11 minjabi:r!(気をつけろよっ!)

 アスヴィンの森を抜けるのに、一日かかった。

 自分が解放されると知って、テュリスは無邪気に喜んでいた。


 zavasum quchab ned alnureysuma metspigzo.(ぼれ、絶対にみんなとのきょとをはにゃさないよ)


 モルグスは微笑みながら「嘘つけ」と思った。

 ただ、テュリスは自分がどこにいるか知らない。

 たぶん彼は、ここもグルディアのどこかだと考えているのだろう。

 まさか遠く離れたイシュリナシアだとは、想像もしていないはずだ。

 当然、訛りでテュリスがグルディア人であることはすぐに露見する。

 そうすれば、近隣の農村の住民たちは、間違いなく「森から妙なグルディア人の子供が現れた」と領主あたりに知らせるだろう。

 その後に、テュリスは尋問をうける。

 下手をすると、拷問まがいのことまでされるかもしれない。

 つまり、彼が秘密を保ち続けることはまずありえないのだ。

 いまもテュリスの体で赤くうごめく紐の塊のようなものが、至る所で増殖していた。

 頭や腹のあたりが、真紅に輝いてみえるほどだ。

 たぶん、彼が病気にかかっていることに最初に気づくのは、村の実りの神々の僧侶たちだろう。

 だが、それがまさか一千年も前に封じられた疫神からのものだとは、想像も出来ないはずだ。

 いまもテュリスが話すたびに、赤い飛沫が大量に放散されているのがわかる。

 たぶん血まみれ病の感染能は、相当に高い。

 問題は致死率だが、あまり高すぎるのも考えものだった。

 死亡率が高すぎる感染症は、他の者に感染する前に宿主、つまり病人が死亡することもあるので、かえって広まりづらいのである。

 三割から五割、というのが理想的だ。

 村の人々が疫病にかかっても、僧侶たちの法力である程度は病も癒せるかもしれない。

 しかし怪我と違い、病気の治癒はそう簡単にはいかないのだという。

 大地の女神アシャルティア、太陽と生命の神ソラリスなどは、病を駆逐するかなり強力な法力が使えるらしい。

 ただし、法力も魔術と同じで無限に使えるわけではない。

 そして感染した人々は、自覚症状がないままに都市部へと向かう。

 都市は食料をほとんど生産しないため、周囲の農村から穀物や野菜などが運ばれていく。

 もちろん、病も一緒に、だ。


 minjabi:r!(気をつけろよっ!)


 いままでモルグズのことを恐れていたのに、少年は振り返るとにっこりと笑った。

 頭は悪くないのだが、知識がないため自分の置かれている状況に彼はまだ気づいていない。

 気の毒だが、死ぬ前に女も教えてやったしな、とモルグズは苦笑した。

 ラクレィスはさすがに憂鬱そうな表情をしている。


 jen sur erab e:lo!(今からあだしは楽しみだねっ)


 悪びれた様子もなくクーファーの尼僧は言った。


 asuyg ja:bi zemga qi wob patqa era qu?(血まみれ病は何人、ころしぇるきゃね?)


 見当もつかない。

 ラクレィスによると、イシュリナシアの総人口は、おそらく三百五十万人程度、という話だった。

 思ったより、少ない。

 一万騎の重装騎兵を持っているのだから、もっと人口が多いと思っていたのだ。

 この人口はだいたい十四世紀のイングランドと同じくらいだ。

 またセルナーダの地の面積も、ぼんやりと思っていたより小さい可能性が高い。

 なにしろ一つの言語が、多少の訛りはあっても一応、通じるのだから。

 せいぜいフランク王国の最盛期の領土くらい、というのがモルグズの推測だった。

 ただ、ウェルシオンミリスの神罰が存在するため、かなり豊かな森林がまだセルナーダ全土に残っているので、人口が少ないということも考えられる。

 とはいえ農業生産性はかなりのものだろう。

 都市部の人口の多さが、それを裏づけている。

 もし「血まみれ病」がイシュリナシア全土に蔓延した場合、どれだけの死者が出るかは、それこそ神々のみぞ知る話だ。

 とはいえ、この地にいるのは決して邪神だけではない。

 さすがにイシュリナスやソラリス、あるいはアシャルティアといった神々も動き出すかもしれない。

 ソラリスは生命の神なのだから、ゼムナリアとは直接的に敵対しているだろう。

 また、いままでユリディン寺院の動きが感じられないのが、いささか不気味ではある。

 要するに、ゼムナリアの意図通りに物事がうまく行き過ぎている、ということだ。

 ただ、恐ろしい話だがこれは今回に限ったことではなく「日常的に行われている神々の代理戦争のようなもの」と考えることも出来る。

 つまり、モルグズたちが知らないだけで、いまもセルナーダの至るところで、さまざまな神々や僧侶、魔術師、その他の力あるものたちが独自の活動を続け、互いに妨害しあっているのかもしれない。

 これで今の時代が「比較的、安定している」というのだから、暗黒期と呼ばれる時期には確かに人類が絶滅しかけてもおかしくはない。

 ただ、すでに出来る限りのことはやった。

 あとは、状況を見守るだけだ。

 小屋のなかにまでイシュリナス騎士団がやってくることは考えづらい。

 森というのは、騎兵にとって極めて厄介なところだからだ。

 それでも彼らが傭兵などを雇い、モルグズたちを襲ってくることはありえるので油断は禁物だ。

 ふと、厭な予感がした。

 直感、としか言いようがない。

 次の瞬間、いきなり目の前に、一人の男が現れた。

 なにが起きたのかしばし理解できなかった。

 機能的な柔らかい革鎧をまとい、なにかで濡れた短剣を手にしている。

 本能的に体が動いた。

 男があまりにも素早い動きで短剣をラクレィスにむかってふるう。

 ありえない速度だった。

 どう考えても、人間の限界を超えている、としか思えない。

 ラクレイスの肋骨の下あたりから突き入れられた短剣が、彼の胸に深々と突き刺さった。

 おそらく、彼は自分の身になにが起きたかも理解していないのではないだろうか。

 僅かに遅れて、モルグズの長剣が相手の首筋を切り裂いた。

 凄まじい血しぶきをあげて、男が倒れていく。

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