8章 戦場を駆ける戦士

karma1 戦いの後に

 長い夜が明けたようだった。夜明けを告げるのはカラスの鳴き声。黒板に爪を立て引っ掻いているように、頭の奥へ貫いてくる声色を持っていた。決して麗しい小鳥のさえずりなどではない。


 それは過去の話。庭で様々な花たちが笑い、綺麗な緑と揺らす。

 季節を纏う風は肌をなぐる。傍若無人でどこ吹く風。気の向くままに、流れるままに。心地いいこともあれば、鬱陶しいこともある。でもそれが当たり前だった。当たり前で穏やかだった。あれが普通の幸せで、かけがえのない幸せだと、今なら思える。


 幸せが特別である必要はなかった。たった1つ、たった1つでいい。過去にあったはずの幸せを、失った普通の幸せを……みんなに。



 強い光が氷見野の瞳へ飛び込んだ。感じた光が強いと認識したのは、いつもより3秒も遅れてのこと。温められた絹と柔らかな羽毛が氷見野を押している。

 それと同時に、体からあふれてくるようなだるさ。子供の頃に感じた夢の後のだるさに似ている。四肢へと伝わっていく感度の上昇で、ようやく状況把握へ移ることができた。


 よぎった記憶は大きな箱の中で小物が揺らされ、物同士がぶつかり、箱の壁にぶつかる。それは箱の外じゃただのこもった音で、中にあるものがどうなっているかなんて気にはしない。ぶつかっても平気だと知っているから。だから全力でぶつかっていけた。そして負けた。

 情けなく散って、箱の底で無残にも倒れ、未熟さを突きつけられてボロボロになってここにいる。


 やっぱり無理か、って白いシーツを被ったベッドのマットレスの上で寝返りを打つ。窓もなく、静かな6畳間の一室にベッド。地下4階の入院病棟の特別な個室に、氷見野は寝かされていた。



ЖЖЖЖЖ



 医者の最終確認が終わり、氷見野は隊員生活棟の自宅へ戻る。

 主人が留守の間に電池を切らしていた携帯は、みんなからの心配のメールを受け取ってくれている。もう大丈夫だと返事のメールを出し、次にコネクターをチェック。事務局を通して藤林隊長名義で連絡が入っていた。意識を回復したことを喜んでいること、いずなが少しやり過ぎたことへのお詫び、攻電即撃部隊ever4へ歓迎すると締めくくられていた。


 これからは部隊ごとに任務へ就く手筈となる。ブリーチャー対策で組織されている各機関との合同訓練も入ってくるだろう。そしてそれは国際的なものへと広がっていく。

 いよいよ始まる。本当の戦いが。


 氷見野は沈みそうな気分を振り払うように、ベッドに横たわっている体を起こし、勢いよく立ち上がった。


 コネクターをシンプルな明るい茶色の机の上に置き、振り向いてローテーブルにある藍川の置き土産、『しょうがワンタン春雨』というインスタント食品の蓋を開ける。

 一度も食べたことのないインスタント食品だったが、そんなに不味そうじゃない。よくあるインスタント食品の1つに見えた。

 粉末スープが入っている銀袋の端から横へ引っ張って、千切るように袋を開ける。かやく入りの粉末スープを入れていく。ローテーブルに乗っているコンパクトな電気ケルトをプレートから持ち上げ、沸かしたばかりのお湯がカップに注がれる。


 コトコトと味わいある音を出すケルトは、昔の家でも使っていたお気に入り。この地下で見つけた時には声を上げそうになるほど運命を感じた。

 カップの内側の線まで入れたらよくかき混ぜる。ラーメンほど待つことはないので、混ぜていればだいたいできあがっている。

 氷見野はわびしい夕食の食卓にいただきますをして、十数時間ぶりの白いご飯と共にいただく。湯気の立つ2つのメニューと冷蔵庫にあった漬物を口に運ぶ。


 いずなから受けた攻撃で気絶はしたものの、軽いやけどを負っただけで他に異常はなかった。おかげでちょっとお腹が気になる。

 病院のベッドで寝ていた朝のこと、お腹を掻いた時にいつもと感触が違う気がして見てみたら、お腹に赤みができていた。今でも時々痒くなる。正直微妙に気になるやつでちょっと困っていた。


 着替えの時もそうだが、藍川みたいにジムでスポーツブラのままうろうろするのは無理かもしれないと、小さな悩みが頭をよぎる。

 琴海には激しい路チューをするカップルを見て眉をひそめる人みたいな顔で、「あんたらマジか」とスポーツブラのまま公共の場を平然と歩き回る神経をディスられた。


 下はジャージのようなものを着ているし、特段変じゃないと氷見野と藍川は思っているのだが、琴海にはどうやら不埒に見えるらしい。意外と琴海はウブなんだといじっても良かったが、多感なお年頃なら当然の反応かもしれないと思ったら、口が勝手にセーブをかけた。

 これからはジムも候補生とは違い、攻電即撃部隊ever所属隊員だけが入れるジムに行けるから、それほど格好を気にする必要もなくなる。


 候補生の頃は真っすぐな通路に隣接する通称『EVER GYM』の出入り口の扉の前を横切って、候補生が使うジムに行く。そこを通るたびに、いつかは自分もあの『EVER GYM』に入るんだと、候補生は憧れと目標の象徴の1つとして、羨望の眼差しを送っていることは候補生あるあるだ。

 候補生は入れないようセキュリティはバッチリ。候補生の妄想はおのずと膨らみやすい。あの中には想像もつかないハイテクノロジーの器具があるんだろうなあと、話のネタになるのもお約束。

 一目攻電即撃部隊everの隊員を見ようと待ち伏せすることが前はあったようだが、今では校則で固く禁じられている。破った者は当然重い罰が待っている。入隊試験2回分の機会――およそ半月の間受験資格を失い、地下5階のコミュニティ棟への出入りが禁止される。


 ふぅと息が零れた。金魚の絵が入った白Tシャツから伸びる腕を、ローテーブルの前に座ったままめいいっぱい伸ばし、小さな冷蔵庫の取っ手を掴んで開ける。横着なことをするようになった自分を、今では恥じらうことすらない。

 そのせいでちょっと女子力が消えた感を突然考え出すが、自室の内装はまだ女だし! と主張できる小物アイテムや、服も雑貨だってあると言い聞かせ、仕草や動作の部分はおろそかになっていた。


 冷蔵庫の扉の裏にある飲み物を置くスペースから大きなパックのお茶を取り、扉を押して閉める。おもったより強い力が出てしまって、閉まる音が大きく鳴った。大きなお茶パックを空になったインスタントカップの隣に置く。

 ローテーブルの端に置かれた紙コップを1つ取り、お茶パックの蓋を開けてコップに注ぐ。食事の終了を告げるように味わい深い麦茶を喉へ流した。


 その時、甲高い電子音が鳴る。目を向けると、机に置かれたコネクターの中心が青く点滅していた。氷見野はローテーブルの上にある食器とカップを片づけ、コネクターに近づき手に取る。

 入ってきた連絡元は特殊整備室からだ。どうやら注文していた機体スーツのカスタムが終わったらしい。いつでもいいから保管室に来て確認してほしいとのことだ。初回任務前には行った方がいいだろう。


 氷見野は明日攻電即撃機保管室に行く予定を立てる。とりあえずいつもの習慣の流れに時間を戻すと、同時にプラスアルファでヨガを行うことに決めた。

 氷見野は引き出しからスポーツウェアを取り、両腕をクロスさせてシャツを脱いだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る