矛盾

 バシュトー王たる、サンラットの死。それは、コスコフを席巻している全てのバシュトー軍の足を止めた。南からパトリアエ軍が攻めて来ぬよう見張る者も、木を伐る者も、塩を積んだ荷車を改める者も皆、しばらく呆然としたあとその報せを聞いて地に両膝をついて嘆き、悲しんだ。

 とくに、彼らが仮の本営と定めたソーリ海沿岸の製塩所のひとつにあるペトロの落胆と嘆きは並ならぬものであった。


「ザハール。済まん。俺の策が、外れたせいだ。ラーレが、いや、パトリアエがサンラットの迂回を読んでいるとは、思ってもいなかった」

 何を言ったところで、サンラットが死ぬ前に時を戻すことはできない。自分のせいでサンラットと、その率いる精鋭の軽騎兵は死んだ。サンラット個人の死という悲しみとは別に、そのような思いを抱いているらしい。

「自分を責めることはない」

 と、ザハールは言った。

「お前たちを助けると息巻いてやって来ておきながら、俺はなんてざまだ。いずれ国ができたあと、サヴェフはお前を依り代にしてその国をまとめ上げる作業に入るであろうことも知りながら、止められなかった。結局、何かが起きてから手足をばたばたとさせて藻掻くだけの男なんだ」

「ペトロ」

 ザハールが屈み込み、ペトロの肩に大きな手を置いた。ペトロが涙に濡れた目を上げると、そこには怒りと悲しみに染まった一匹の龍がいた。

「では、お前は、悪か。いいや、違う。悪であるのは、俺やお前や、ましてやサンラットではない。それを、見誤るな」

 怒りに身を任せて戦いを仕掛けたときや、パトリアエこそほんとうの敵と心から思い定め、なだれ込もうとしたときには、肝が冷えた。しかし、今はザハールがペトロを宥める番であるらしい。

「天下の大軍師。智慧比類無し。そのように人にもてはやされる度に、お前は己が果たしてそのような器であるかどうか問うてきた」

 たしかに、そうである。いつの間にか軍師などというようなことをするようになっていたが、もともと、なのである。できるだけ仕事が露見せぬよう、そして人に見られて争いなどにならぬようにと、徹底して狙う家を観察していた。そのときに養ったものが、彼の軍師としての素養になった。

 だが、ペトロは、己が天下一の軍師であるなどと思ったことはない。

「今もなお、俺が騙されるようにして叛乱を起こすことになったのは己の責であると思っている」

 それも、その通りである。はじめからこの未来を想像していた。それなのに、サヴェフを止めなかった。

「ペトロ」

 お互い、老いた。老人と呼ばれるようになるにはまだ多くの時間があるが、髪の色は褪せ、目尻や頬には皺が目立つようになっている。だが、変わらぬものもあった。

「俺は、誰にいざなわれてここに来たわけでもない。俺はいつも、この涙の剣の導きと俺の心に従い、選び、生きてきたのだ」

「しかし、俺には、止めることができた」

「思い上がるな」

 厳しい言葉。しかし、棘はなく、むしろ暖かみがあった。

「お前がもし、あの頃にすでに何かをしていたとしても、サヴェフは別の方法で今日という日が来るように仕向けただろう。俺がパトリアエを出ることがなくとも、俺はあの国の中で叛乱を起こしていたかもしれん」

「かもしれん、というような話など──」

 ペトロは、言葉を切った。かもしれない、という話ばかりをしているのは、自分なのだ。

 こうなったら、ああなるかもしれない。そうであるならば、これをするべきかもしれない。ずっと、そのように考えてきた。

「そうだ。お前の、言う通りだ。かもしれぬ、とは、未だきたらぬ時のことを思い、言うことだ。過ぎ去ったことを顧み、言うことではない」

 立ち上がり、涙の剣を腰に。

「これから、どうする」

 黒い墜星が、大軍師に指示を求めた。

 過去を省みてどうこう言うことはない。その無限に積み上がった過去の上にある今という時に立って彼らが考えるべきことは、これからどうするか、ということ以外にない。

「諦めて、いないのか」

 ペトロは、この二十年来の友人のほんとうの姿を、はじめて見た気がした。

「諦めてなどいない。サンラットという双つ無き友を失っても、それが掲げた理想の旗が折れることはない。いや、その旗が焼かれ、灰になったとしても、俺もまた同じ旗を持っている。俺のみならず、この世に生きる全ての人も」

 今ここで諦めてしまえば、サンラットは怒るだろう。ザハールは、そう言って苦笑した。


 サンラットだけではない。ジーン。ベアトリーシャ。サンス。ルスラン。名もないまま死んだ仲間。自ら斬った敵。宰相ロッシ。丞相ニコ。人が人から奪わぬ国という志のために闇を切り裂いて流れて墜ちた、無数の星。それを知りながら、立ち止まることはできない。

 生あるザハールもまた、星なのだ。流れ、激しく光を放ち、目指すべきものを目指し、まっしぐらに闇を裂く星なのだ。


「まだ、戦うと言うのか」

 ペトロは、蒼白になっている顔を上げた。

「そのことを、言っている」

 ザハールは、腰の剣をひとつ鳴らした。

 鳴ったと思ったときには、もう冷たく、悲しげな光が抜き放たれていた。

「この俺の骨が砕け、血が枯れ果てようとも。俺は、戦う。これまでも、そうしてきた。過ぎ去った彼らの屍を積み重ねたその上に、俺は立っている」

 そして、とその光を閃かせた。

「サンラットが死したとしても、それは変わらぬ。お前が死ぬことがあっても、この俺が死んでも。あとに残る全ての人が、同じものを求める」

 シトが。リシアが。ジェリーゾが。あらゆる光が、それを求める。自らが光であることを示し、さらに屍を積み上げ、血の河を渡り、向こう岸に至らんと手を伸ばす。

「それは、ほんとうに、人の歩む道なんだろうか」

 ペトロが、ぽつりと言う。

「いいや、違う」

 ザハールは確かな声で言い、剣を腰に戻した。

「そうだからこそ、俺たちが戦わねばならぬ。子らに、それをさせぬため、戦うのだ。人は、己のためになど力は使えぬ。誰かのためにと思うからこそ、戦えるのだ」

「お前の言うことは、あべこべだな。はるか東の国の、矛と盾の話のようだ」

「なんだ、それは」

 ペトロは、ザハールにその話をしてやった。

 はるか東の国に、矛と盾を売る商人がいた。その者は戦士を捕まえて、自分の売るものを買わせようと口上を述べた。曰く、矛はどのようなものでも貫くことができ、盾はあらゆる刃を通さぬものであるという。戦士が、ではその矛でその盾を貫けばどうなるのかと問うと、商人は答えに窮して黙り込んでしまった。というような内容である。

「お前の言うことは、まさにその矛盾だ」

 己が死してもなお、己が誰かの屍の上に立って戦ってきたように、己の屍の上にまた次の世代の者が立ち、戦い続けるという矛。それを子らにさせぬため、今己が戦うという盾。

「お前の矛と盾は、どちらが強いのだろうな」

 ペトロが言うのに、ザハールは笑って答えた。

「何も、矛が突き、盾が防ぐものとは限るまい。ときに、矛で防ぎ、盾で殴ることもある」

 さすがに、ペトロも笑った。しかしすぐに悲しみをその顔に戻し、

「では、お前の中で、いや、人の心の中でそれがぶつかり合えば、どうなる」

 と問うた。ザハールはまた笑い、

「知れたこと」

 と答えた。

「力の強い方が、勝つ」

 ペトロは、今度は声を上げて笑った。

「ゆくぞ、ペトロ。皆が、待っている」


 ナシーヤ式の建築様式の代表的なものである、石積みの建屋。そこを出れば、五〇八年の春がその息吹を告げようとしていた。

 それは、産声のようであった。

 風。ごうと二人の耳元で暴れ、ソーリの海に向かって吹いていった。

 誰もが肩を落とし、陰惨な空気に浸された本営。サンラットは、ナシーヤ人が思うような形の王ではなかった。しかし、ここにいる全ての人は、彼を慕っていた。かつては、サンラットの部族バシュトーと敵対していた部族の出身の者も多い。しかし、今は、等しく王の死を嘆いていた。

 それが、姿を現した二人の姿を見、顔を上げた。

「聞け」

 ザハールが、天に轟くような声を上げた。

「バシュトー王サンラットは、死んだ。我々の悲しみはこのソーリよりも大きく、怒りは東の山よりも高い」

 声を上げる客将を見上げて並んだ褐色に近い肌を、幾筋もの涙が伝ってゆく。

「我らは、ここで足を止め、悲しみに押し流され、戦いをやめるべきか。あるいは、その悲しみを胸にして王の心を継ぎ、中央を目指して進むべきか」

 一同を、見回した。そこには、ザハール直属の漆黒の騎馬隊の者の顔もあったし、さらにその中にシトの顔も見えた。

 戦いを始めた頃はまだ少年の面影があったが、今やすっかり身体も大きくなり、いっぱしの戦士になっていた。

 涙で真っ赤になった目をこすり、引き締まった視線で見上げている。

「諸君に、問う。お前たちにとっての王サンラットとは、何であったのかを。お前たちにとっての戦いとは、何であるのかを」

 サンラットの死。誰もが、その大きすぎるものを、受け入れられずにいる。

「死した者を思い、生ける者に尽くす。俺は、サンラットがそういう戦いをしてきたのだと思っている」

 しかし、サンラットは死んだ。

「その死には、何の意味もない。俺は、そう思っている。しかし、サンラットが生きた、確かに生きたその生は、ソーリに注いでも注ぎきれぬほどのものであった」

 ゆえに。と言いながら、黒い墜星はまた剣を抜いた。

「生を等しく持つ我らは、この生を使い、示さねばなるまい。死した者を思い、示さねばなるまい」

 幾多の敵を屠ってきた涙の剣。この地上で最も多くの死を見てきた男。それがまた、暴れる風を呼んだ。

「肩を落とすな。胸を張れ。退くな。進め、前へ。過ぎ去った日ではなく、未だ来らぬ日へと。共に、行こう。このザハールが、我々バシュトーの前に立つ。俺を、越えるな。俺が、境なのだ」

 生と死の。いつも、そうであった。

 馬を駆り、剣を振るい、死を最も多くくぐり、敵にそれを与えてきた。ザハールこそ、生と死の境。

 彼を追い越した者は、ことごとく滴になって墜ちた。


 バシュトー軍、四万二千。それが、行動を再開した。武器を握り直し、木を伐って船を作ることを再開し、畑を拓き、塩を貯蔵した。

 彼らは全て、前を向いていた。

 前を向いて、未だ来らぬ日のことを見ていた。彼らにとって、そこに己がいるかどうかは、問題ではない。やはり、ペトロの言う通り、矛盾である。しかし、ザハールの言う通り、それを矛盾と思わなければ、矛盾にはならぬ。


 数日後、サンラットの死を知ったジェリーゾが、戻った。パトリアエの中枢近くにまで迫っていたようであるが、それがやけに慌てている。

「どうした」

 人を払い、ペトロは声を低くして彼の持ち帰った情報を確かめた。

 それは、またバシュトーを震撼させるものであった。

 アナスターシャが、やはり生きていた。それは、死したはずの巫女とその娘が大精霊によってこの世に戻されたと宣伝され、パトリアエ軍や民の戦いへの熱は最大限に高まっている。

 今、パトリアエ軍の旗の下に、彼女はいるという。

 その恐ろしさを、ザハールもペトロも知りすぎるほど知っている。かつてナシーヤが倒れたときと、同じであるからだ。

 彼女の意思がどうであるかに関わらず、彼女がそこにあるだけで、時は戦いへと動いてゆく。

 そうする者が、パトリアエにはいるのだ。ペトロは、その者の言葉を思い出した。

「いのちには、使い道がある」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る