天国に一番近い海:人はなぜ海を見に行くのかを考えるだけの話


「私は天使です」

 と、彼女が言った時、彼はマンションの十二階の通路から飛び降りようと、手すりに体を持ち上げたところだった。

 ぽかんと見返す彼に、彼女は無表情のままで続けた。

「あなたは明後日の午前九時に死ぬことになっています。私は、あなたが死ぬのを見届けに来ました」

 それから首を傾げた。首元まで真っすぐに伸びた黒髪が風に揺れるさまの、その幻想的なほどの美しさに、彼は息を呑んだ。

 戸惑いながら足を下ろし、君は死神かと、彼は訊いた。彼女はこう答えた。

「間違ってはいないので否定はしませんが、できれば天使と呼んで下さい。死神というと、皆さん、怖がるので」

 彼は慌てて部屋に逃げ帰った。ただ、問題なのは、逃げ帰った部屋で、彼女が椅子に座って待っていたことだった。

 彼は腰を抜かして叫んだが、彼女はそんな反応は慣れっこという様子で、眉一つ動かすことはなかった。

 彼という人間には何も誇れるものがなかったが、ただ、人よりも適応能力が高いという個性を持っていた。彼は天使と名乗った彼女をどうこうすることを諦めた。

 何事に対してもそうした諦めの良さを発揮してしまうため、彼は何も長続きせず、何も成しえず、そして今日に至って自分の人生を諦めることにしたのだ。

 天使と名乗る彼女が言うには、彼は明後日には死ぬらしい。今日が明後日に延期されたところで、どんな影響もないだろうと結論付けた。自分で死なずに済むのなら、むしろ楽ができて良いだろう。彼女がただの頭のおかしい変人で、明後日になっても何もなければ、それから死ねば良いと思った。

 腹を決めると、不思議とお腹が空いた。

 食材はすべて消費していたので、食べるものがなにもない。彼は財布を持って出かけることにした。

 彼女はそれが当たり前だと言うように、彼の後ろをついてきた。

 最寄りのコンビニにやってきたところで、彼女は彼の服の裾をつまんだ。彼が振り返ると、彼女はコンビニの窓ガラスに貼られた映画のポスターを見ていた。

「これはどういうお話なんですか」

 彼は手早く説明した。海を観に行く男たちの話だと。

「なぜ海を見に行くのでしょう。分かりません」

 彼は首を振った。彼にも分からなかった。彼女はポスターの前から動かなかった。

 入り口の近くで立ち尽くす彼と彼女の横を、何人もの人たちがちらりと見ながら通っていく。彼は人の視線が苦手だった。逃げようとしたが、彼女は彼の服の裾を離さない。

 分かった、見に行こう、自分で確かめたらいいだろう。彼がそう言うと、彼女はこくりと頷いた。

 電車とバスを乗り継いでやってきた映画館の受付で、二人分のチケットを買っている時、彼はどうしてこうなったのだろうかと考えていた。それからポップコーンとジュースまで買った。ポップコーンはバケツのようなサイズの、一番大きいやつだ。

 席に座り、上映が始まるブザーが鳴り響き、館内が暗くなった時、彼女が言った。

「なぜか分かりませんが、どきどきします」

 たしかに、と彼は頷いた。彼は映画館で並んで座り、ひとつのポップコーンを食べるというような経験は初めてだった。

 彼女はスクリーンから目を離さなかった。大きな瞳の中には好奇心という星の光が瞬いていた。彼はその輝きを眺めずにはいられなかった。そう、何度も。ちらちらと。

 すっかり夜になった帰り道で、彼女はぼそりと呟いた。

「なぜ海を見に行くのでしょう。分かりません」

 彼も分からなかった。映画の内容を覚えていなかったからだ。

 彼女があまりに分からないと繰り返すので、彼はこう言った。

 分かった、見に行こう、自分で確かめたらいいだろう。彼女はこくりと頷いた。

 次の日になって、電車を長く乗り継いで海を見に行った。砂浜を二人で歩きながら、自分はいったい何をしているのだろうと思った。

 砂浜に立ち尽くし、海を眺める彼女の真っ白なワンピースが、風に揺れている。

 懐かしいな、と彼は思った。ずっと昔のことだ。晴れた日には母が庭で洗濯物を干していた。シャツやタオルが並ぶ中で、大きなシーツが揺れていた。太陽の光は眩しくて、真っ白なシーツをちりちりと照らし、地面には濃い影を落としている。そんな何でもない光景を、どうして今、思い出したのだろう。

 彼女は振り返り、彼の顔をきょとんと見た。

「どうして泣いているのですか?」

 彼も分からなかった。ただ、今まで何をしてきたのだろうと思った。どこで道を間違えたのだろう。正しい道を選べなかった、自分が悪いのだろうか。

「人は泣くために、海を見るのですか?」

 彼は首を振った。なにも答えられなかった。

 家に帰ってから、彼は布団に潜り込んだ。自分の人生が高く厚い壁で覆われているように思えた。自分は道を間違えた。何も知らず、大事なことに気付かず、通行止めの場所にやってきてしまったのだ。もうどこにも、道は続いていない。

 自分が眠っていたことに気付いたのは、ずいぶんと経ってからだ。体を起こすと、部屋の隅で座り込んだ彼女がいた。彼女は彼の集めていた漫画を読んでいた。そばには読み終わった漫画が積み上げられていた。

 彼が起きたことに気付くと、彼女が言った。

「続きはないのですか」

 彼は首を振った。その漫画はずっと休載中だった。

 彼女はそうですか、と肩を落とした。

 夜食には焼き飯を作った。彼女は「まずいです」とぶつぶつ言ったが、二人前ほど平らげた。それから、テレビ台のなかにしまい込んでいたゲーム機に興味を示した。久しぶりに起動した対戦ゲームで、夜が明けるまで遊んだ。彼女は彼にまったく勝てなかったが、それでも楽しそうだった。彼もまた、自分でも気づかないうちに、笑い声をあげていた。

 もう無理だ、眠いんだ。彼がそう言って横になった時、彼女は寂しそうに彼を見ていた。なぜそんな顔をするのだろうと、彼は思った。それから思い出した。今日は彼が死ぬ日だった。いま眠れば、もう起きることはないのだろう。

 彼の心は満たされていた。声をあげて笑ったのは何年ぶりだったろう。楽しかった。そう、彼は楽しかったのだ。その気持ちに包まれて死ぬのであれば、きっとそれは世界一幸せな死に方だと、彼は思った。そして、眠りに落ちた。

 ――目が覚めた時、時計は午後四時を過ぎていた。

 彼が体を起こすと、テレビに向かっていた彼女が気付いた。そしてゲーム機のコントローラーを差し出した。

 なんで生きてるのかと訊ねた彼に、彼女は視線をそらしてこう言った。

「延期しました。そう、延期です。ちょっとした手違いで」

 彼はコントローラーを受け取った。彼が寝ている間に、彼女はめちゃくちゃ上達していた。

 人には誰しも、人生の転換期というものがある。大抵は、あとになってあれがそうかと気付くものだ。彼にとっては、その日がそうだった。

 彼女は天使のくせに食事もするし、着替えも用意しなければならない。何度聞いても彼の延期された死がいつ来るのかは教えてくれないし、毎日寝ているわけにもいかなくなった。

 彼は仕方なくアルバイトを始め、彼女が待つ家に帰り、それから彼女が興味を持つたびに、あちこちへと出かけた。やがてバイト先のお客さんからの紹介で会社員になった。仕事は大変だったし、何度も諦めようと思うことがあった。そのたびに、家で待つ彼女のことを思い出した。すると、不思議と力が湧いた。

 ある日、家に帰ると、彼女が玄関で正座をしていた。

「ずっとサボっていたので、天使を解雇されてしまいました」

 真面目な顔でそういう彼女に、彼は笑った。彼女がなにか言うたび、やるたび、彼はいつも笑っていた。

「もう天使ではないのですが、まだここに居ていいでしょうか」

 彼は頷いた。それから、明日は休みだから、どこかに出かけようと言った。彼女は真剣な顔でしばらく悩んでから、途端に顔を明るくした。

「海を見に行きましょう」

 彼女は本当に天使だったのだろうか。あるいは死神なのかもしれないし、ただの変な人なのかもしれない。ただ、確実なことがひとつあった。彼にとってそんなことは、もうどうでも良いことなのだ。

「なぜ海を見に行くのか、私、分かったんです」



 了


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