火の竜巻
ルスランは、宿の寝床の中、眠れずにいた。
宿と言っても、当時のものは石の冷たい床に藁を敷いただけの粗末なものである。それでも、街の外で待機している兵らは寒さに震えながら火を囲んで耐えていることを思えば、申し訳ない気持ちであった。
ライリュのことが、気になった。あれは、何者なのであろうか。
ザハールの言う通り、雨の軍なのだろうか。ルスランは、やはり、そうは思えなかった。彼は、ライリュの薄い色の瞳の向こうにある、憂いと悲しみを見た気がしていた。
だから、彼が姉を探して旅をしているという話を信じた。よほど、大切な姉だったのだろう。
大切と思う人を想い、自らの身体を使い、あちこち歩き回る。世は乱れ、戦いや賊の出没などが頻発している。それは、とても危険なことであった。それでも、ライリュは姉を探したい一心で、このようなところまでやってきた。そう思うと、哀れでもあった。
「
ルスランが寝付けずにいる気配を察したのか、ライラが腕を回してきた。
「どうした。寝付けぬのか」
「寝付けぬのは、あなた」
同じ部屋で眠るラーレを起こさぬよう、ライラはくすくすと笑った。
「どうしたの」
ライラは、優しい夫が、この国の惨状を見て肩を落としているのではないかと思ったらしい。
「国とは、不思議なものね。あなた達が説き、兄様が作った南の国は、とても優しく、暖かいものだった。だけど、この北の国は、とても冷たく、厳しい」
寒さがそうさせるのか。いや、それだけではあるまい。
「人々を、救ってやらねばならんな」
ルスランも、低く答えた。この国の荒れ方は、よくも短期間でここまで、と呆れるほどにひどかった。弾圧に反発する声を上げたくても、それが出来るだけの力はない。そういう状態なのだろう。ラーレを連れてゆけという話になったのは、精霊の軍の将として有名なラーレが、ウラガーンとして帰国することで、人をその周りに集めようという魂胆なのだろう。
「優しい国を。あなたなら、それが出来る」
ライラは、そのようなことを考えるだけの材料を持たぬ。ただ自らが好いた優しい夫の成功を信じているらしい。
「厳しい戦いになるかもしれん。国も、こんな状態だ。中央に戻るか、ライラ?」
ルスランは、身重の妻を気遣い、そう言った。
「嫌」
ライラは、ルスランの身体に回した腕に、力を込めた。
「しかし、腹の子が」
そういえば、当たり前のようにして、ライラは北へ付き従ってきた。しかし、北では戦いをするつもりである。軍陣に妻を連れてゆくなど、聞いたことがない。
サヴェフは、何故、そうしろと言ったのだろうか、と考えた。答えは、サヴェフ自身がルスランに述べたままのことであろう。
この地に、ウラガーンの影響を大きく受けた、国を作る。
だから、ルスランは、妻を連れて旅立つように言われたのだ。当分、戻ることは出来ぬのだろう。
それでも、身重のライラをこのまま従わせてもよいのかという思いはつきまとう。
その思案を、枕元に寝かせた二本の剣を掴み、弾かれたように飛び起きたラーレが破った。
「何だ」
ルスランも咄嗟にライラを庇い、身構えた。ラーレは答えず、剣を握ったまま気配を聞いている。
トゥルケンの十一月の夜に、鳴く鳥はない。だが、この宿の外には、確かに気配があった。
襲撃、と思った。そのとき、扉がゆっくりと開いた。
吹き込んでくる寒風と共に踊り込んでくる、人影。音も、気配もない。彼らは、風そのもののようだった。その数、三人。この狭い宿の部屋の中に、影が満ちた。
まっしぐらに、ルスランとラーレに向かってくる。ラーレが一人を即座に斬った。
ルスランは、取った剣を抜くことなく、ライラに覆い被さった。
そのため、影に応じるのが遅れた。
「ライラ」
ルスランの太い腕が、ライラを抱き締めている。
ラーレがルスランを仕留めようとする二つの影を、剣を交差させるようにして刺し、屠った。
「ライラ、大丈夫か」
ラーレが入れた火により、部屋の中は明るくなった。ライラは恐怖に震えてはいるが、怪我などはしていないようであった。
「——ルスラン殿」
ラーレが、絶句している。
ルスランの背に、短い剣が突き立っていた。
「なに、これしきの傷」
ルスランは背の短剣に手を伸ばそうとし、そのままうつ伏せに倒れた。
「ルスラン殿!」
ラーレは、知らない。襲ってきたこの者らが、何者であるのか。
とにかく、驚き、泣き叫んでルスランの身体を揺らすライラに、動かしてはならぬと言い聞かせて引き剥がし、手当てを施さなければならなかった。
ルスランは、意識を失ってはいない。分厚い筋肉で、短剣は止まっているらしい。これなら致命傷にならぬだろうと安堵し、一息にそれを引き抜いた。
ルスランが上げた呻き声で、ライラは更に動揺したらしく、ラーレはその面倒をも見なければならなかった。
「騒ぐな」
ライラにしてみれば、我が夫の危機に平然としているラーレがどのような神経をしているのか分からぬらしく、彼女の産まれた南の地の陽のように鋭い眼でラーレを睨み付けている。
ラーレは、関心がないらしい。黙って、傷の手当てを続けている。
「痛みます。堪えて下さい」
そうルスランに断ると、腰の袋から炭の粉を取り出し、傷穴に塗った。
それしきで痛みを訴えるルスランではないが、ラーレが部屋を照らす火を木切れに移し、その炭に点けた。炭は一瞬で燃え、傷口を焼いた。
これには、さすがのルスランも声を上げた。乱暴ではあるが、血も止まるし、膿むこともない。非常の応急措置といった具合である。
そのルスランすら放置して、ラーレは自らが屠った者の骸を改めた。持ち物などから、何者かであるか分からぬかと思ったのだ。
一人の死骸を、仰向けにした。
一瞬、ラーレの顔が曇った。
血の臭いに僅かに混じる、この臭いは。
——油。
死骸から、流れ出している。油の入った袋か何かを身に着けていて、倒れるか斬られるかしたら、それが流れ出すようになっていたのだろう。いや、もしかすると、この者らは、はじめから腹一杯に油を飲んでいて、ラーレが斬ったことで流れ出たものかもしれぬ。
はじめから、この三人は、このために放たれた者だったのだ。
窓に取り付けられた木の雨戸が、にわかに破られた。そこから、松明が投げ入れられる。
三人の死骸から流れ出る油に、火が。
森林資源の豊富な北の建物は木造であるが、宿などの大きな建物は石で作られることが多い。そして、寒さを避けるため、床だけ板敷きにする。
その床に、火は広がった。
ライラが、それから我が夫を庇おうと身を乗り出す。
その肩を、ルスランの大きな手が掴んだ。
「動いてはなりません」
制止するラーレに、にたりと笑いかけ、ルスランは壁に立てかけた己の
「うるせえ——」
傷は塞いだ。しかし、もし、傷が体の中にまで達していて、表面が焼け焦げて塞がれたまま中で破れれば、身体の中に血が溜まり、死ぬ。
だが、ルスランは、握ったヴァラシュカを構えることをやめない。
「
火の熱と煙が、室内で暴れている。
その中、我が夫の背に縋ろうとするライラを、ラーレが無理矢理地に伏せさせた。
その頭上を、竜巻が通った。火さえも巻き込んだそれは、凄まじい音と共に石壁を破った。
「さあ。ライラを」
ルスランはそうラーレに促し、打ち破った壁の向こうの戸外へと連れ出させた。
そして自らは、火の盛る室内に崩れ落ちた。
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