10 wanjova tavzo.(私は体を洗う)

 mende era cu?


 mendeは問題、厄介事を意味する名詞だ。

 日本語の「面倒」と発音も意味も似ているため覚えやすかった。

 ヴァルサは難しい顔をしていたが、無言だ。

 果たしてどこまでこの少女と、ちゃんと会話が出来ているのか、ときどき不安になることがある。

 どんな言語にも言えることだが、口語表現というのは文語、すなわち書き言葉に比べると独特だったり、かなり文法的にいい加減なことも多い。

 実際の英語母語話者同士の日常会話が、教科書のそれとかなり違うようなものだ。

 いまの自分の「セルナーダ語の会話能力」が、片言と呼ぶのもはばかられるようなひどいものであることは誰よりもモルグズが一番、痛感していた。

 ヴァルサはたぶん、いちいち細かい文法の間違いを指摘していない。

 それよりも「意味が通じる」ことのほうが、はるかに重要だからだ。

 しかし、アーガロスを殺したことで、状況はかなり変わった。

 とりあえずモルグズとしてはあの地下室から出られただけでも万々歳だが、ヴァルサにとっては長期的に考えれば、あれが良いことだったかどうかはわからない。

 さきほどは激情に駆られていたが、冷静になると失敗だった、ということもありうるのだ。

 なにもかも、あまりにも未知の要素が多すぎる。

 言葉がほんのすこししかわからない上に、自分の置かれている状況すら理解できていないのだ。

 あの地下室に監禁されていたうえ体が血で汚れているので、風呂にでも入りたいところだがこの世界にはそうしたものがあるのだろうか。


 sagxav li.(俺は汚れている)


 そう言うと、くすっとどこか自虐的にヴァルサが笑った。


 va kap erav.(私も)


 wanjov fog tavzo.(俺は体を洗いたい)


 kap wanjova fog.(私も洗いたい)


 そう言うと、ヴァルサが広間の片隅の扉にむけて歩きだした。

 ここはアーガロスの塔の言うなれば玄関から入ってすぐの場所のはずだが、かなり殺風景だ。

 赤っぽい砂岩とおぼしき石の壁や床、他には窓などがあるが調度らしいものがない。

 窓も単に外気と陽光を取り入れるためだけのもののようで、もちろん硝子などは嵌められていない。

 木製の鎧戸らしきものにつっかえ棒をしているだけの、ごく簡素な窓だ。

 というよりは、これがこの世界ではむしろ当たり前なのかもしれない。

 ヴァルサが言った。


 wanjova tavzo.vomova maviir ned.


 直訳すると「私は体を洗う。私は望む、見るな」だ。

 それでこの扉の奥に、浴室に似た施設があるのだろう、と察しがついた。


 vekev.(わかった)


 maviir ned.zaace morguz!(見るな、悪いモルグズ)


 ヴァルサは照れくさそうに笑うと、舌を突き出した。

 舌を出すというのは、日本のあかんべえと似たような仕草かもしれない。

 誰がお前みたいな小娘の裸なんぞわざわざ見るか、と言いたいところだったが、あいにくとそこまでも言語能力がなかった。

 やがて、扉の向うから水音らしきものが聞こえてきた。

 上水道があるとはさすがに思えない。

 たぶんむこうの部屋には井戸があり、そこから水を汲み上げて、大きな桶のようなもので体を洗っているのだろう。

 最近はそうした、この世界の技術的なところにも興味が向き始めた。

 ここには魔術が存在しているが、それは技術進歩にどんな影響を与えているのだろう。

 さきほど閉めた、玄関の扉へとモルグズは歩き始めた。

 気になるところがあったからだ。

 この世界の扉はいまのところ、日本の引き戸のようなものはなく、手前にひいて開ける種類のものばかりだ。

 となれば、当然……。

 あった。

 扉の膝のあたりの高さに一つ、そして首のあたりに一つ、蝶番が取り付けられていた。

 蝶番そのものは簡単な機構ではあるが、それなりの冶金加工技術がなければ作れない。

 金属の足枷があったのだからこれくらいはあると予想はしていたが。

 この蝶番は予め開けられていた穴を通して石に直接、釘で打ちつけたらしい。

 さすがにその前に石にも穴は開けていただろうが、石造よりも木造も建物のほうが「アレ」を確認しやすかったかもしれなかった。

 モルグズが探していたのは、ネジだ。

 実のところ、ネジは近代的な技術の根幹とでも言うべきものなのだ。

 これがあるとないとでは、その世界の技術進展度は格段に違ってくる。

 西洋文明が東洋に比べて産業革命までに技術水準が一気に上がったのは、ネジの有無が関係していると言っても過言ではない。

 小さな細長い金属に螺旋模様を刻み込む。

 口で言うだけなら簡単だが、それを「実行する」のがどれだけ困難なのかは、ちょっと想像すればわかるだろう。

 戦国時代の日本にも銃器をつくるためにネジが伝わったが、乱世の終わりとともにその製法はまったく発展しなくなった。

 この世界、少なくともセルナーダ語が話される地域では、ネジは存在していないのだろうか。

 そんなことを考えていると、ヴァルサの声が聞こえてきた。

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