戦いの鐘
グロードゥカ地方を治める領主が抱える軍は、三千。この時代にしては一般的である。
やはり、古い時代であればあるほど、国力というものは、その地の人の数と、それがもたらす生産に依るところが大きい。グロードゥカ地方が栄えているのが、東の大山脈を越えた先にあるという、地の果てまで砂しかない土地を更に抜けた先の大きな国と、西のソーリ海を渡って海峡を越えた先にある国とを結ぶ、貿易の道が領地内を貫いていることと、人に災厄をもたらす悪しき龍ウラガーンが、この世を作り
この時代、雨は降るには降るが、史記の終わりの時代ほどは多くはなかったという。だから彼らは星に名を付けることもしたし、雨が降らぬとき、それを望み、大精霊に祈りを捧げたりした。祈りを捧げることを専門とし、日々の糧としている者もいる。そういう者は決まって女で、諸地域を回り歩いては糧を得る代わりに祈りを捧げた。「札を買う」という
その踊り巫女は、金持ちの家だけでなく、軍陣にも現れる。これから戦いに赴くという血気盛んな男達が持つ金を対価に、大精霊の加護を与えるのだ。
ザハールには、その顔立ちの整ったことと腰に携えた只ならぬ剣を見た踊り巫女が集まってくる。それを、要らぬ、としていつも押し退けて進むのだ。
軍陣には、彼らのような傭兵稼業の者が多く集まっていて、その騒がしさは、何かの祭りのようだった。
これから戦いに赴くというのに、浮わついた顔をしている者も多い。そういう者は、大抵、死ぬ。死ななければ、それは、たまたま運が良かっただけのことだ。
「ねえ、戦士さん」
踊り巫女が、ザハールの粗末な衣服の袖を引く。
「遠慮しておく。どいてくれ」
巫女の機嫌を損ねないようにして微笑んでやり、彼は軍の監督のもとへと急ぐ。そのあとに、滑るようにして歩くぺトロと、踊り巫女を物欲しそうに眺めながら歩くイリヤが続く。
「ザハール」
年長けた男が、人混みの中から声をかけてきた。
「ルスラン殿」
ザハールは、その男を知っていた。見上げるほどの巨躯ではないが、鋼のように輝く筋肉に浮かぶ無数の古傷が、彼が歴戦の強者であることを物語っていた。ルスランはノーミル歴四四六年の生まれとあるから、このとき三十五歳。ザハールの倍以上も生きていることになる。
それだけの長い間、戦場において彼を守り、活路を開いてきたのは、大きな片刃が取り付けられた槍。日本の薙刀や、中国の偃月刀に似ていた。
槍というものは、人類において最も古い武器のうちの一つである。石器の誕生と同時にその武器は世界のあちこちで用いられ、現代の軍においても、
そのようにして現代においてもなお用いられるほどに、槍というのは完成されていて、無駄がない武器である。無駄がない分、人の工夫の余地がある。例えば日本において、古代の長柄武器といえば矛が主流で、槍はほとんど軍事には用いられなかったが、しかし大陸から幾度となく槍の輸入を繰り返すうち、戦国時代などには形状や用法など、日本独自の進化を遂げたものが生まれ、武器の主流となっている。
白蝋棍という柳に似たしなる柄のもの、金属製の柄のものの他、穂先を突くよりも重さで断ち切ることに特化させるべく、ルスランが用いているような片刃にしたものもあり、東西あらゆる地域において用いられ、進化や変化を続けている。このナシーヤの地は貿易を通じて東西の文物が行き交うから、自然と武器の発達も早いのだろう。
それは余談として。
「精霊の加護、という意味の名を持つお前が、踊り巫女を拒むのか」
そう言って、ルスランは伸ばしたままの髭の中に覗く大きな口から笑い声を上げた。
「獅子、という意味の名をもつ貴方は、既に何人もの巫女を抱いたのでしょうな」
言われたルスランは、得意気に、指を三本立てた。
「ゆうべ一晩で、だ」
と言い、ちょっとすり減って丸くなった犬歯を見せて笑った。
「それは、さぞかし、大きな加護を得られることでしょう」
「なんだ、ザハール。お前、ほんとうに大精霊の加護を、信じているのか」
「まさか。貴方こそ」
「俺が、そんなもの、当てにするわけがなかろう」
「では、何故、踊り巫女を?」
「知れたこと。俺の前に、開かれた女の身体あるからだ」
そう言って、大きな声で笑った。
鐘の音がした。傭兵は集まれ、という意味である。
二十人ほどの部隊長が並んでいて、そこへ傭兵は集まってゆく。この戦いにおいては部隊長一人につき十人まで陣を貸すことが許されているから、二百人の傭兵がここに残ることになる。
部隊長は目ぼしい者を選び、指名する。あぶれた者は、ただ帰るしかない。選ばれて初めて、金をもらえるのだ。
軍陣が構築されると同時にどこからともなく集まってくる踊り巫女どもの本当の仕事は、その後になる。
それはともかく、ザハールは、どこかの部隊長に選ばれる必要があった。
ザハールはその剣と、彼自身の類い希な戦いの才能と、若いながら戦陣で鍛え上げた技をもって、少しは名の知れた存在になっているから、わりあい指名され易い。
このときも、いかにも勇敢そうな若い部隊長から、貴殿はザハールではないか、と声をかけられた。
「いかにも」
「是非、私の陣に加わるがよい」
「承知
ザハールは、自らが選ばれんと声を張り上げる屈強な傭兵どもを見回して眼を白黒させているぺトロとイリヤを省み、
「私が加わるということは、この者らも加わるということになりまする」
と断りを入れた。ザハールは、彼らが死なぬよう、側に置いておくつもりであった。死なぬようにするなら、戦いに加えなければよいのだが、当人らの希望もあるし、それ以前に、何故か、彼らと共に行動していたいと思ったのだ。
「よかろう」
部隊長は、見るからに弱そうで、武器も持たぬ二人をちらりと壇上から見下ろし、許可した。彼の計算では、これで十人の枠の中の三人を使ったことになるが、その二人が死んだとしても、ザハール一人で並の傭兵二十人分くらいの働きは軽くこなすはずだから、むしろ得であった。
知る者からすれば、ザハールとはそういう男だった。
筆者が思うに、人の中で名が売れる者には、何かしらアイコンのようなものがあることが多い。例えばミュージシャンならば必ずと言っていいほどその用いる楽器がトレードマーク化されるし、有名なスパイ映画の主人公ならばワルサーの拳銃とアストンマーチンである。
彼にとってのそれは、腰に輝く、涙の剣。大精霊が作り
それを彼自身知ってはいたが、別に傲るでも喧伝するでもなく、ただ素直な気持ちで、
「このザハールが涙の剣を振るう限り、千の兵にも等しき戦果をお約束しましょう」
と言って、金で作った貨幣を五枚受け取り、笑うのだ。
金貨五枚と言えば、現代の価値において、どれくらいになるのであろうか。彼のような傭兵稼業においてそれは欠かせぬものであるが、金貨五枚なら、切り詰めて半年は食うに困らない程度の額である。無論、今ほど当時は様々なことに金が要るわけではないにせよ、一つしか無い命の対価としては少ない。
この時代の傭兵とは、正規軍ではない、いわば使い捨ての戦力という感が強かった。軍は王家直属の中央軍と、このような各管区の候が持つ地方軍とに分かれていた。中央軍、通称「王家の軍」は時の丞相ニコという若き天才の指揮もと、よく統率されていて精強であるが、地方軍はそうでもない。その管区、さらにそれを細かく分けた部隊にもよるが、商人などを相手にした不正も横行しているし、調練も行き届いておらず弱いことがある。だからこそ、腕自慢で聴こえた強者を臨時雇いのようにして一時的に抱え戦う必要があり、それにしか縋れぬザハールではあるが、傭兵稼業をする者のうちのほとんどがそうであるように、彼もまた、自らを惨めであると思ったことはなかった。
ルスランは、少し違うらしい。
彼は、以前、別の戦場でザハールと話したとき、何故傭兵になったのか、という話題になったとき、彼は戦いの中でこそ己の生を感じられるからであると答えたと史記には記されている。
ほんとうにそうなのか、何かの比喩なのかは、今の段階では分からない。ザハールは先に述べたように奪われた誇りと名声を取り戻すため戦っているが、ルスランは戦いそのものが目的であると言う。彼もまた人知を超えた次元の武を持っており、その片刃槍の光るところ、血の雨が降るとされるほどであった。そこここから、士官の声掛かりもあった。そのことごとくを断り、彼は、自分のためだけの戦いをしている、と言うのだ。
そのルスランは、別の部隊長から声がかかり、では戦場で、と言い残し、ザハールの前から去った。恐らく、出陣までの間、得た金を使い、更に踊り巫女を抱き続けるのだろう、とザハールは思った。
彼は若いから、女を抱くこと自体はやぶさかではないとは思うが、戦いを前にして、とてもそのような気にはなれぬ。身体が疲れてもいけないし、何より、女の柔肌に己の気構えが溶けてしまうのではないか、と思ってしまうのだ。
だから、戦陣に限っては、彼は決して女を近づけなかった。これが、後代になってから編まれたこの史記に、「ザハールは高潔な男であった」と記される要因のうちの一つであるのかもしれない。
彼が愛した女は生涯のうちただ一人であったが、そのことは史記のもう少し後の頁において描かれるから、今は触れぬ。
翌朝、早速鐘が鳴った。集合の合図である。
二百人の傭兵は、彼らのために張られた簡単な幔幕から起き出し、それぞれの部隊長のところへ集合を始める。
踊り巫女どもは、それを見て、囁くのだ。
「あの男が最期に抱いた女が、わたしになるかもしれないのね」
可哀想に、と。
傭兵とは、多分に悲しい存在である。実際、彼らのうちの幾らかは、昨夜抱いた踊り巫女が最期の女になるであろう。
むしろ、女でも抱いていなければ、恐怖で圧し潰されそうになるのだ。
戦いとは、そういうものであった。
ザハールも、ルスランも、別の陣にあるが、二人は恐怖で圧し潰されそうには見えない。ザハールは、戦いの中で己が失った、あるいは得るはずであったものを、掴もうと。
ルスランは、歓喜と生の実感のために。
史記曰く、ザハールに付き従うペトロとイリヤは、このとき、ザハールが得た金貨でもって、戦陣に商売をしに来ている行商人から粗末な剣を買い与えられた。
その剣でザハールの背を一突きにし、かねてからの計画の通り、名剣と残り一枚の金貨を奪ってもよかったのであるが、この二人は、ただその剣を握り締め、震えるのみであった、と皮肉を交えて記されている。
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