karma10 小さな庭

 ————カーテンが揺れる。柔らかな風が部屋の中に運ぶのは、爽やかな太陽の匂い。

 ゆっくりと空気が洗われ、始まった生活。期待に胸を弾ませた。ささやかだけど、きっと薬指の指輪くらいの重さの幸せを、あの部屋で積み重ねていける。そう祈りながら、慎ましい1つの家にあった庭で、花を育てていた。


 記憶の集合体。中には色褪せてしまったせいで、もう再生できなくなったものすらある。

 それらが大きな衝撃で浮き上がった。ふわふわと空中に舞い散った記憶の中で、思い出すこともしなくなったあの記憶。何も変わることもなく、まだあの頃を映せる。


『芽が出てるね』


 振り返ると、まだ若かりし頃の氷見野祥貴ひみのしょうきが優しい笑みを灯していた。


『はい』


 氷見野は花壇に屈み込む。土から顔を出したみずみずしい若葉を見下ろし、微笑んだ。


『苗の方が育てやすいんじゃないか? そしたら夏にも余裕で間に合うだろうし』


 祥貴は窓の外に出ている縁台えんだいに腰かける。


『そうなんですけど、一から育ててみたかったんです』


『そっか』


 庭で穏やかな時が流れていく。少なくとも、この時はまだ2人ともごく普通の夫婦だった。

 慌ただしいイベントが終わり、落ち着いてきた頃。新しい生活が始まる不安を感じる暇もないくらい、幸せだった。


『祥貴さん、知ってますか?』


『ん?』


『向日葵は茎に1本の花を咲かせるだけじゃないんですよ?』


『そうなのか?』


『1本の茎から分かれた枝にも花が咲くんです。1本の幹から葉がつくみたいに』


『へぇ、知らなかった』


 氷見野は小さな若葉に指先で触れる。


『普通の向日葵より花は小さくなるけど、小さな花でも集まってる向日葵が好きなんです』


『ふーん、育てるの大変そうだな』


『そうなんです。でも、育ててみせますよ。この庭で……』


 儚くも鮮明に残る記憶。あの時の気持ちも、頭の奥深くに保存されていた。

 花壇に花はなかったが、自然に育った小さな花が庭にいた。塀の上でスズメたちが鳴き、迷い込んだ蝶が優雅に舞っている。

 あの幸せな日々がずっと続くものだと思っていた。もしも2人が心の内を明かしていたら。もしも2人が、相手の心に耳を澄ましていたら。もしも、共に歩める夢を持っていたら……何かが変わっていたのかもしれない。


 小さな音と細かな振動。霧が晴れていくように感覚が戻っていく。

 気づけば黒い天井が覆っていた。ボーッという音が機体スーツを通って伝う。瞳が2、3度左右を往復する。まだ夢見心地の意識はこれが現実かどうかも分からなかった。

 状況を把握しようと頭が推測へ赴こうとした時、目の前に2つの顔が現れた。2つの顔は驚きから笑みへ変化する。


「……よかった!! 氷見野さん」


「気がついた?」


 福富愛理と西松琴海は機体スーツを着ているが、ARヘルメットだけ脱いでいた。

 そして黒い天井と背中に当たる硬い質感。いくつもの感覚を受け取っていくと同時に、自分が今まで何をしていたのか思い出す。

 氷見野は床に手をついて体を起こしていく。ぎこちなく体を起こす氷見野に、2人は手を添える。

 自身の体が視界に入る。2人と同じく機体スーツ姿で、ARヘルメットを脱いでいた。起き上がったせいか、鈍い頭痛がして頭を抱える。


「水持ってこようか?」


「うん、ありがとう」


 福富は立ち上がり、壁に向かう。機体スーツを壁にくっつける。壁の表面が柔らかくうねると、壁から青銅色の手が出てくる。

 人の手を模倣する応答受容体金属は機体スーツの各部を支え、開いた機体スーツの背から出た。


「あー目覚ましたんかぁ」


 防雷撃装甲部隊over5の御手洗千寿みたらいせんじゅは高い背を曲げて通路をくぐり、貨物室に入ってくる。


「御手洗……さん」


 琴海はおぼろげに名前を口にする。


「そうそう。俺は御手洗千寿! 泣く子も黙る防雷撃装甲部隊over雷獣らいじゅうとは俺様のことよ! グハハハハッ!」


 豪快な様子に苦笑に終始する琴海と、まだ状況を掴めないまま呆然とする氷見野。周囲を見回してようやくここが流星ジェットの中だと認識する。


「戦いは?」


「終わったよ、全部。これから帰るところ」


「そう。よかった」


 御手洗は景気よく笑う。


「しかしお前すげえな!! あんな電撃初めて見た! いったいどうやってやったんだ!?」


「え?」


 氷見野は困惑に揺れる。


「覚えてないの?」


 琴海は唖然とする。


「グハハハハッ! まあ何はともあれ助かった! おかげで大勢押し寄せようとしていたブリーチャーたちも怯んで逃げやがった。まったく大したもんだあ!!」


 すると、御手洗は笑うのをやめて気の抜けた声を漏らす。


「あ、そうだ。俺、食料を探しに来たんだった」


 御手洗は貨物室の床蓋を開ける。貨物室の床下には備蓄された保存食や弾薬が収納されていた。御手洗はハシゴを下り、ガサゴソと床下の貨物室を漁っていく。

 氷見野はゆっくり立ち上がろうとする。


「立って大丈夫なの?」


「ええ」


 琴海は少しだけ安堵する。


「氷見野さん、水持ってきたよ」


 福富はペットボトルの飲料水を持って帰ってきた。


「ありがとう」


 氷見野は福富から受け取った水を口につける。戦って疲弊した体は息を吹き返していくようだった。

 安堵するも、気を失う前の記憶は曖昧だった。氷見野は自分の左手を見下ろし、広げた掌を神妙な表情で見つめる。


「氷見野さん、機体スーツ脱いだら?」


 福富は氷見野のすぐれない様子を気遣い、提案する。


「あ、うん。そうね」


 琴海は貨物室の床下を覗く。


「それにしてもいっぱいあるわね。流星ジェットの貨物室の下にも、こんなに広い部屋があったなんて」


「流星ジェットは輸送にも使われてる。バヌアツがブリーチャーに襲われた件があったろ。被害は甚大。流通も滞ってるらしい。まともに水や食料が行き渡らないせいで、値段が上がりまくってるって話だ」


 御手洗はペンライトで照らしながら箱の中身を取っていく。


「低所得の住民たちはその日暮らしを強いられてる。自棄やけを起こして盗みを働くヤツが大勢出てくるかもしれねぇからな。その前に食料支援してるってわけさ。ああ、もちろんお前らを基地に送ってからだがな」


「その支援するための食料を取っていいんですか?」


 福富は渋い表情を浮かべて懸念を示す。福富の視線の先にある床下の出入り口から御手洗が出てくると、豪快に笑う。


「グハハハハッ。心配すんな。俺が取ったのはこの流星ジェット専用の非常食。流星ジェットには、不時着した時のために非常食が常備されてるのさ」


 御手洗は両手いっぱいの非常食を持って出てくる。そんなに持っていっていいのだろうかとか、勝手に非常食を取っていいのだろうかとか、様々な疑念は尽きない。


 氷見野は御手洗の豪快さに頭に掠めるモヤモヤも和らぎ、少し気が紛れた。

 御手洗の行動を危ぶむも、琴海たちが乗る流星ジェットには他の先輩隊員もいる。御手洗も貨物室から取ってきた非常食を隠す気はないようだった。

 取り越し苦労ならそれでいいと、御手洗を見送った。

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