死が姿を得たような

 たった三人で、取り残されたようにして留まったスヴェート達の両脇を、二つに分かれた漆黒の騎馬隊が通り過ぎてゆく。反転し、壊走を見せる歩兵を追撃するのだろう。袋の口の両脇に広がっていたバシュトー軽騎兵たちが、反転した漆黒の騎馬隊と入れ違うようにして馬を発し、すぐに疾駆の体勢になって袋の口に殺到してくる。

 誰も、たった三人で固まっている彼らが何なのか分からず、武器も付けずに通り過ぎて行った。時折それがラーレ軍の歩兵で、壊走の流れから取り残された者であることを見て取って武器を突き出してくる者もあったが、わずか三人のこと、それをかわされたりしても誰も顧みる者はない。


 バシュトー軽騎兵が軒並み袋の口を越え、その先頭が歩兵の最後尾を蹂躙し始めたとき、漆黒の騎馬隊も再び疾駆を始めた。

 先頭の男。それが、間違いなくザハール。スヴェートには、はっきりとした恐怖があった。

 雨を斬り裂きながら刃そのもののようになって、先頭を駆けている。無論、距離からしてその視線や表情を読むことはできぬが、だが、その目は明らかに自分たちを敵として映しているように思えた。

 あの黒は、死の色なのだ。血が飛び、それが染み付いて乾ききって、泥にまみれ、それを怒りと憎しみで塗り込めた色なのだ。

 しかし、頭のどこかの部分は、やはり冷めていた。

 何のために、奪うのか。

 何のために、殺すのか。

 敵だからか。

 では、ザハールにとっての敵とは。自分にとっての敵とは。人にとっての、敵とは。

 おそらく先に逃げ散った歩兵たちは、死にまみれているだろう。それは、この天から降る雨がそうするように、地にある者を見境いなく濡らすのだ。

 それをもたらすもの。ウラガーンとは、よく言ったものだ。


「笑ってる場合じゃねえぞ!身を低くしろ!」

 リャビクの怒号で、はっとした。ザハールはとっくに自分を通り越して後方にあるらしく、その後に続く漆黒の騎馬隊の苛烈な暴風に包まれていた。

 身を低くしろと声を荒げながら、武器を突き出そうとする構えを見て取って大剣を振るうリャビク。言葉にもならぬ声を上げながら馬体に向かって槍を繰り出し、それが折れれば剣を抜いてむやみやたらに振り回すマーリ。

 二人は、自分を守っているのだ。

 なぜ守るのか、スヴェートには分からない。恐らく、二人自身にも。


 ──お前は、光なのだ。

 ザンチノの言葉が、不意に蘇る。少なくとも、自分に光と名を与えた者は自分を光と思ったのだろう。スヴェートはその者の顔も知らぬが、ザンチノには自分が光だも思えていたのだ。

 おそらく、この二人も。そして自分も、この二人を。


 一人の敵。身に付ける兜に飾りが小さく付いているから、部隊長くらいだろうか。馬の扱いが巧く、リャビクが振るう大剣が届かぬぎりぎりのところで馬をかわし、突き出してくるマーリの剣を弾き上げた。

 はっきりと、二人を死が濡らそうとしているのが分かった。天から降り続けるこの雨が、今まさに黒に変わろうとしているのだ。

 それを見た途端、スヴェートの身体は惹かれるように動いた。

 雨の滴をすり抜けるようにして振り降ろされる長剣。それを、無我夢中で距離を詰めて弾いた。

 二人に庇われるようにして立っていたはずが、どのようにして二人より前に出たのか、分からない。

 濡れた飾りのついた兜の下の目と、交差した。若い光がそこにあった。自分よりも歳が下であるように見えた。棹立ちになる馬の上で弾かれた剣を握り直し、敵意を燃やしている。

 二度目の打ち合い。左手の剣で若き将の剣を受け流し、右手の剣でその跨る馬の腿を突いた。

 馬が驚いて叫び、駆けだしてその上の主人を振り落とす。

 地にある者同士なら、互角である。

 若き将の従える百ほどの兵どもが、それを護ろうとする体勢に入る。

 スヴェート達には、逃げ場などない。この百の騎馬に揉まれて、襤褸のようになって死ぬしかない。

 しかし、歴史は彼らを死なせなかった。彼らの背後にある、漆黒の騎馬隊とバシュトー軽騎がラーレ軍歩兵を存分に蹂躙ているであろう世界に、異変が起きた。

 落馬して起き上がった若き将の視線も、それを護ろうとする兵らの視線も、そこに集まった。だから、スヴェートも思わず振り返った。


 あり得ない光景だった。

 両側の丘。そのあちこちに登った、弓兵と楯兵。楯兵がずらりと並んで防壁を作るその背に、巨大な木の構造物。神話に出てくる大いなるもののような巨大な腕を振り回し、雨を墜とす天に何かを打ち上げている。

 それは計ったようにして狭隘な地形にひしめく騎馬隊に向かって落下し、混乱をもたらしている。

 よく見ると、雨の煙の中に、もうもうと一層白い煙が立ち上っている。

 生石灰。それを詰めた甕を打ち出し、丘の下の的を石灰まみれにして雨に濡らして発熱させる。そうしているのだとこのときのスヴェートや向かい合う若い将が悟るにはあまりに彼らの知識は薄かったが、とにかくとんでもないことが起きているのだけは分かっただろう。

 加えて射掛けられる、矢。大混乱と言わざるを得ない状況であるが、そこはさすが戦い慣れたバシュトー軽騎兵と漆黒の騎馬隊である。鐘を高らかに打ち鳴らして瞬く間に混乱を収束して反転し、離脱を始めた。

「撤退です」

 若き将を自分の馬に乗せようと、一人の騎馬が声をかける。それに従うべきであると分かっていても、目の前のスヴェートらに背を向けられない様子だった。

「前線で何が起きているのかは分かりませんが、危険です。早く」

 鋭く促され、ようやく若き将は後ずさりを始めた。

 スヴェートらも、危険である。袋の口を越えて丘の間に殺到していた騎馬隊が、戻ってくるのだ。今度こそ、ひとたまりもないだろう。早く逸れて身を避けなければ、急速離脱するそれらに踏み潰されて終わりである。

「おい」

 スヴェートにはそのことが分からないのだろうか、半身、背を向けかけた若き将に声をかけた。

 鉄が鳴る。飾りのついた兜が、宙に。さらに身を翻して、若き将の手を引くようにして退却を促していた者の喉を斬った。

 瞬き一つほどの、全くの静寂。そののち、百の騎馬が一斉にスヴェートに殺意を向けた。

 スヴェートが一人を斬ったことで、この百の騎馬隊ははっきりと敵になった。命をうしなった者が馬上から落ちるよりも早く、スヴェートは次の者に向かってぬかるんだ地を蹴った。

 また、鉄が鳴る。

「──気は確かか、お前」

 スヴェートの剣を防ぐのは、兜を失った若い将。むき出しの頭髪が雨に濡れ、晴れた日なら美しいであろう金髪を濁している。

「なぜ殺した。なぜ逃げぬ。もう、お前の背に手が届きそうなくらいのところに、我らの騎馬隊は来ているぞ」

 若い将は、スヴェートのすることが全く理解できないらしい。

「留まらなければならない。そう思った」

 それが、唯一の理由。あのまま壊走する歩兵に続いていれば騎馬隊の蹂躙を受けていたかもしれず、その意味では彼は幸運であった。しかし、戻ってくる騎馬隊があることを知りながらなおこの百の騎馬に食ってかかったのは愚行であり蛮行であるようにすら見える。

「なぜ、お前たちは。なぜお前たちは、謂れなくして人を陥れ、奪い、傷付けるのだ」

 若い将の目に、怒りと憎しみがまた滲んだ。

 二人の身体はほとんど密着してしまっているから、騎馬もマーリとリャビクの二人も手を出せないでいる。

「俺は」

 スヴェートが、慢心の力で剣を押し返す。

「俺は、許すことができぬ。人が、人から何かを奪うことなど」

 若い将は、訝しい顔をした。それはこちらの台詞だとでも言いたげである。

 剣と剣が、身体と身体が、離れた。

 同時に、相手の命に届けるべき刃を振るった。

 ひとつはスヴェートの頬に、ひとつは若い将の脇腹の鎧の継ぎ目に赤い線を走らせた。

「お前の負けだ。名を、聞いておいてやる」

 なぜか、若い将は剣を引いてしまった。

「俺は負けてなどいない。しかし名乗ろう」

 スヴェートと。そう口を開こうとしたとき、リャビクの叫び声が耳に入った。

 とっさに反応して、身を横飛びにかわす。同時に、不気味な唸りをあげて暴れる風。そして見上げて、硬直した。

 これが馬かと思うほどの巨軀の青毛。黒鉄くろがねの兜と鎧。そこに刻まれた無数の傷に、雨が這っている。手には、禍々しいまでに強く冷たい光を放つ長剣。

 お前の負けだ、と若い将が言った意味が分かった。

 黒い墜星ザハール。撤退してきたそれが、スヴェートのところに来た。そして馬を停め、見下ろしている。

 その姿は、死とその先にある闇とそれすら塗り潰してしまうような何かがそのまま姿を得たようだった。

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