復活の巫女

 スヴェートらは、何ら悪びれることもなく、彼らを取り押さえようとする兵の前に立ち、剣を腰から外して捨てた。それを見て、マーリもリャビクも同じようにした。

 リシアの手が震えているのに気付いてちょっと振り返り、

「心配するな」

 と笑った。そうすると、なぜかリシアの震えが和らいだ。

「何をするわけでもない。このお方の母が、宰相サヴェフと王のもとにいる。見て分からぬか。彼女は、血に濡れている。だから、ここを通せ」

 はじめこそ言葉遣いは丁寧であったが、だんだん地金が出てきている。マーリが冷や汗を流しはじめたとき、兵の中から声がかかった。

「スヴェート──様?」

 スヴェートが眼をやると、そこにはかつてわずかな間だけ行動を共にし、ラーレの語るところに反発し、己の責めを負うと言って中央軍に戻ったパシハーバルの姿があった。あの頃より、身体が一回り大きくなっている。

「やはり、そうだ。一体、何を」

 装いを見ると、それなりの地位にいるらしい。スヴェートは口の端を吊り上げ、

「スヴェート様と呼ばなくていい。今はお前の方が上に立っているようだ」

 と返した。その物言いにパシハーバルがむっとした顔を見せたのと同時に、

「パシハーバル」

 とスヴェートが重ねた。ここでもしスヴェートが旧交を懐かしむようなことを言えば、歴史はまた別の道を辿っていたかもしれないが、彼が言うのは、こうであった。

「戻って、死ぬのではなかったのか」

 パシハーバルは、それに腹を立てた。当然と言えば当然であろう。しかしつとめて色には出さず、ことさらに笑みを作り、周囲の者に言った。

「この者は、かつての私の上官です。よほど火急のことが起きたと見えます。ここは、宰相どのにお取り次ぎをするのがよいでしょう」


 果たして、一行は宰相の前に引き出された。投げ出した武器は、パシハーバルの部下が両手で抱え、控えている。

「ザハールの娘か」

 頭を垂れる一同に向かって、声が降りかかる。我々の住む国とは違い、一度その姿勢を取ったあとは頭を上げてもよいことになっているから、自然に眼を上げた。

「宰相、サヴェフである」

 これが。痩せ、背は低い。口ひげを長く伸ばしているのが印象的だが、それはかつては美しい金色をしていたのだろう。色褪せて、路地裏の犬のような色だとスヴェートは思った。確か、ザハールと歳はそう変わらず、ラーレやアナスターシャよりは上というくらいの年齢のはずである。それなのに、眼の上にある男は、老人のような印象を持っていた。髪の色や肌の具合などでそう思うのもあるが、なにより、生命が衰えているのを感じるのだ。

 こんな男が。そう思った。しかし、それは、己という一個の存在がこの痩せ衰えた男の前に掻き消えそうになっているのを嫌というほど感じるからでもあった。

 胸のうちに何かが湧き出てくるのを感じた。それが正の走性を持つものなのか負の走性を持つものなのかは分からぬが、とにかく並ならぬものが内からこみ上げてくる。

「リシアを連れて逃げるかと思っていたが、まさか、ここに来るとはな」

 サヴェフは、兵どもに退室するよう眼で命じた。パシハーバルも燃えるような瞳をスヴェートの背に残し、従った。

「アナスターシャ様は、どちらに」

 血塗れのスヴェートは、静かに問うた。

「知って、どうする」

「お守りします」

「お前は、このサヴェフが、アナスターシャをどうにかするとでも?」

「分かりません。しかし、私は、誓ったのです。このリシアを守ると。リシアを守るということは、アナスターシャ様の無事を守るということでもあるのです」

「娘は、母を思う。しかし、父のことはどうだろうか」

 サヴェフが、リシアを見た。眠っているのかと思えたが、しっかりと見ていた。

「父は」

 リシアが、声を震わせる。

「何かの間違いで、叛乱の汚名を着せられました。そのまま流され、今も戦っています。宰相様。どうか、父の疑いを――」

 そこまで言って、サヴェフの暗い笑い声が石壁に響いた。

「娘でありながら、父を知らぬのだな。あれは、流されて戦うような男ではない。私は、そのことをよく知っている。あの男はいつでも、己の意思で剣を振るってきた」

 ゆえに、この叛乱も、ザハール自身の意思で。そういうことである。

「問うたことの答えを、いただいておりませんが」

 スヴェートが、再び言葉を引き取った。

「アナスターシャの身に危険が及ぶようなことは、ない。ただ、してもらおうと思ったのだ」

 かつて精霊の巫女アナスターシャはウラガーンの旗の下、人を導いて戦場を駆けたという。そのことを言っているのだろうか。

「騒がしいな」

 広間の奥から、別の声。それは澄んでいながら、心を掻く棘を持っていた。

「こう騒がしくては、眠れもせぬ」

 奥から現れた、長身の男。金色の髪は若々しく輝きつつ、どこかもの憂げに乱れている。庶民が着るような麻衣に、防寒のための鹿皮の上衣を纏っている。歳の頃はやはりザハールなどと同じの人間であることが一目で分かった。

 それを知らぬスヴェートは、打ちひしがれていた。視界の向こう、高い床で気怠そうに腰を下ろす男の存在そのものに。

 その圧力にも似た何かがこの広間に満ち、何をどうしても自らの息と共に身体の中に入ってくる。気付けば、スヴェートもマーリもリャビクも、地に額を付けて平伏していた。

「王」

 と、サヴェフが呼んだ。この場に現れるのが意外であるという響きを含みながら。


 英雄王ヴィールヒ。ゆえなくしてかつてのナシーヤの宰相ロッシに囚われて幽閉され、ウラガーンの者共が血をもってしてその解放を求めた。振るう槍は大精霊の怒りが雷と共に地に墜ちたものであるという。あまり多くの戦場に出てはいないが、出る度に天が啼いて地がどよめいて、暴れる風ウラガーンとなって悪しきものを打ち砕く。丞相ニコと一騎討ちの末それを討ち取ったことは、子供でも知っている英雄譚である。

 それが、目の前にいる。スヴェートがトゥルケンの冬の樹のように動かなくなってしまったのは王が英雄であるからではない。王の持つ、固有の何かが鼓動を止めにきて、なおかつそれに全く抗うことのできぬような状態なのだ。サヴェフといい王といい、あの時代を知る者とは皆こうなのかと思うくらい、彼らの放つ気は異様な圧力を持っていた。


「こんどは、どんなをするのだ」

 サヴェフに対し、王は諧謔の混じったことを言った。しかし、その目は細められていて、表情は読み取れない。

「王よ。この者は、ザハールの娘」

「そうか。母親を慕い、追ってきたか」

 ちらりとリシアに眼をやり、

「──血に濡れてまで、求めるか」

 と薄く笑った。

「復活の巫女としてこの娘を立てるのは、いかがでしょう」

「この娘がザハールの娘ということは、どれがスヴェートなのだ」

 スヴェートは、驚いた。王が自分の名を口にしたのだから、無理もない。驚きはしたが、あの館には使用人として雨の軍が入っていて、常にアナスターシャとリシアの挙動を報せていたのなら、自分の名くらいは知られていて当たり前だと思い直した。

「私が、スヴェートです」

「ルスランの息子か。なるほど、父にも母にも似ているようだ」

 王は少しだけ天井を見上げるような仕草をし、眼を細めたまま戻した。

「ラーレは、どうしている」

 スヴェートは、戦慄した。パトリアエの中枢は、思いのほか多くのことを知っている。ラーレがスヴェートと関わりを持っていることも、何もかも。だとすれば、ラーレが強い志を持って戦いに臨み、それが必ずしもパトリアエの意思とは一致せぬものであることも分かっているだろう。王がわざわざラーレの名を口にしたのは、そういうことであると思えた。

「もう、長くお目にかかっておりません。戦場に、まだおられると聞き及びます。お変わりなく過ごしておられるのでしょうか」

「そうか。ちょっとした興味で訊いたまでだ」

 戦場にいることは、王なら知らぬはずはない。あえてそれを訊くというのは、ラーレと密かに連絡を取り合っているのではないかという疑いを持っているのかもしれぬとスヴェートは思った。


 実際、史記においては、このときヴィールヒはほんとうに単なる興味でそれを問うたに過ぎないのだが、スヴェートがあまりに身構えているためにそういう猜疑心のようなものを持ったのだと記されている。そうさせるだけの威圧感をヴィールヒが持っていたという挿話であろう。


「もうすぐ人の知るところとなるであろうが、戦いの女神ラーレは、バシュトー王サンラットを討ち果たしたという」

 サヴェフが、薄い灯火の光の中で呟くように言った。

「まことですか」

 マーリが、思わず口を開いた。そうであるならば、形成は一気にこちらに有利ということになる。しかし、アナスターシャやリシアと同じ館で暮らすうち、彼女らがいかにザハールを信じ、愛しているのかということを知るようになっている。戦いに勝つということは、彼女らからそれを奪うということになるのだ。

 ちらりとリシアの表情を伺ったが、マーリの位置からはそれを読み取ることができなかった。

「ルスランの子、スヴェート」

 サヴェフが眠ったような目を開き、声の色を変えた。

「お前を、任ずる」

 宰相である。それが何かを任じようとしているのだから、畏まらなければならない。しかし、そのような心のゆとりはなかった。

「復活の巫女の軍の、一翼に」

 復活の巫女。それが何なのか、この場にいる中で知る者はない。

「ザハールの子リシア」

 この衰えた身体のどこから出るのかというほどに、サヴェフの声は朗々と響く。リシアが、弾かれたように身を縮めた。

「お前は、母と共に死んだ。しかし大精霊の呼び声に答え、蘇った。我らの旗を掲げよ。その下に立て。そして、人を導け」

 稀代の才物と言われるこの宰相が何を言っているのか、一瞬、誰にも分からなかった。

「宰相。ものを問うても、よろしいでしょうか」

 マーリが頭を下げた。言え、と許可を得てから、彼は問うた。

「処刑された精霊の巫女とその娘が舞い戻った。そう触れ回り、人の心をそれで一息にまとめ上げ、士気を高め、バシュトー王を失った叛乱軍を打ち倒そうというお考えですか」

「その通りだ。なかなか、目端が効く。お前、名は」

「マーリと申します」

 サヴェフが、王と並んで座す高くなったところから腰を上げ、降りてくる。

「サヴェフである」

 マーリが、床に頭をぴたりと付けて平伏した。こういう場において同じ高さで名乗り合うというのは、相手を一個の士として認めたということである。これにより、たとえばマーリはサヴェフを朋輩のように扱っても文句は言われぬし、極端なことを言うならサヴェフが求めるならばマーリはそのために死んでやらねばならない。

 己を知るもの。そのために、我が生を使う。士とはそういうものだと知識で知っていても、実際に自分がそういう種類の人間の仲間入りをしたのだと思うと、彼の魂は小刻みに振動せざるを得ない。

「スヴェートよ」

 サヴェフが、スヴェートに声を向けた。

「お前は、なぜ今ここにある。なぜ自ら血に濡れ、ザハールの娘リシアの手を引き、門を抜け、ここに至った」

「彼女を、守るためです」

 スヴェートは、即答した。リシアが、はっとしたようにそれを見た。

「アナスターシャ様が、ここに連れられているはずです。彼女は、それを案じました。アナスターシャ様は、彼女を連れて逃げろとお命じになりました。そうすると、これまで館で何食わぬ顔をして働いていた連中が、いきなり武器を取って我らに向けてきました」

 それが雨の軍であるならば、サヴェフはそれを斬ったことを罪には問えない。雨の軍とは、存在せぬものだからだ。

「だから、思ったのです。守らねばならぬと。アナスターシャ様の言い付けに従い、この国のどこかに逃げたとしても、ああいう手合いの者は必ず武器を握ってやって来るでしょう。それならば」

 スヴェートの瞳が、まっすぐにサヴェフを映している。もう、畏れるような気持ちはない。彼は今、ただリシアの身に危険が覆い被さろうとしたことに怒り、それから彼女を守ろうとすることにのみ魂を傾けている。

「ここに至り、アナスターシャ様の身に何かがある前に、その姿を彼女に見せてやりたかったのです」

「そのあとは?」

「そのあとは、骨の欠片になるまで彼女を守り、戦うのみだと思っていました」

 これが、スヴェートなのだ。マーリとリャビクは、見たかと叫びたい気持ちであったろう。世の正義だ何だと声を上げ、結局ウラガーンはこうして身内で殺し合っている。そうではなく、彼らの仰ぐ将が示さんとするのは、人が人たる所以ゆえんなのだ。己という一個の人間が求め、示すべきものを示す。そのために、血が乾き、骨が砕けても戦うのだ。

「なぜそうまでして、リシアを守ろうと欲する」

「守りたいからです」

 スヴェートは、破顔わらった。ちょっと困ったようにその顔を作るのを見て、サヴェフも鼻を鳴らした。

「案ずるな。アナスターシャの身は、安全だ。どのみち、はじめからお前たちもここに連れて来るつもりであった。お前たちの方から来てくれたのだ。礼を言いたいくらいだ」


 はじめから、リシアとスヴェートを。復活の巫女と、それを護る将として。

 サヴェフがかつてよく言った、いのちの使い道。彼は、この二人のいのちを、そのように使おうとしているのだろうか。

 いや、彼が使うのではないのかもしれぬ。たとえば、時代。たとえば、世界。そういうものの代弁者のように、あるいはそういうものの意思に働きかけて捻じ曲げるように、彼はこれまでも存在してきた。


「それは、つまり、リシアに父ザハールを討つ軍の旗の下に立てようということですね」

「そういうことになる。そうしなくては、ラーレがお前の父の首をたちどころに刎ね飛ばしてしまうだろう」

 バシュトー王のように。それを討ったというならば、ザハールも同じようにならぬとは限らない。

「あちらは、講和を望んでいる。そのために、お前たちには働いてもらうぞ」

 どうだ、とサヴェフはリシアに返答を求めた。リシアが口を開くまで、いつまでも静寂がそこに居座った。

「分かりました。軍を率いるようなことができるとは思えませんが、それで父が救われるなら」

 サヴェフに父を殺すつもりがないと聞き、安心したらしい。リシアは、意を決したように首を縦に振った。

「父は、よくわたしに言いました。己の為すべきことを為せと。男であるとか女であるとかに関わりなく、誰もが己にしかできぬことを持つのだと」

「ならば、これ以上私から言うことはない。装束を改めよ」

「お待ちください、宰相」

「なんだ、スヴェート」

「あまりにも急で──」

「リシアを守るのではなかったのか。置いて行かれるぞ」

 眠ってしまっているのかと思っていた王が、いきなり口を開いた。

「人が人の側にあり、何かをする。多くの者が、それを求めた。今なお、それは続いている。そういうことらしいな」

 王はやはり気怠げに伸びを背骨に与え、立ち上がった。

「思い付きにしてはよく出来ているように思う。サヴェフ」

 そう言ってサヴェフの肩を軽く叩き、奥の間ではなくスヴェートらが入ってきた方の扉の方に向かった。

「どちらへ」

 それを追うサヴェフの声に、王は答えた。

「そろそろ、星が出る頃だ」


 アナスターシャとリシアは、再会した。なぜ来たのか、とアナスターシャは厳しい声を上げたが、自分にしかできぬことを、父のためにしようと思うのだとリシアが答えると、少し悲しそうな顔を見せたきり、その身の無事を喜ぶのみになった。

 パトリアエが、震えた。

 処刑されたはずの精霊の巫女とその娘が、また人の前に姿を現したのである。娘は復活の巫女と呼ばれ、旗が与えられた。龍と精霊の翼、斧と盾。翻るその旗の下に立つ彼女を見て、兵は、民は、全ての人は狂喜した。

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