ついてったりしちゃだめだ。ひどい目にあうからね」



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