妻とする

 話は変わる。

「わたしと、共に時を過ごすのを、楽しんでいるのですね」

 昨夜、精霊の巫女アナスターシャは、ニコにそう言った。ニコはいつもの浅い眠りから目覚めてもなお耳に残るその言葉の響きを確かめた。響きと言えば、アナスターシャの言葉は、不思議な音律を持っていた。それは聞く者の耳の中でころころと音を立て、巫女が言った以上の意味をもたらす。たとえば、種が芽を出し、土に根を張ってゆくように。

 昨夜ニコが聴いた言葉とて、別にアナスターシャに他意があって発せられたものではない。しかし、ニコは、その言葉に甘い香りを感じ、自らの眠っている間にかいた汗の臭いとそれが混じるのを楽しんでいる。そう、アナスターシャの言った、ニコがアナスターシャと時を共に過ごすのを楽しんでいることが、ほんとうになったのだ。

 アナスターシャのこういうところも、後代に精霊の眷属、もしくは聖女クディスとして知られるフィンによく似ている。もしかしたら、このごく私的な史記を編んだ者が、二人を意図的に重ねたのかもしれない。それはともかく、ニコは、自分がアナスターシャのことを、単なる宗教的権威である巫女以上の者として見ていることを認めざるを得なかった。

 その巫女の言葉を反芻はんすうするニコは、巫女が自らとニコとのこと以外のことについても述べていたことを思い出す。


 巫女は、しばしば、予言めいたことを言う。もっとも、予言をする女というのはこれと同じ時代、このナシーヤからソーリ海を越えた遥か北西の地の果ての国でそういう者がいるというのが知られており、ニコが聞いた話によるとその女は神の啓示を受けたという女で、百年近くも負け続きであった国を、僅かな間に勝利に導いたのだという。もしかすると、精霊の家(キリスト教で言うところの教会のこと。この場合は、その中枢機構のことを指す)は、その西の果ての国の聖女の話を聞き、そういう神秘性をアナスターシャに持たせたいのかもしれぬとニコは思っている。だから、アナスターシャが予言をするなどという話を信じていないのだ。ニコにとってのアナスターシャは、ただ髪の色の少し変わった、話好きの美しい娘であった。


 だが、気になるものは気になる。

「また、戦いになるのですね」

 と昨夜、アナスターシャは悲しい顔をした。

「戦いなど。いつでも、どこにでもあります」

 とニコは言った。

「ええ、そうね。だけど、この戦いは、少し違うの」

 どの戦いのことを言っているのか、ニコには分からない。

「違うというのは?」

「わからない」

 砕けた口調で、アナスターシャは困ったように笑った。

「なにが、どう違うのです」

 ニコは、性格なのか、曖昧な物言いが気になるようだった。詰め寄るような形になってしまっていることをすぐに察し、

「申し訳ありません」

 と床に膝をつき、胸の前で手を組む姿勢に戻った。

「ごめんなさい」

 アナスターシャ自身も、自らの感じるものについて、上手く表現出来ないらしい。

 予言は信じていなくても、やはり、気になる。たとえば、アナスターシャがしきりと雨が落ちる夢を見るというようなこと。大雨による災害のことかと思ったが、今のところどの地方からもそういう報せはない。アナスターシャがほんとうに未だ来らぬことを見るとして、では、その夢は、何を意味するというのか。

 そして、戦いのことを言う。どこにでもある戦いとは違う戦いとは、一体何なのか。ニコは、寝具の中、そのことを思い出し、アナスターシャのひとりの娘としての言葉と、精霊の巫女としての言葉の両方についての思考がもたらす酔いに暫しの間身を委ねていた。

 やがて覚醒と共にそれが抜けた頃、ニコは身支度を素早く終え、部屋を出た。早朝であるというのに、部屋の前では従者のようにして使っているルゥジョーという少年が、既に片膝をついた状態でニコを待っていた。

 ルゥジョーは無口ではあるが頭がよく、剣を教えても飲み込みが良い。ニコが生まれたときからずっと彼に従っているザンチノは、さすがに老人と言える歳が近づいているだけあって世間にも明るく、ときにニコを助け、ときにたしなめたりする副官のような存在であるが、ルゥジョーは、これから全てのことを吸収してゆくようなものであった。

 ニコの部屋の前で跪く彼は、朝の稽古を待っているのだ。彼が来て以来、ニコが欠かさず行っている習慣である。彼の差し出す棒を受け取り、庭へ。

 王都のニコの館の庭は、よく手入れをされている。そのために雇われ、館に住んでいる者がいるのだ。湿気の多い夏の朝であるから、濡れた葉の緑が陽を浴びて、生命そのものが輝くようである。

「今年は、雨が少ないな」

 何とはないことを言いながら、ニコは棒を構えた。ルゥジョーも、同じような構えをする。おや、とニコが思うほど、このところのルゥジョーは腕を上げている。大人へと向かいつつある身体には力がみなぎり、背も昨年拾ったときよりかなり伸びている。それが、汗を散らせ、必死にニコに打ち込んでくる。

 棒がぶつかる乾いた音が、朝の空気に活力を宿す。

「おお、精が出ますな」

 ザンチノである。

「ルゥジョー。少しは、強くなったか」

「まだまだです、ザンチノ様」

「どれ、儂も、ひとつ」

 ザンチノはニコから棒を受け取ると、低く構えた。

「ザンチノ。気を付けろ。そいつは、下手をすればじじいよりも強いかもしれんぞ」

「まだ、爺呼ばわりされるほどには老いてはおりませんわ」

 ザンチノは鼻息を荒くし、棒に気を込めた。その大きな体が更に膨らんでゆくように、ルゥジョーには見えていることであろう。

 喝、と棒が鳴り、ルゥジョーの手から離れたそれが宙を舞う。いや、ルゥジョーの手には、確かにまだ棒が握られている。目の前に落ちた棒と、自らの手元を不思議そうに見比べるルゥジョーの肩を、ニコは優しく叩いた。

「気を落とすな、ルゥジョー。この爺は、普通ではないのだ」

 ルゥジョーが、自らが握る棒が短くなっていることにやっと気付いて、眼を丸くした。棒は、刃物で斬られたように、斜めに切断されていた。


 そのあと、朝食。ニコはもう二十代の半ばであるから妻を娶らなければならないが、政務が忙しい、としてあちこちの名家から持ち込まれる縁談を全て断っていた。長身で金髪、地位も名声もある軍事の若き最高指揮者であるから、王都に生まれた者ならば、路地裏の板張りの家で暮らす娘ですら、彼の妻になりたいと願う。

 その話題になった。

「いい加減、も妻を取ることをがえんじて頂きませんと」

 ザンチノは、副官としてニコの傍にあるときはニコ様、そうでないときは若、とニコを呼ぶ。今はニコが当主であるから若と呼ぶのはおかしいが、なにせ生まれたときからニコの世話をしているのだから無理もない。

「今は、それどころではない」

 ニコは小麦を練り、薄く延ばして焼いた生地に野菜とソーリ海の魚の身を擦ったものを乗せて丸め、口に運んだ。中世以降のヨーロッパの王侯貴族とは違い、彼らは食事中でも音を立てるし、話もする。

「そうは仰っても、父君も既に亡く、家を継ぐ男子は若一人。既に、妹君も他家に出てしまった以上、若に何かあれば、この家は取って代わろうと企む者どもに取り潰されてしまいますぞ」

「分かっている、そううるさく言うな、ザンチノ」

 ニコが苦笑して、話題を終えようとする。そのやり取りを、ルゥジョーはじっと見ている。

「何か思うところがあれば、言っていいぞ」

 ニコの微笑みが自分に向けられたから、ルゥジョーはうつむいて口の中のものを噛んだ。

「家を取り潰しに来ると言えば、まず、でしょうな」

 ザンチノが忌々しげに言うのは、ロッシのことであろう。

「あの男なら、別に俺の身に何もなくとも、俺の足を掬おうとばかりしているではないか」

「ロッシ様は、ニコ様がお嫌いなのでしょうか」

 ルゥジョーの問いかけに、ニコは声を上げて笑った。

「嫌いも嫌い、大嫌いさ。あの腐肉を食らう卑しい獣は、俺がいつかあの男を殺し、国の実権を握ろうとするのではないかと、そういう妄想に取りつかれているのだ」

「若ほど、この国を思う者は他にはおりませんものを。ああいうのを、奸臣かんしんと言うのです」

「しかし、ザンチノ。あれは大きな力を持っている。王すら、あの男の後ろ盾で王となったから、あの男の顔色ばかり窺っているではないか」

「ですから、お家をまず安んぜられませ。そうでなくてはこのザンチノ、父君に申し訳が—―」

「案ずるな、ザンチノ」

 ニコは、食事をさっさと終え、立ち上がった。部屋の隅に控える召使いのような者が、黙って頭を下げた。

「俺には、心当たりがある。あの男が俺に手を付けられないようになる、の」

 ザンチノが、驚いた顔をした。要らぬ要らぬと言い続けて来たニコが、遂に嫁を取る話をしたのである。もしかしたら、どこぞに意中の女でもいるのではと思い、問うた。

「うん、まあ、そうだ」

 ニコは、ばつが悪そうに、美しい髪を揺らして頷いた。

「このザンチノ、そのようなこと、聞いておりませんぞ」

 食堂から出ていこうとするニコを、ザンチノが追う。ルゥジョーはまだ食べている最中であったが、仕方なく食事を終え、二人のあとに続いた。

「あの男が若に手が付けられなくなるような、嫁御の実家とは?」

 ザンチノは、しつこい。ニコは、苦笑しながら黙って廊下を歩き、自室に向かっている。

「若。お教え下さいませ。いったい、どこの誰と—―」

「—―きっと、精霊の家の者でございましょう、ザンチノ様」

 ルゥジョーであった。ニコとザンチノが、足を止める。

「そうなのですか、若?」

「うむ、そうとも言える」

 ニコは、どうしてもはぐらかしたいらしい。目を泳がせながら、鼻筋を掻いた。

「精霊の家。それは、長らくまつりごとから離れたまま、王家に等しい影響力を、民に与え続けています。たとえば、その象徴である精霊の巫女を妻とすれば、それは、これまでになかった新しい世が来ることを意味するのではないでしょうか」

 いつもは無口なはずのルゥジョーが、珍しく多弁になっている。

「精霊の巫女を、妻に—―」

 ザンチノは、開いた口が塞がらない。そのようなこと、このナシーヤ始まって以来、一度も前例のないことである。精霊の巫女は、それと選ばれたら、生涯誰とも通ずることなく、ただ巫女として死ぬまで人の祈りを受け、自らもまた祈り続けるのだ。その慣習を破り、ニコは精霊の巫女を妻にしようとしているというのか。

 確かに、言われてみれば、ニコは夜、精霊の家によく祈りを捧げに行っていることをザンチノは思い出した。危険だから、と共に行こうとしても、祈りを捧げるのに共は要らぬ、として固く拒絶されてきた。ニコは、もしかすると、その間に精霊の巫女と親しくなり、ついには妻にしようと思い定めたのかもしれぬ。

「精霊の巫女がニコ様の妻となれば、もはや、この国の誰も、ニコ様に手を付けられぬようになりますね」

 ルゥジョーの濃い茶色の瞳が、ニコをじっと見つめている。

「不服か、ルゥジョー。俺が、精霊の巫女を妻とすることが」

 その眼を真っ直ぐに見返して、ニコは少し笑った。

「いいえ、むしろ、嬉しくあります」

「そうであろうな、お前にとっては」

 ニコの含みのある笑顔に答えることはなく、ルゥジョーはまたもとの無口な少年に戻った。

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