戦勝のあと

 乾いた風が、吹いている。バシュトーほどではないにせよ、昼と夜で風の冷たさはまるで違った。あちこちに砂や草に埋もれかけた太古の遺跡があるこの広大な原野だから、遮るものがなく、より強くそれを感じる。

 戦いのあと、バシュトー軍はサムサラバードの地に展開した。背後には無数のバシュトー人が続き、糧食となるような家畜などを連れて少しでも軍の助けになろうとしているから、滞人が多少長引いても耐えられる。

 もともと、守るべき土地などない人々である。男どもはことごとく軍に参加して兵となり、その数は五万にも上ろうとしており、たとえば十五年前の戦いで傷付いて武器が取れなくなったような者や女子供が荷を曳いて戦場と故地を往復するのも数に入れれば、十五万くらいにはなりそうだった。

 文字通り、全てのバシュトー人が、戦いに参画している。それが、十五年前の戦いのときと違う、とザハールは思った。

「こちらの損害は、ペトロ」

「陽動のために発した軍は、壊滅した。先遣軍を攻めたときに、あんたの騎馬隊に八、サンラットの騎馬隊に五十四」

 それが、この戦いで死んだ者の数。それを数えたところでどうなるわけでもないが、知っておくべき数だった。

「策が当たったとはいえ、気の晴れぬものだ」

 サンラットが、口を開いた。ラーレを釣るために発した千の騎馬隊は、バシュトー人に黒い鎧兜を着せて偽装したものである。そのバシュトー人の生命を犠牲にして、彼らは今回の勝ちを手に入れた。そのことを、ペトロが静かに説く。

「人のいのちとは、それ一つ。だから、それを数として数えることなど、誰にもできない。だが、あえてそれをしなければならないときがある」

 ペトロの目は、その声の色と同じく静かであった。

「千のいのちを捨てて、万のいのちを奪う。戦いにおいては、それを命じることのできる者が必要になることがあるんだ」

「それが、戦い――」

 随行しているシトが、思わず声を上げた。それに向かって、ペトロは穏やかな視線を向ける。

「思い違うな、シト。戦いにおいてそういうことはあるが、それが戦いの全てではない。非情になるな。自らの策によって死した全ての者のいのちの重さを背負い、なお生きろ。俺は、いつも自分にそう言い聞かせてきた」

 非情になりきってしまえるなら、楽であろう。人の生命を生命とも思わず、ただの数量として認識できれば、軍師としてこれほど楽なことはない。だが、ペトロはずっと、そういう風にはなれなかった。なるつもりもなかった。

 半分だけ隠れた顔が、涙の剣を握って座す盟友の方を向く。

「ラーレが、出てきた。お前を失った今、パトリアエにおいてあの戦いを知るほんとうの戦士が率いる軍というのは少ない。ましてや、十聖将ともなると。つまり、ラーレの軍を潰してしまえば、戦いは一気に有利になる。ほかの軍など、お前やサンラットの敵ではないことは、今日まさに証明された」

「つまり、一万の軍を潰すためにわざと小当たりを仕掛けはしたが、先遣の地方軍を潰したところで大勢には影響がないということだな」

「ない。一万を潰せば次の二万、二万を潰せば次の五万という風に、際限なくあちらは軍を繰り出すことができる」

 その先にあるのは、国土の全ての兵を使った消耗戦。そうなればバシュトー軍は圧倒的に不利であるし、パトリアエの生産も低下し、また人々は飢え、嘆き、怒る。その連鎖は、どうにかして断ち切らなければならない。

「思えば、王家の軍を相手に俺たちの浮沈をかけて戦っていた頃の方が、ずっと簡単だった」

 制約が多い。そのことをペトロは説いた。国家皆兵となってパトリアエに攻め込み、後方から途切れることなく物資はもたらされているが、バシュトーという国は農耕をほぼせぬだけに食糧などに乏しい。今は部族ごとに飼っている家畜なども惜しみなく差し出されてくるが、数万の兵が食うとなるとそれは膨大な量になり、いずれ差し出す家畜はなくなってしまう。

 そのためには、短期決戦に持ち込まなければならない。パトリアエ側でもザハールに対抗できるのはラーレしかいないと思っているらしく、トゥルケンからそれを呼び出して南に繰り出してはきた。しかし、どうにかしてそれをに持ち込まなければ、勝てない。

 言い換えると、ラーレは南に出張ってきて滞陣し、一歩も動かずそれ以上バシュトーが北上できぬよう睨みをきかせていれば勝てるのだ。

「では、どうするのだ、ペトロ」

 サンラットが、これ以上思考が及ばないらしく、声を高くした。

「心配するな。お前を負けさせるために、わざわざ来たりするものか」

 ペトロは、策について語る。

「攻めざるを得ないようにしてやればいい」

 前髪で半分隠れた顔が不敵に笑む。それに、皆が見入った。

 屯田。それが、ペトロの案である。南の国境を侵した地域で屯田を行い、食糧を確保する。そうすることで、長期間の滞陣にも耐えることができる。さらに、東西に少し範囲を広げて軍を発し、砦などを奪ってしまえばよい。そうすれば、パトリアエ側はバシュトーがいきなり中央になだれ込んでくるつもりではなく、国境を侵したまま南に居座り、じわじわと版図を広げるつもりだと判断するだろう。

 そうすれば、時間をかければかけるほど、バシュトーは力を伸ばしてゆく。街や砦を手に入れるたび、兵力も増強されてゆく。パトリアエで知らぬ者はない黒い墜星の名を聞けば、その旗の下に参じる者は多いだろう。

「そうさせぬよう、ラーレは俺たちを攻めてくるだろう。敵は大きくなれば厄介だ。今が、俺たちが最も弱く、卵から孵ったばかりの状態であるということを知らせてやるんだ」

 そして、決戦に持ち込む。

「サムサラバードの地は、大軍での会戦に向くだろう。騎馬隊を縦横に展開するだけの広さがあり、なおかつ古代の遺跡なども残っていて、遮蔽物にもなる」

「では、結局、軍同士でのぶつかり合いをするわけだな。万が一ザハールが負ければ、どうなる?」

 サンラットが注意深い目をして問う。傍らで、シトが拳を握り締めている。

「いや、ザハールは、ラーレと直接戦うことはない」

「となると、俺か」

「いや、違う」

「では、誰が当たるのだ」

「俺がバシュトーに入ったときに連れていた者を、覚えているか」

「ああ。ジェリーゾだったな。彼らが、どうした」

 ザハールが、あの混血の若者の容貌を思い出すように言った。まさか、彼らが軍を率いてラーレに当たるとでも言うのか、と問いたげでもある。

「そういえば、彼らの姿を見ないな。お前のそばにいるものと思っていたが」

「いや、彼らは、ここにはいない」

 彼ら三十人ほどの若者は今、軍の調練とは全く別のことをしている。そのことについてペトロは解説した。

「雨の軍を、覚えているか」

「ああ」

「それを、今、パトリアエが飼っている」

「サヴェフが?」

「おそらく。そして、今、それを率いているのは――」

 ペトロが、少し言葉を濁した。サンラットに促されて、意を決したように口を再び開く。

「――イリヤだ」

「なんだって?」

 ザハールもサンラットも、イリヤが生きているということすら知らない。それが雨の軍を束ねているというのは、あまりにも飛躍が過ぎるというものである。

「俺は、グロードゥカを脱したとき、雨の軍とおぼしき者に追われ、襲われた。そこに、居合わせたイリヤが現れ、救った。思えば、おかしなことではないか」

 確かに、そうである。サヴェフがペトロにすらその存在を秘匿し続けていた雨の軍が現れたのは、それだけペトロを逃がすわけにはいかなかったという風に捉えられる。しかし、ペトロが息も絶え絶えになりながら駆けていたあの原野に、どうしてイリヤが居合わせたのか。

 それは、夜の空の星の一つを目を閉じて掴むほどに不確かなことである。そのような偶然が、あるはずがない。

「もとから俺の所在を掴み、追っていたんだ。雨の軍を率いて。そして、俺を信用させるために、自ら部下を手にかけた」

「一体、なんのために」

 ペトロは、サヴェフの顔を思い浮かべた。あの、眠ったような目。それが、全てを見通している。ペトロならどういう風に考え、どういう行動をするか。サヴェフがどう予想するかを、想像した。

「――警告だろう」

「警告?」

「サヴェフなら、イリヤと雨の軍の繋がりに俺が気付かぬと思うはずがない。その上で、あえて俺とイリヤとを会わせたんだ」

 グロードゥカを脱して南に向かうペトロが、どの道を辿るのか。そのことまでも見通されていて、いつでも最高の刺客がすぐそばにやって来ることができる。お前がこれからゆく道は、そういう道だ。そう言われているような気がした。

「イリヤが、雨の軍など」

 にわかには信じられぬことではある。だが、そう考えると、全て合点がいく。

「だから、俺は考えた」

 ペトロは、話を戻した。

「あちらがそのつもりなら、こちらも相応のことをすると」

 ジェリーゾたちは、今、イリヤと同じく、闇に潜んで何かを為遂げるような軍になろうとしている。無論、雨の軍ほどの専門性は期待できない。それを教える者もなければ、雨の軍のような働きができるようになるには相当な時間が必要になる。

「だが、たとえば人足に化けてあちらの陣に潜入し、ラーレのそばまで近付くことくらいなら、できるはずだ」

 暗殺。それを、ペトロは狙っている。

 大軍同士を向かい合わせ、そのことにラーレの注視点を向けさせる。

 ラーレ一人が死ねば、戦いはある意味終わるのだ。馬鹿馬鹿しいような策であるようにも思えるが、効果的だとも言える。

「俺は、ジェリーゾに、お前が俺の剣になることはない、などと調子のいいことを言った。しかし、その言葉を違えてでも、為さねばならぬことがある。今のところジェリーゾは間諜となるため様々な訓練をしているが、あとになって俺を責めるかもしれんな」

 それでも、やるのだ。己がどう思われようと、それは些細なことだ。ペトロは、これまでの彼では言わぬようなことを言った。

 その思考の中には、イリヤと再会し、また別れるときに彼が言った言葉が去来しているのかもしれない。

 ――何にも染まりたくない。国があるべき姿を得ることができるのか否かは、どこかで眺めていることにする。の生がたしかにそこにあったということを示すことが、国を求めることだったからな。

 何にも染まらぬイリヤは、黒。サヴェフのためでもなく自分自身のためでもなく、ただ強く想い、そして失った者のために。そのために、彼は未だに闇に棲んでいるのだろう。

 なんとなく、あの言葉は、嘘のないイリヤの本心であったように思う。遂げなければ、ベアトリーシャは何のために生き、何のために死んだのか分からぬようになってしまう。それを証すためならば、イリヤは何にでもなるだろう。

 サヴェフは、それをペトロに見せたかったのかもしれない。

 それを見せてどうするつもりなのかは、ペトロにはまだ言葉にするほどには分からぬ。

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