karma13 憧れは哀しみの中にいる

 盛大な誕生日会が行われた日の夜、車屋祐絢くるまやゆうけん隊長は巡回を終えて東防衛軍に戻ってきた。

 仕事が終わればどこか遊びに行くか、自宅である隊員寮へ戻るか。車屋隊長は後者だった。だが自分の部屋を通り過ぎていく。


 車屋隊長は深緑色のドアの前で立ち止まる。厳しい面持ちだったが、その瞳は悲しみを纏っている。車屋隊長はインターホンを鳴らす。

 応答がない。

 車屋はドアノブを回して引いてみた。ドアはすんなり開いた。

 車屋は部屋の奥へ視線を投げる。部屋は仄暗かった。部屋の突き当たりでは提灯ちょうちんが点滅している。1つの提灯がタンポポの綿のような柔らかな光を灯すと、ゆっくり消えていく。またゆっくり明かりを灯し、長い間を使って点滅を繰り返している。


 車屋はドアを閉め、部屋の中に入っていく。床のあちこちに物が転がっている。メモ用紙が押しピンで壁に貼りつけてあったり、いくつもの提灯が飾られたりしていた。

 楕円のローテーブルには食べかけのカレーとゴールドモッシュベルモットという酒瓶、そして薬の箱。いくつも開けられた箱が残っており、ローテーブルや床に錠剤が落ちている。

 ローテーブルのそばにある黒い大きなソファでは、仰向けになって寝ている初貝茂粂はつがいもじょうがいた。


 車屋は険しい表情で初貝を見下ろしている。

 なぜ自分がこんなことをしているのか、時々分からなくなる。ずっと晴れることのない気持ち。ぐっすり眠る男には昔の面影が残っていた。

 甘いマスクと世間からもてはやされ、ファンから声援を送られると、優しい笑顔を向けていたこともあった。

 目標に向かって努力を惜しまなかった彼は、清々しいほどに爽やかだった。今は、彼に目標なんてない。過去に味わった苦しみから逃げるために戦っている。


 耐えがたい苦しみだった。ひたむきに、真っすぐ進んできたはずなのに、周りで渦巻く様々な思惑と欲望が初貝の未来を崩壊させた。


 車屋が出会った頃には、初貝は廃人になっていた。剣を握り、戦っていた初貝は車屋の憧れの頂点だった。憧れだっただけに、初貝の姿に失望した。

 そして怒りを覚えた。多くの視線と光を受けて戦う初貝茂粂であってほしかった。だがどうだ。いつまで経っても腐ったままだ。戦う場所を用意すれば、いつか戻ってくれると思っていたのに……。


 初貝が身じろいだ。鈍い声を漏らして、瞼が開く。暗がりを見つめる。提灯ちょうちんの赤い明かりに照らされた、車屋の顔があった。


「なんだ、祐絢か……。気づかなかったよ」


 初貝はだるそうに上体を起こし、ローテーブルの散乱した様子を目にする。足を床に下ろして、瓶に残ったお酒を口に注ぐ。


「不用心だろ。鍵くらいかけたらどうだ。連絡1本で業者に直してもらえるだろ」


「あ?」


 初貝は怪訝けげんな表情で聞き直す。


「オートロック」


「ああ……めんどくさくてな。それに以前、部屋に鍵を置いたまま閉め出されて困ったんだ。オートロックは融通が利かない」


 車屋は嘆息たんそくする。


「網膜認証や静脈認証に切り替えればいい話だ。値は張るがケチらなきゃ小さな悩みが1つ解決する」


「そうだな……。でもこうしてお前が勝手に入ってこれなくなる」


 うつむいた初貝の視線が車屋に注がれた。口だけに微笑みが映える。だが初貝の表情には強い悲しみが色濃く押し出されていた。

 初貝は残りを飲み干し、ローテーブルに瓶を置いた。

 静かな部屋に1つ音が灯る。瓶の隣に錠剤が数粒。初貝はそれを手にして、口に運んだ。


「薬の量、増えてないか?」


「いいや、むしろ減った方だよ。約束通り、市販の薬で我慢してるよ」


 初貝は錠剤を噛み砕いてまた新しい酒を開け、胃に流し込んだ。


「君は恩人だ。珍しいほどに」


 ローテーブルに置くと、口端から零れた酒を手の甲で拭く。


「僕はここでしか生きられなくなった。ここでは、世界の危機を救おうとしてる人が来てるけど、僕はこの世界がどうなろうとどうでもいい。……もう、どうでもよくなったんだ」


 車屋は口を閉ざして何も言わない。今更初貝の情けない姿を目にしても幻滅することはなかった。

 真っすぐ受け止めると決めた。あの歓声が沸く光の舞台で戦っていた初貝と同じように。


「僕はすべてを失った。夢も、友人や仲間、それに家族も……」


 初貝は悲しそうな表情を目に携え、車屋に投げる。提灯の光が目頭の涙を映す。


「君は尽くしてくれる。僕に、戻ってほしいんだろ?」


 車屋は顔色を変えず、唇を固く締めたままだ。

 初貝は車屋の顔から逸らし、力なく頭を垂らす。


「でも、過去は消えたりしない。戻ることは、できないんだよ」


「俺は諦めない。諦めの悪さを、あんたが教えてくれたんだ。どんな状況だったとしても信じて戦う。あんたはずっとそうしてきたはずだ。だから俺も、世界一を取れた。けどあんたに勝てなきゃ、本当の世界一にはなれない。そう思ってあんたを探してきた。だが……あんたは戦意を失くしていた」


 車屋は開きっぱなしなった棚に目をやる。

 トロフィーや賞状がはみ出ていた。今やただのガラクタに成り下がっている。


「あんただって、フェンシングをしていたかったんだろ。いい加減、立ち直ってくれ。強くてカッコいい、初貝茂粂に」


 皺を刻んだ顔。あの頃には戻れない。でも、悲愴纏う初貝は嫌いだった。

 車屋はもどかしく感じながら適当な言葉が見つからず、初貝に背を向けて部屋を出て行った。


 初貝はドアの閉まる音を耳にして、1人になった部屋に視線を移す。一点に定まった視線が、なつかしい自分を見つめる。眩しい自分の証が引き出しいっぱいにあふれそうだった。

 初貝は床に落ちた錠剤を掴み、震える手で口に入れた。錠剤を転がし、噛み砕く。ザラザラとした舌触りと苦味を呑み込み、目を瞑る。頭を抱え、声を殺した。静かな部屋には、初貝の悲痛な唸り声がしばらく鳴りやまなかった。

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