はじまりのこと

 ベアトリーシャは、考えた。ルスランが尋問していたときは、肉体で問うた。しかし、捕らえた男は、そういう方面での訓練も積んでいるらしく、なかなか口を割らない。このままでは、ルスランは、男を殺してしまう。それゆえ、ベアトリーシャが指名されたのだ。

 当人にしてみれば、迷惑というほかない気持ちであったろう。男が何者で、何のためにジーンを襲ったのかを吐かせろと言われても、どうすればよいのか分からない。


 まず、男に会ってみた。男は上半身裸の状態で天井から吊るされており、顔を腫らし、身体中に痣を作っていた。

「ほう、女とはな。それも、上玉だ」

 まだ、減らず口がきけるらしい。

「この間の男は、どうした」

「彼も、あなたに関わっているほど、暇じゃない」

「だから、女のお前が出てきた。そういうことか」

「ええ、そういうことよ」

 男が閉じ込められている部屋は窓もなく、男の糞尿の臭いが充満していて、そのためにベアトリーシャは床に座る気にはなれなかった。

「あなたが何者であるのか、わたし達は知りたいの」

「それを言うくらいなら、死ぬ」

「それほど、重要な役目だと思って、働いているのね」

 男は、黙った。

「ねえ、あなた」

 ベアトリーシャの感情の宿らぬ声が、男の耳で遊んだ。

「わたしを見て、女だと思う?」

「どこからどう見ても、女だろう」

「やはり、女は、男のようにはなれぬものなのかしら」

 なんだか、妙な具合になっている。尋問をするはずが、彼女が行っているのは、質問である。

「なにやら、不満があるらしいな」

「そうでもないわ」

「なあ。お前達は、一体何者なんだ」

「わたし達?」

 ベアトリーシャは、きょとんとした。こんどは、逆に男が質問をしているではないか。

「わたし達は、わたし達」

「妙な連中だ。お前のような女が、こんな臭いところにやってきて、口を割らぬために殺されてしまう運命さだめの男の相手をしている」

「あなた、口が達者なのね」

「そういうお前は、口が下手だ」

 男の言うとおりであった。これでは、どうやっても男に口を割らせることなど出来るはずがない。

「いや、口を使うのは、上手そうだ」

 卑猥な意味で、男は言った。ベアトリーシャの身体の線を舐めるように眺め、少し笑った。

「殺してやろうか、貴様」

 ベアトリーシャの眼の色が、変わった。

「なにを怒る。お前は、女。俺は、男。この綱にさえ繋がれていなければ、今頃お前は俺の股の上だ」

 男が、悲鳴を上げた。

 すすと詰め寄ったベアトリーシャが、男の手を取り、その指を折ったのだ。

「痛い、痛いな。これは、お前が受けた痛みを、俺に肩代わりさせようとしているのか」

 男は、ベアトリーシャを嘲笑った。ルスランから受け続けた激しい苦痛により、少しおかしくなりかけているのかもしれない。

「こんな世だ。さぞ、辛い生であったのだろう」

「黙れ」

 また、別の指を折った。男は叫びを上げ、なお笑った。

「分かるぞ。お前が、なぜここに居るのか。お前が、どうやってここまでやって来たのか」

 三本目。

「やれ、もっとだ。俺は、決して口を割らぬ。女のお前は、男の俺への恨みのために、俺を殺し、目的は達することが出来ぬまま終わるのだ」

「黙れ」

 四本目。

「いいぞ。お前が満ち、果てるまで、付き合ってやる。腰を振る代わりに、俺の指を全て折れ。それでも、お前は満ちることなく、更なる痛みを求め続けるのだ」

「黙れ」

 今度は、手ごと捉え、押し込むようにして手首を折った。男の、いやな悲鳴が石壁を長く塗らした。

「どうだ。今頃、お前のももと腿の間は、塗れていることであろうよ」

 折った手首を、更に捻った。男は激痛に耐えかねたのか、大人しくなった。

「また、来る」

 ベアトリーシャは肩で息をしながら、その狭く、薄暗く、臭い部屋を出た。思えば、自らの生も、このようなものであった、と思いながら。



「鉄の具合は、どう?」

 アナスターシャは、ザハールと話すのを楽しみにしている。

「ああ。北への道も、落ち着いている。北の国の軍が、よく守ってくれているらしい」

「あの、ラーレという戦士のことですね」

「お前は、その者に会ったのであったな」

「ええ。とても、悲しい眼をしていた。ラーレを見てから、わたしの夢には、彼女も出てくるようになったわ」

「雨の中で人が舞うという、あの夢か」

 ザハールは、アナスターシャがそのような夢を見ることを知っている。鳴く虫の音に髪を染めながら、アナスターシャは頷いた。

「思えば、俺達は皆、お前の夢の中で踊っているのかもしれぬな」

「なあに、それ」

 アナスターシャは、くすくすと笑った。

「丞相ニコも、まだその夢に出るか」

「いいえ」

 ザハールは、アナスターシャの方を見ようとはしない。

「夢には、見ない。だけど、いつも考えている」

「そうか」

 見ようとしないから、彼女がどのような表情をしながらそれを言うのか、分からぬままであった。

「いつまで、ウラガーンとして生きるつもりだ」

「それは、わたしが聞きたいわ」

「それもそうだ」

 こうしていると、つい忘れそうになり、ザハールはその度に狼狽する。自分はウラガーンでも最も練度の高い騎馬隊を率いる部隊長であり、アナスターシャは、兵がここに居るための拠り代なのだ。この問い自体が、意味のないものであった。

「辛い思いを、させている」

 少し悲しそうに笑い、話題を変えた。

「北といえば、そこで採れる赤い実のことを、知っているか」

「いいえ」

 アナスターシャの好奇心は、旺盛である。もう二十を過ぎているだろうが、長く閉ざされた環境にいたためか、いつまで経っても娘のようである。

「それは、とても小さな実なのだ。そして、赤い」

「赤いのは、さっき聞いたわ」

 ころころと愛らしく笑うと、ザハールはいつも目を背けてしまう。

「その実は、甘いの?」

「さあ」

「さあ?」

「食べたことがない」

「まあ」

 アナスターシャは、腹を抱えて笑った。

「あなた、ほんとうに、変なことを言うのね。食べたこともない実のことを、そんなにも誇らしげに言うなんて」

「済まん」

「あ、また謝った」

「済まん」

 どうにも、苦手である。好いた男のもとを離れたアナスターシャのために、何かしてやりたいとは思う。しかし、その相手がウラガーンにとっての最大の仮想敵である王家の軍の指導者である以上、彼女とその男をめあわせるわけにはゆかぬ。


 余談ではあるが、婚姻を意味する「娶わせる」という語は、無論、「目合う」から来ているとされる。古くは、婚姻に留まらず、男女特有の性的な繋がりのことを指したらしい。たとえば、わが国において太古の昔、男が女を「見る」と言えば、「姦通する」という意味をも含んだ。ザハールがアナスターシャから眼を背けてしまいがちになるのは、もしかすると、そういう意味もあるのかもしれない。

 この頃既に、アナスターシャにとってのザハールは、孤独であるはずのウラガーンの暮らしの中にある、ほんとうの理解者になっていた。ザハールにとっての彼女はと言えば、彼自身がはっきりとしないため、筆者にもよく分からぬ。だが、人は、既にこの二人が互いに「見合った」仲であると思っており、神武を持つと評されるザハールと、精霊の巫女とが仲睦まじそうに語り合っているところに割り込もうとする者は誰もいなくなっていた。


 神武といえば、ザハールの振るうのは、涙の剣。ウラガーンの涙が凝り固まって出来たとされる、付きの剣である。やはり、ここでも、龍と精霊は出会っていた。

 もし、神話の通りにものごとが進むとするならば、その対極に位置するものが互いを見合うとき、空は泣き、雨を降らせる。精霊と龍は激しく絡み合い、地を、川を作る。その意味では、これは、もしかすると、何事かが始まっていることを示すのかもしれぬ。

 そして、このはじまりは、今に始まったことではない。

 これよりももっと前、いつの時点からかは分からぬが、もう既に始まっていたのだ。

 史記には、そう書いてある。

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