王家の軍、南へ
ロッシはロッシで、間諜を使っている。こういう組織というのは、この地域のいわば風土のようなものであるらしい。その間諜が、報せをもたらした。
「馬鹿な」
はじめ、ロッシはそれを信じなかった。
「南、だと」
南で国が興ったのは、無論知っているし、その動向に注視してもいる。ウラガーンの助力によって興ったその国が、どのような動きをするのか、大体の予想はついていた。しかし、未だそこには昔と変わらず家畜を飼う騎馬民族が暮らすのみで、ロッシにしてみれば、それは国でも何でもなかった。
もっと力を付け、国としての形を成してくれば、分からぬ。だが、今ではないとロッシは踏んでいたのだ。
そのバシュトーが、突如として兵を発し、ナシーヤに向け進軍しているという。その勢いは速く、この報せをロッシが聞いている頃には既に国境を跨いでいることであろう。
何があったのか、南に入っていた間諜も分からぬと言う。
ある日を境に、ぽつぽつと各地の部族の主だった者が、サラマンダルの地に集うようになった。それはごく短期間で八百にものぼり、突然思いついたかのようにして発起し、進軍を開始したと言うのである。
「ウラガーンめ、何をした」
この場合、ロッシはウラガーンに足元を掬われたことになる。彼はウラガーンを利用し、ニコから王家の軍を奪い、さらに丞相の座からも降ろすことに成功した。
そして、王の死。あとは、自分がその座に就けばよい。
どうせ、王の死も、ウラガーンの仕業に決まっている。このナシーヤにとっての最大の敵が、ロッシの最大の理解者であるはずであったのだ。
ようやく。そういう思いがあった。
ウラガーンは、この国を乱しきってくれた。おかげで、この国の力は、誰も知らぬ間に全てロッシに集まった。
あとは自ら王となり、その最大の功臣とも言うべきウラガーンを滅ぼしてしまえば、ロッシの事業はようやく一息付ける。
「何故、今なのだ――」
ロッシの小狡い頭脳は、激しく旋回した。
何故、今なのか。
ウラガーンとロッシとは、最後に戦うことになっているはずではなかったのか。
まだ、事業は途中である。
それなのに、なぜ、今なのか。
考えても考えても、分からない。
その狼狽が滲んだロッシに向けて、しかめっ面を隠そうともせず、王家の軍の指揮権を委任している将が口を開いた。
「
「ザンチノ。今の話、聞いていたな」
「無論。南のバシュトーを、討ちましょう」
「いや、待て。何か、狙いがあるはずだ」
ニコのかつての側近、ザンチノである。
もし、ニコが王都に戻ってくれば、この男はその日のうちにロッシを斬り、ニコを無理やりにでも宰相の位置に就けたであろう。
軍の指揮が巧みで、兵にも慕われている。だからロッシは自分を総帥としておきながら、この古老に王家の軍の指揮権を委任していた。だが、明らかにザンチノはロッシを嫌っており、心はかつての主君ニコのもとにあるという風であるから、ロッシは彼とあまり関わることはない。
「何を待つのです。国が、他国に蝕まれようとしているのですぞ。そして、その背後には、ウラガーンがいる。奴らのことです。どのような企みをしているか、分かったものではありません」
「だからこそ、だ。ザンチノ」
ロッシは、自分よりも少し年上のこの古老の機嫌を取るようにして言った。もう五十をとっくに越えており、髪はますます白く、顔の皺も深くなっているが、依然としてその身体は引き締まった筋肉で覆われており、文官あがりのロッシなどは正面に立つだけで水に沈んだ樹木のように枯れてしまいそうであった。
「兵は、拙速を尊ぶと東では申します。ここは、まだバシュトーが国内に手をつけ始めたばかりのところで、討つべきです。領内深くへの侵攻を許せば許すほど、ウラガーンとの連携をも許すことになりますぞ」
確かに、ザンチノの言う通りである。
いかにバシュトーが兵を発したと言っても、その数は、僅かに千。
王家の軍を発せずとも、国境の守備軍でも十分な数である。そしてバシュトーの者はただひたむきに馬で直進してくるだけの戦いぶりで、軍略というものを知らぬ。
そのような脆弱な者が国境を跨いでくるというのは、彼らがそれをするだけの裏打ちを得ているということになる。
それは、ウラガーン。
だから、ザンチノの言うことは正しい。ウラガーンがそれに呼応し、バシュトーの戦う戦場に向かうようなことをすれば、国境守備軍は挟撃を受ける形となり、ウラガーンは、バシュトーから中央までの広大な地域に影響力を持つことになる。
「それが、狙いか」
とロッシは呟いた。ウラガーンにすれば、見え透いた策である。
だから、ロッシは、その裏を掻こうとした。
これより七年も前、ヴィールヒとサヴェフに王殺しの疑いをかけ、彼らが国に対して刃を向けるきっかけを作ったロッシは、ウラガーンの当事者自身を除いたこのナシーヤの中で、最もウラガーンのことを理解していた。
多分に比喩的な意味を含むが、ロッシは、ウラガーンの創始者なのだ。
自ら生み出した龍を、自らの掌で転がす。それは容易いことではないが、それくらいに大きな力を持っているからこそ、利用する価値があるのだ。
「よし、ザンチノ。南へ、兵を発する。いつ進発できる」
ザンチノが、あからさまに嘲笑を浮かべた。
「宰相は、王家の軍のことを、ご存知ないらしい」
立ち上がり、剣を取った。
「朝に命が降れば昼、昼に命が下れば夕。王家の軍は、国家の危機から人を守るため、いつでも進発できまする」
ウラガーンが一度中央で暴れたとき、北での戦いの消耗を整えるためと言って兵を発しなかったくせに、よく言う。とロッシは思った。あれは、万に一つでも王家の軍に傷が付くようなことがあってはならぬという慎重さであったのであろう。
王家の軍とは、常勝無敗でなければならぬのだ。
だからこそ、ロッシはこのとき、僅か千の敵に対し、王家の軍を用いることを決断したのだ。王家の軍が戦場に到着したその瞬間に、敵を撃滅する。そうすれば、ウラガーンがどのような企みを抱えていたとしても、どうすることも出来まい。
王家の軍は明日の朝に進発するだろう。
ウラガーンは、どこまでのことを考えているのだろうか。
王家の軍が出てくることを、予見しているのだろうか。
筆者も、頭が痛くなってきた。こうも読み合いが大きくなると、史記をめくる指も重くなり、それにつられるようにして筆も重くなってくる。
筆者自身とこれを追って下さる読者諸氏のために、少しだけ整理をしておきたい。
ウラガーンは、王家の軍と戦いたいのか、どうか。これまで、巧みにそれとの衝突を避けるようにしてきた。だが、このナシーヤ国内最大の武力をどうにかしない限り、彼らの悲願は果たすことは出来ぬ。
いかに身体が大きく、喧嘩の強い者がいたとしても、その者が風邪に
そのために、ニコを追いやり、ロッシに力を握らせた。ロッシが率いる王家の軍ならば、勝てる。そう踏んでいるのだろうか。
だが、そうなれば、王を殺し、ニコの帰還を許したことの説明が付かぬ。
そして、ロッシは、狡猾であり、策略家でもある。
ザンチノが進発の命令を王家の軍に与えるために退室したあと、彼は自室に一人になった。
そこで、掌を一つ打った。
「――はっ」
誰もいなかったはずの自室に、人の声と気配が生じた。
「ウラガーンは、人の裏を掻くのが、好きらしいな」
「はっ」
「私も、好きなのだよ――」
ロッシは、姿の見えぬ気配に向かって、不気味すぎるほどに相好を崩した。
「そろそろかもしれんな。あの龍に手が付けられぬようになる前に、手を打つ」
「では、かねてからの――」
その気配の者は、ロッシが今から何を命じようとしているのか、察しが付いているらしい。
「やれ」
ロッシは、ただそう命じた。それきり、その気配は消えた。
考えれば考えるほど、分からぬ。なにせ、ニコやロッシですら、分からぬのだ。
中央を、ウラガーンはどうするつもりなのであろうか。ユジノヤルスクの秩序を破壊し、民に自我の芽生えを与えた。それは一息にユジノヤルスクを飲み込んでしまおうと兵を発したグロードゥカ軍すらも止めている。はじめ、破竹の勢いで進軍を続けていたグロードゥカ軍も、軍事拠点ではなく街を攻めるようになってから、いたずらに兵と国力を消耗している。
中央がそのような状態である限り、ウラガーンは自由に動ける。
そして、北。今、ルスランやラーレが入っている。それも、バシュトーのように、南に攻め入らせるつもりなのであろう。
やはり、要素が、この国のあちこちに、ばらばらに散らばりすぎている。それを客観視することなくこの乱れた情勢を知ることは出来ぬが、そうしてしまうと、個人の動きが見えづらくなる。
雨の滴の一つを見れば、それは滴であり、雨を見ることは出来ぬ。雨を見れば、その滴の一つを見ることは出来ぬ、と史記の原典には記されているが、まさしく、その通りである。
それらが、どう関わりあい、どのような作用と反作用をもたらすのか。分からぬものを、筆者の足りぬ頭で考えても、どうにもなるまい。
史記の頁をめくることでしか、この先に何が起きるのかを知る術はないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます