流れる星、苛立つ男
急いだ。理由もなく。気配を立てることは無いが、考えられぬほどの速さで草を踏んだ。
サムサラバードの脇を通り、街道でも何でもない原野を、イリヤは急いだ。
嫌な予感がしたのだ。なにか、とても恐ろしいものが、迫っているような。危険を察知することには、長けている。臆病なのだ。
しかし、このような漠然とした不安に駆られ、自らの持ち場を放り出したことなどない。だが、それをしなければならないほどに、彼は焦っていた。
何が彼をそうさせたのか、何が彼を導いたのかは、分からぬ。
だが、彼は、とにかく、自分の意思ではない何かによって、その足を激しく回転させている。
ベアトリーシャの顔を、一目見れば。それで、安心できる。彼女が、彼の居場所を示す座標なのだ。たとえば、夜、旅人が星で自らの位置を知るように、彼は彼女を求めていた。彼女に見下ろされていることで、彼は安心することが出来た。
星とは、ときに流れる。それを見上げる度、苛立った。星とは、変わらずそこにあるべきものなのに、何故流れたり墜ちたりするのだ、と腹立たしくなった。
しかし、それも、どうでもよいことであった。ラハウェリに戻ればベアトリーシャがいて、棘だらけの言葉で彼を刺し、自らの言葉で彼を傷付けることを、喜んでくれたのだ。
互いに罵り合い、そして求め合った。そうして、二人は、やっと人になれた。何かを奪われたり、はじめから得る機会を与えられなかったり、苛まれたり、苦しんだり。その中で、求めることをやめてしまっていた。求めても、叶うことはないと、決め込んでいた。だから、自分にしか出来ぬことをする、と思うことでしか、求めることが出来なかった。彼らは、そういう種類の生き物であった。
長い国家の歴史が生んだ歪み。それが、彼ら。そして、それは彼らのみならず、今この国で生きている全ての人が、そうであった。
そのことすら、今原野を駆けるイリヤには、どうでもよいことであった。
昼下がりに王都を発し、駆け続け、陽が暮れ、空に星が上がり、そしてまたそれが墜ち、朝になり、なお駆けていた。また、当たり前のような顔をして陽はうるさい視線を地に投げかけ、それを少しずつ傾け、世界を燃やし、沈んだ。
その夜の中、彼は、ふと足を止めた。
虫の声。
夜に鳴く、鳥。
風に、草花が揺れる音。
眠る獣と、夜に起き出す獣。
世界が、闇に息づいている。
そのどれとも相容れぬイリヤは、夜に自らを馴染ませようと纏った黒を、闇の中にぽっかりと浮かび上がらせていた。
同じように、闇の中に溶け込んで、そして異質な存在として、浮かび上がっているものがあった。それは、どうやっても夜には隠せぬ、金色の髪。
「――なぜ、ここにいる」
訊かでものことを、訊いた。答えはない。
「なぜ、ここに、いる」
もう一度、問うた。
闇の中に息づく気配が、弱い。
「怪我を、しているのか」
ゆっくりと、剣の柄に手をかけ、距離を詰めた。
「――イリヤか」
弱く、答えが返ってきた。
黒よりも黒い闇に、ようやく、金髪の男の全身が現れた。それを、イリヤはよく知っていた。ルゥジョー。服は黒く焦げ、どうやら、全身に火傷を負っているらしい。
「どこで、その火傷を負った」
剣を抜いた。
「答えろ。どこで、その火傷を負った」
ひどい火傷である。それでも、ルゥジョーは生き、王都の方へ向かって、夜を越えてゆこうとしていた。その意味を、イリヤは察しているらしい。
「――お前の雌犬は、とんでもない女だな」
「貴様」
イリヤが繰り出した剣を、ルゥジョーが弾く。これだけの火傷を負いながら、なお動けるらしい。もしかすると、痛みや苦痛を、感じていないのか。そう思えるほどであった。
二本の剣が、激しく交錯する。その度、一瞬、闇が払われた。
ルゥジョーが、身を翻し、距離を取った。
飛刀が来る。イリヤもまた、自らの身体の位置を変え、それを避けた。
対峙。互いに、静止。
やはり、風は西から。それがひとつ吹く度、闇の中の気配は、なりを潜めた。
ルゥジョーが、呼吸をしているのが分かった。やはり、深く傷付いているらしい。それでもなお研ぎ澄まされた暗い武に、イリヤは踏み込めずにいる。
「お前を、殺す。そのために、あの女を狙っていた。お前を、闇から引きずり出すために。お前という存在を、明らかなものにするために」
ルゥジョーが、言葉を用いた。イリヤも、それに応えた。
「どうでもいい。お前がベアトリーシャを殺したのだとすれば、俺は、俺が誰であろうと、今ここでお前を殺す」
「闇は、斬れぬ」
ルゥジョーが、別のことを言った。
「お前は、まったくの、闇。お前を人にしてはじめて、俺はお前を斬れる。あの女の工兵隊の働きが鈍るというのは、その副産物に過ぎない」
握ったままの剣が、少し下がっている。イリヤも応じ、腰を沈めた。
「壊す。お前たちを、根から。俺には、もはや何もない。目的もない。目指すべきものもない。それは、全て、お前たちによって、奪われたのだ」
アナスターシャのことを言っているのかもしれない。最後に別れを告げたとき、アナスターシャは、はっきりと拒絶を示した。
それはそれで、よかった。あの宣戦布告とも取れる言葉を、疑うことはなかった。
どのみち、己のものにはならぬのだ。はじめから、分かっていた。
どれだけ手を伸ばそうとも、求めようとも。
それならば、もう、あとは、壊してしまうしかないのだ。ただの人間にしてしまえば、あるいは。そういう思いも無いではない。
しかし、イリヤには、ルゥジョーの考えるようなことは分からない。
イリヤもまた、同じである。
彼は、国家によって、得ようとしても得ることが許されぬ生を強いられてきた。その中で見出したたった一つのものを、ルゥジョーは奪ったのである。
二つの闇が、闇の中で怒りを燃やしている。ひとつは、怒る理由を失った怒り。もうひとつは、この夜にあらたに生まれた怒り。
「あの女は、大したものであった」
ルゥジョーが、笑った。ちょっと妙な笑い方になったのは、火で唇が焼けているからなのかもしれない。
「俺に、殺させなかった。あろうことか、俺と刺し違えようとした。ジーンという男といい、お前たちとは、皆、そうなのか」
「知らぬ」
イリヤの静かな声。
それが風に溶け、流れた。
「知らぬ。少なくとも、ベアトリーシャは、お前ごときに殺されるような女ではない」
「心底、惚れているのだな」
答えない。代わりに、深く沈めた腰を、
応じて振り上げられる、剣。それを
剣を握ったままのルゥジョーの右手が、闇に飛んだ。
飛刀を握ろうと、残った左手を懐に差し入れようとする。
それよりも速く、通り過ぎたイリヤの身体が旋回し、振り向きざま、ルゥジョーの脇腹を突き刺した。
深く。
深く、それはルゥジョーの中に入り込んだ。
彼が求めた、たった一つのもの。それが与えた、拒絶。
アナスターシャを、自分のものにすることすら出来ず、彼は、ただ彼女の前を去った。もう二度と会うことはないと思いながら、なお、彼の最も深いところに、それがあった。
それしかなかった。
その、ルゥジョーにとってのたったひとつのものに、イリヤの剣が届こうとしている。
届く寸前で、引き抜かれた。
ルゥジョーは、まだそこに至ることを許されぬらしい。
「お前が何故死ぬか、分かるか」
低く沈んだ影が、声を発した。
幾つ数えてゆけば、彼の声は闇になりきるのだろう。
左逆手に握った刃が、翻る。
順手に握り返し、星のあるところから、それが見下ろす方へと、また光が閃いた。
振り切り、その勢いのまま、右手に刃を移して。真横に薙ぎ、身体を翻して、背を向けて。
「――お前が死ぬ
その言葉と交差するように、真後ろに突き出した刃が、ルゥジョーのたったひとつのものに、届いた。
そのために穿った穴から溢れ出るものを、イリヤはその背に受けている。だが、彼がそれに染まることはない。
彼は、黒。その眼は、虚ろ。その影は、後ろへ。
星が、影を作っているのだ。
そこから眼を上げ、ルゥジョーの胸を貫いた刃を、引き抜いた。
残心。
イリヤのすぐ後ろで、ルゥジョーが、草の上に崩れた。イリヤがそれを見ることは無い。
星も、闇も、そこに息づくあらゆる気配も、霞み、滲んでいたからだ。
そのままイリヤは草に両膝をつき、握った剣を、自らの首筋にあてがった。
一息に、引く。それで、全てを終えられる。
もう、求めるものはない。永遠に届かぬところに、それはあるからだ。
だから、彼が生を繋ぐ意味は、もうこの世にはない。
柄を握る手に、力が込められた。
その彼の虚ろな視界に、星がひとつ流れ、墜ちた。
それを見た彼は、自らの瞳からも星の滴を墜とした。
やはり、星が流れるのを見ると、苛立った。
だから、彼は自らの首筋から刃を外し、腰の鞘に納めた。
そのまま、どうするでもなく、しばらく、星を見ていた。
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