karma2 天使の裁き

 ボソボソと誰かが呟く声。何人もの人が話しているようだ。

 キスは心地良い眠りから覚めた。白い光が眩しい。キスは思わず目を細め、身じろいだ。だが、体が食い込む痛みを発する。見下ろすと、自分は木製の椅子に縛られているではないか。キスは焦燥に駆られ、体をよじってロープを解こうとする。


「起きたか。キス・アロウシカ」


 低い声と共に、床をつく足音が響く。キスの視線が、眉をひそめる主殿の服を纏ったジャノベールへ注がれた。


「ジャノベール様、……これは一体、何事ですか?」


「それは私が聞きたい!!!」


 ジャノベールは体を震わせ、怒気を含んだ声で叫ぶ。


「なぜミアラ主殿を殺した!?」


 キスはジャノベールの言葉に絶句した。その時、自分が眠りにつく前の記憶が甦り、やっとこの状況に至った経緯を悟る。


「違います! ジャノベール様!! 私は殺してなどいません!」


「この期に及んでしらを切るか。神の前でもそう断言するというのか!? 聖職者にあるまじき愚行であるぞ!!」


「なぜ私が殺しましょうか!? 私は、ミアラ主殿に命を拾っていただいた身であります! 主殿を殺す理由がありません!! それはジャノベール様もご存じのはずです!!」


 キスは必死に無実を主張するが、ジャノベールの顔から怒りの色は消えない。


「倒れていたお前のそばに注射器があった。ミアラ主殿をていた修道士は、後ろから何者かに口を押さえられたそうだ。その時、首に痛みを感じたと。その後、急に眠気に襲われ、意識を失ったと証言している。私たちが修道士を見つけた時、修道士は両手足を縛られ、テープで口を塞がれていた。これらを総合すれば、お前が修道士に睡眠薬を注射し、人工呼吸器のバッテリーと電源を抜いたとみるのが妥当だろうっ!!」


 キスは大きく首を横に振る。


「私はそんなことしていません」


「じゃあ誰がやったと言うのだ!」


 キスは視線を床に落とす。真犯人の名を口にするのはためらわれる。はっきりと頭にある顔は、冷酷なまでに表情を失くしていた。


「ユヒア様……ユヒア・ラーク・イノセアです」


「ユヒアだと?」


 キスはミアラ主殿を裏切り、教会を裏切り、自分をも裏切った男を思い、悲しみと怒りを滲ませて叫んだ。


「はい! 私は祝意を述べたあと、主殿室へミアラ主殿をお呼びに行きました。ですが、ミアラ主殿はすでにお亡くなりになっていたのです。あまりの出来事に私が慌てふためいていたら、首に痛みを感じ、体の力が抜けていくのがわかりました。私は体を支えられず、床に伏してしまいそうな時、必死に開けるこの目でしかと見たのです。注射器を持つユヒアをっ!! 私ははっきりと見たのです!」


「見苦しいぞ。キス」


 反響する柔らかな声色。革靴が石床いしどこをつく音が聞こえてきた。陰となった場所から出てきたユヒアは、ずれた眼鏡を上げて、静かな怒りをキスに向けて立ち止まる。


「ミアラ主殿を殺しておきながら、他人に罪を着せようとするとは。悪魔に身も心も捧げるまで落ちぶれたか」


「黙れ卑怯者!! お前がミアラ主殿を殺したのだ!!」


 キスは悠々と振る舞うユヒアに怒鳴る。ユヒアは悲嘆に表情をゆがめる。


「そんな汚らしい言葉を使うか。仮にも神の前であるというのに……。残念だよ」


 ユヒアはキスを見据えたまま厳しい顔つきになる。


「キス・アロウシカ……いや、もはやお前はキス・アロウシカではない。神に仕えし厳粛な聖名せいめいを、今のお前が名乗るのはおこがましいというものだ」


 キスの瞳はユヒアの後ろにいる同胞たちを捉える。陰に佇む同胞たちは、キスへの憎悪をはらんだ鋭い視線を投げていた。

 椅子に座らされていてキスには見えないが、少し離れたキスの背後でも、ほとばしる怒りを携える者たちが眼光鋭くキスを突き刺している。


 百数十人という者たちは、罪人であるキスを囲い、同じような顔でキスを見ている。共通の意思を感じさせる視線がキスを責める。誰もが自分の言葉を信じていないのだと、思い知らされた。


「そんな……なぜ私が裁かれなければならないのですか!!?」


 キスは震えた声色を持って訴える。


「私は無実です!! 神に誓い、誰も殺してなどいないのです!!」


 ジャノベールは必死に主張するキスにあわれみをくださるが、あまりに愚かなさまを見ているうちに、悲しみは消え失せてしまった。

 慈悲を持ち、彼をゆるそうというほんのわずかな気持ちは微塵の欠片もなく、これまで信用していた気持ちに対する、様々な怒りをぶつけたい衝動を抑えられない。


「審理は終結した……」


 ジャノベールが呟く。


 キスはもう自分の言葉は届かないと悟った。キスは不条理な境遇に嘆き、悲哀の雫を纏う思考に陥る。

 なぜこんな目に遭わなければならないのか。自身を清め、絶大な信頼を向ける神への奉仕を怠らず、修道に務めたというのに。まだ昔の罪をあがなうことはできていなかったというのか。


 キスが愕然としている間に、ジャノベールが礼拝堂にいる同胞たちへ問いかけた。


「皆に問おう!! この罪人をゆるすべきか! 裁くべきか!! 神は声を聞き届けてくれるであろうっ!!」


 礼拝堂の中で高まる声。周りからたくさんの怒りや憎しみを内包する矢が飛んできて、体の節々に刺さっていくみたいだった。


 キスは顔を上げ、目をいためつけるような光を見る。鮮やかで美しいのに、心が痛い。単調で人工的な光がバラ窓とステンドグラスに反射して、煌びやかに色を変えている。

 しかし、キスはその恩恵に預かれない。ジャノベールは祭壇に立ち、キスは祭壇の下にいる。ジャノベールの背後にはバラ窓とステンドグラスがあり、反射した光を遮っていた。


 キスからしてみれば、ジャノベールの背中には、天使の翼が生えているように見えていた。もし天使だとするのなら、キスのけがれを浄化するために抱き寄せようとしていると思いたいのがゆるしをう人のさがであるが、罪にまみれた信徒に罰を与える神が無数の光の剣を刺そうとしていると、キスを敵視する者たちは思うだろう。

 神にも、同胞たちにも見捨てられ、この言われなき罪により裁かれる。救いは断たれ、キスはうなだれる。そして、あらがえない身であることを悟るのだ。


 神が望む罰であるのなら、喜んで受け入れます。


 キスは悲しみに暮れながらも、神に仕える者であることに徹した。自分には神に仕えることが、生きることそのものであったのだ。死ぬまで神を信じる。彼の最大の教義を唱え、罰を受託することを決心した。

 呆気ない人生を振り返る気力もなく、荒ぶる声たちが聞こえてくるが、ぼやけて内容は分からない。獰猛な獣が威嚇するように攻撃的な表情が揃う。結束した共通意思は少しの乱れもない。


 だが、憤怒ふんぬを叫ぶ者たちの中で、迷いと悲哀に濡れる表情でキスを見る者がいた。キスが司祭を務める教会支部で、信仰を共にする者たちがキスの視界に入る。全員ではなかったが、たった数人だけ、キスの身を案じていた。


 エミリオは歯がゆい気持ちを抱きながらも、粛々と進行する裁判を止められない。それは、キスがミアラ主殿をあやめてないと言い切れないからに違いなかった。

 エミリオは常日頃から尊敬していたキスの姿を見ていられなくなり、キスに背を向け、薄暗い廊下の奥へ行ってしまった。キスの下についていた数名の修道士たちは、動揺しながらもエミリオの後を追っていく。


 自分の下から去っていくかつての部下の姿を目にして、なんとも言えない喪失感に見舞われた。当然の反応なのかもしれないと、愛弟子たちの行動に悲愴の念を心に留めて納得し、彼らの幸せを心の底から願う。


 ジャノベールは怒りに沸き立つ民衆をなだめるように、両手でジェスチャーすると、修道士たちは声を収める。

 ジャノベールが視線を向けた先から、金色の聖杯を持った男がジャノベールの下へゆっくりと歩み寄っていく。その男の後ろ、胴長のアーチ状の廊下からも、聖杯を持った修道士たちが次々と出てきた。


 ジャノベールは祭壇を下り、修道士から聖杯を受け取る。大きな杯の中には冷たい水が入っており、杯の裏にかけるジャノベールの両手にもほんのりと冷気が伝わっていた。


「罪にけがれた者には罰を! そして清めよう! 友のためにっ!」


 ジャノベールは礼拝堂に響き渡るほどの大きな声でがなった。すると、修道士の1人が歌い出す。その歌声に共鳴するかのように、1人、また1人と歌い始めた。声は重なり、音の波が行き交っていく。

 聖杯の中にある水は波紋を立て始める。ジャノベールは祭壇近くにいる男たちに向かって目線を投げると、2本の指を立て、手招きをした。


 呼ばれた修道士の男2人は歌うことをやめ、キスのそばへ歩み寄る。2人の男はキスを挟んで立ち、1人はキスの頭を持って顔を少しだけ上へ向かせた。もう1人はキスの顎を持ち、もう片方の手でキスの口を強引に開かせる。


 おごそかで綺麗な歌声が教会内に充満していく。ジャノベールはキスの前に立ち、聖杯をキスの口に近づける。透明な水がキスの視界に迫っていく。そして、キスは聖杯のふちに口づけをした。

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