足音を聞かないで:階段の途中で動けなくなるだけの話


 私が活字だらけの小説を読むようになったのは、高校一年生の秋からだった。漫画と映像だけで生活してきた私にとって、小説という世界はひどく小難しい。なにしろ絵がない。言葉から自分で想像をするしかないのだから、読んでいて疲れる。現代国語も古典も、私にとっては眠りの呪文を学ぶ時間だった。

 そんな人間が突然、小説を読み始める理由は二つしかない。自己啓発か、恋だ。もちろん私は、哲学や思想に興味はなかった。興味があるのは三年生の結城透先輩である。彼は図書委員をしていて、図書室で貸出や返却の受付をしている。だから私は、図書室に通っている。

 堂々と話しかけることが出来れば良いのだけれど、私にそんな勇気はないのだ。先輩が受付にいる日に図書室に行って、本を返して、また貸りる。先輩が本の貸出カードを記入している間だけ、私は先輩と時間を共有できる。それだけで、とても満足だ。それに、時々、先輩と本について話せることだってある。

「これ面白いよね」とか、「中原中也? 渋いな」とか。

 最初はそうして先輩と会話ができることが嬉しくて、本を貸りていた。その時、中原中也は読まなかった。

 きっかけはそんな理由だったけれど、いつからか、私は小説にすっかりはまってしまっていた。例えば、恋の話なんて良いものだ。素朴で暖かい文章を読んだ時は、心に空いていた穴の形にぴたりと合わせて、ピースがはめ込まれような気持ちだった。読み終えた時には、満足感と共に、さびしい気持ちになる。それがじんわりと心に残って、その日はふわふわと心が浮足立つ。そんな感覚が、癖になってしまった。

 もちろん、私には難しくてよく分からない話だってある。

 そんな時はスマートフォンに頼る。本の題名を検索すると、いろいろな人の感想や考察が書き込まれているのだ。私にはない視点でその物語を読んでいる人の言葉を仕入れてから、また本を読む。そうすると、まったく新しい気持ちで物語を体験できる。誰かと同じ感想を抱くこともあるし、ぜんぜん違うと思うこともある。でも、それが小説を楽しむということだと、最近になって思えるようになった。

 先輩のいる図書室は、教室の並ぶ校舎からは離れている。一階の渡り廊下を歩いていくと、二階まで続く吹き抜けのホールが広がっていて、大きな階段がある。その階段をあがってすぐが図書室だ。

 このホールはよく音を反響する。話し声が図書室まで響くので、誰かとお喋りしていると、司書の先生によく怒られてしまう。

 ただ、足音を鳴らさないのは難しい。できるだけそっと歩いてはいるけれど、階段を一段のぼるごとに、スリッパがぱたんと鳴ってしまう。ぱたんぱたんぱたん。いつもそうして、図書室への階段をのぼる。

 図書室の扉はいつも開いている。こっそりと覗くと、受付に結城先輩が座っていた。今日も黒縁眼鏡がしっかりと似合っている。茶色いカバーの掛けられた文庫本を読んでいて、じいと見つめられるその本が羨ましくなったりもする。

 前髪を整えてから、私は図書室へ入った。受付に近づくと、結城先輩が顔を上げた。

「や。来ると思ったよ」

 突然そんなことを言われたものだから、私はうまく言葉を返せなかった。なんとか「ど、どうしてですか」と言葉を絞りだしたけれど、先輩は教えてくれなかった。

 私は本を返却してから、足早に本棚の陰に隠れた。

 なぜだ。なぜばれたんだ。もしかしていつも覗き見してから入室していることまで知られているのだろうか。となると死ぬしかないのでは?

 並んだ本に頭を押し付ける。古い紙の匂いがする。太陽の当たらない場所でずっと眠っている、冷たくて穏やかな本の香りだ。なんとか心を落ち着けて、私は本を探すことにした。問題を棚上げするのが私の得意分野なのだ。

 いつもは本棚をぶらぶらと歩きながら、気になるタイトルを探している。表紙を開いて最初の数ページを読んで、気に入ったら貸りる。けれど今日は、すでに気になる本をメモしていた。最近、気に入った本についてスマートフォンで検索したら、多くの人が「同じ作者のこの小説もおすすめ」と紹介していたのだ。

 本棚を作者名で辿っていき、目的の本を見つけられた。

 どきどきしながら、受付に行く。先輩はさっきと変わらないように本を読んでいたのに、私が近づくとすぐに顔を上げた。

「お、お願いします」

「はい、どうも」

 私の差し出した本と図書カードを、先輩が受け取る。そんな些細なことでさえ、緊張してしまう。

「どうして来るのが分かったと思う?」

 貸出作業をしながら、先輩が言った。私は首を振った。分からなかった。

「コレットで調べてみると良い」と先輩は言った。「シドニー・ガブリエル・コレット」

 もちろん私には聞いたことのない名前だった。

「俺、ここで受付するの、今日までなんだ」

 そう言った先輩の言葉の意味を理解した時、私は変な声をあげてしまった。

「受験が近いから、三年生は引退。だから、本を貸し出すのはこれが最後」

 先輩が私に本を差し出した。私は何も言えなかった。言いたいことはたくさんあるはずだった。でも、なにも出てこなかった。小説のように、すらすらと、自分の気持ちは表現できないのだ。

 私は俯いたまま、本を受け取った。私と先輩の手が本を掴んでいた。それから、先輩の手だけが離れていった。

 結局、私は何も言えないまま、本を胸に抱えて頭を下げて、受付を離れた。

「恋の良いところは」

 と、先輩が言った。

 私が振り返ると、先輩が私を見ていた。

「コレット。恋の良いところは。ちゃんと調べて」

 私は何度もうなずいて、図書室を出た。

 足が重かった。もうここに来ても、先輩はいなくなってしまうのだ。図書室に来る楽しみのほとんどが、なくなってしまった。

 胸の奥からこみ上げてくるものがあった。泣きたいから泣くのではない。涙はかってにあふれてくるし、泣く理由は自分にだって分からないのだ。

 階段を途中まで降りて、私は動けなくなった。涙は出てくるし、先輩はいなくなるし、足音は響くし。

 もうどうしようかと考えて、先輩の言葉を思い出した。

 私はポケットからスマートフォンを取り出した。検索画面で、「コレット 恋の良いところは」と検索した。

 検索結果を見て、私の涙はぴたりと止まった。女の涙は気まぐれだし、それくらい驚いたのだ。

 それから、私は図書室を振り返って、スマートフォンを見て、階段をのぼろうか、おりようか迷った。一歩も動けなくなってしまった。

 私は画面に並んだ文字を睨んだ。どうしよう、どうしたらいいのだろう。

 だって、

 ――恋の良いところは、階段を上る足音だけで、あの人だって分かることだ。

 もし動いたら、私の足音が聞かれてしまう。



 了

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